聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

何でも霊のせい

何かあると霊のせい

 

事業や商売における不振、損失は霊障によるものばかりと限りません。

 

特に、現在のように、政治、経済など社会の変動が激しい時には、社会の動きを良く見極めずに仕事上のかじ取りをしたことによる事業、商売の不振という事も非常に多いのです。

 

また、社会情勢を無視してやみくもに投資したりすれば、当然、失敗の確率の方がグンと高くなってしまいます

 

例えば、いま日本ではちょっとした金ブームですが、この金についてはこんなことあります。

 

買っておけば必ず値上がりして儲かる、という事で買った金だったのに、買った途端にどんどん値下がりしと大損をしたなどという場合、これは霊障による失敗ではなくて、社会の動きを見る目が甘かったことによる失敗と言えます。

 

金の二大産出国は南アフリカソ連です。

 

そして、この二大産金国が世界の国々に対して大量の金を売り出すと、たちまち市場は供給過剰となって荷崩れが起こり始めます。

 

ちょうど近年の金市場がそのような状態なのですが、これはソ連、およびソ連圏の同盟国の穀物不足が原因しているのです。

 

ソ連は、自国産の金を世界に向けて大量に売りさばくことによって、穀物輸入のために必要な資金を捻出しているのです。

 

だから、金の値動きは、ソ連圏の穀物が豊作か凶作かによって決まる、と言われているのです。

 

これは、霊とは関係のない人間界の経済の問題です。

 

また、日本の織物業界は、現在、ほとんど不況にあえいでいます。

 

安い賃金で生産される外国の生地が我が国に輸入されることによって、高い自国の布地の売れ行きが減少しているからです。

 

その他、米作農家などは、実際には売れても売れなくてもできた米を政府が買い上げるという食糧管理法にもとづく措置がなければたちまち不況にあえぐことになってしまいます。

 

こうした事情から言えることは、事業や商売の不振という事については、政治、経済、社会の動きによって大きく左右される場合もあります。

 

世の中には、どんなに能力があって社会情勢に精通していて、しかも朝から晩まで一所懸命働いていても、悪霊の仕業で、することなすことあてがはずれてしまうという人も実際にいます。

 

しかし、社会生活を営んでいくうえで、事業の不振や投資の失敗、または対人関係など、何でもかんでも霊のせいにしてしまうのは間違いです。

 

 

   

 

 

何でも人のせい

 

この記事は、1982年初版の「大霊界3」のものですから、社会情勢が今とだいぶ違っていますので、その辺は了解してください。

 

でも、事業や商売は霊だけでなく、現実の人間界の政治、経済、社会の動きによって大きく左右される場合もあると、隈本確先生は書いています。

 

時代が変わっても、現実の人間界で生きているわけですから、そういう事だと思います。

 

 

何でもかんでも霊のせいにする人もいますが、霊ではなく、何でもかんでも人のせいにする人もいます。

 

端から見ると、どう見ても本人がやらかした事なのに人のせいにする人がいます。

 

霊のせいにするのも、人のせいにすることと似ているのではないかと思います。

 

霊や人のせいにすると、原因が自分でなければ気持ち的には楽だと思いますが、いつまでたっても問題は解決しません。

 

こういうことをしていると、いつまでたっても成長しません。

 

私は、そういう人には何も言いませんが、魂の親様が嫌な思いをされているのではないか、と他人事ながら気になります。

 

それにしても、この記事を読んでいると、隈本確先生が社会情勢をよく見て勉強をしていられるのには、さすがだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

神霊治療の効果は肉体だけではない

病気治療だけではない神霊治療

守護神の効用についてまず挙げられるのは、病気治療とそれに付随して霊媒体質からの脱却、という事です。

 

しかし、守護神の働きはそれだけではありません。

 

本当に力のある守護神が出現して、当人が心の底からすがった場合には、病気が治るばかりでなく、運勢全体が好転するのです。

 

隈本確先生の神霊治療を受けた人が、よくこんなことを言うのです。

 

「先生、実は私は宝石商なのですが、先生から治療をしていただいた日から宝石がどんどん売れ始めました。あの日、先生に守護神を出していただき、それ以来、一生懸命にご守護神を念じておりましたが、そのせいなのでしょうか」

 

「不思議ですね、先生から治療をしていただいて病気が治ったと思って喜んでいたら、商売の方にも変化が表れてきました。」

 

「魚屋をしておりますが、あれ以来、おかしいくらいによく魚が売れていくのです。多い日では、今までの倍くらいも売り上げがのびています。」

 

「私は広告代理店をして言います。ところが、先生から治療を受けて帰ったその直後から、仕事の依頼の電話がジャンジャンかかってくるようになりました。私は、先生には病気のことだけをお願いし、別に仕事がうまくいくようにとお願いしなかったのですが……」と、嬉しい報告や質問が、隈本確先生のもとに殺到しています。

 

確かに、隈本確先生は依頼人の病気治療以外の相談には全く応じていません。

 

それなのに治療後、依頼人本人からこのような報告を無数に受けています。

 

依頼人本人としては、そのような周囲の状況の好転や商売繁盛の状態を喜びつつも不思議に思われているようです。

 

そう思われるのも無理もありませんが、でも隈本確先生からすれば、当然のことです。

 

人間の病気の大半は霊障によって生じているわけなのですが、霊障が現れてくるのは、なにも肉体面ばかりに限らないからです

 

人は、自分の肉体に現れた霊障については、”病気の自覚症状”としてすぐに気が付きますが、その他の部分に現れた霊障についてはなかなか気がつかないものです。

 

本来、霊障がなければスムーズにいくはずの仕事にしても、永続的に低迷状態が続いていると、当人にとってはそれが"普通の状態”になっていしまっているのです。

 

ところが、たまたま受けた神霊治療によって霊障が解消されると、病気の状態と同時に肉体以外の面にあらわれていた霊障による諸々の症状も影を潜めていくことになるのです。

 

そこで、事業や商売、その他の対人関係などもことごとくスムーズに流れ始めるのです。

 

「神霊治療を受けた翌日から職場での対人関係ガラッと変わってしまいました。それまで、私のすることなすこと、全てに難癖をつけていた上司の対応が百八十度変わってしまったのです。今では、私に対してとても友好的で、おかげで仕事も気持ちよくできるし毎日が楽しく過ごせます」

 

「神霊治療を受けて以来、お願いもしなった夫の酒乱がピタッと止んでしまいました」

 

「あれほど反抗的だった子供が、不思議なくらい素直になりました」

 

これらのことは、言ってみれば、もともとは病気治療を目的として行われた神霊治療がもたらした副産物というわけです。

 

しかし、このことから、目に見えない霊障がいかに私達の日常生活の色々な場面に作用しているか、ということがよくわかっていただけるでしょう。

 

少々極端な言い方をすれば、実に霊障を受けたまま生活し、事業、商いをしているという事は、ちょうど体に馬フン、牛フン、汚泥を塗りたくったまま生活をし、事業、商いをしているようなものなのです。

 

そうすると、当然、それらの霊障を背負っている人達は霊障の嫌なにおいの感じがする、また、それら霊障を背負った人が出入りする仕事の場にも、霊障のにおいが染みつき、プンプン嫌なにおいがしてくるという事になります。

 

憑りついている霊のにおいが実際にしてくる霊臭については前に述べましたが、実際に臭いはしていなくても、霊障によって何となく人が近寄りたがらないような嫌な雰囲気を発散しているという場合も多いのです。

 

したがって、霊障を背負った人は何となく人に好かれない、仕事をしていても取引先の相手からうんとじられています。

 

周囲の人々に不信感を持たれる……、とこのよう具合の悪いことが起こってきて、その結果、仕事も対人関係もどうもパッとしないものになってしまいます

 

特に自分で商売をしている人とかセールスマン、営業マンなどは、神霊治療で守護神を出現させることによって売り上げ、セールスマンの成績などが目立って好転しているようです。

 

 

  

 

 

うちの場合

 

>本来、霊障がなければスムーズにいくはずの仕事にしても、永続的に低迷状態が続いていると、当人にとってはそれが"普通の状態”になっていしまっているのです。

 

この記事の話は、私にはよくわかります。

 

私の場合は、霊障は私や子供には肉体にはあまりなかったように思います。

 

その代りと言っては何ですが、毎日生活をしていると、なんでこんなことが起こるのかわからない、というようなことが多々ありました。

 

特に子供に多かったです。

 

以前にも書いたことがありますが、日神会に出会うきっかけになったことです。

 

次男が毎日頭を打つのです。

 

毎日のは軽いものです。

 

3カ月に一度は、階段を10段以上転げ落ちるとか、高窓から落ちて、落ちた先にあったレンガに頭を打って縫うほどのけがをしたり、5~6歳ほど年上の子とかけっこをしていて、年上の子がいきなり向きを変えた拍子にぶつかり、ひっくり返って倒れた先に門のレールがあって、そこに頭をぶつけたりとか・・・

 

書き出すとキリがないくらいでした。

 

次男の場合は、霊流を流してから、頭を打たなくなったのでやっぱり霊障だったんだろうと思います。

 

長男の場合は、3歳くらいの頃からなぜかわからないけれど、かみ合わないのです。

 

NHKの幼児番組に出てくる色んな子供の中にやだもん、という子がいます。

 

何を言ってもやだもんと拒否をする子です。

 

あの番組を見ていると、まるでうちの長男のことではないかと思えるほどでした。

 

それだけでなく、なぜか目に見えない誰かが長男と私の間にいて邪魔をしているような感覚でした。

 

私が長男のためを思っていったことややったことが、何もかもが裏目に出てしまったり、かみ合わなかったりの連続でした。

 

こんなことを書いていると、私の子育ての失敗の言い訳にしているように思われるかもしれませんが、私の感覚はそんな感じでした。

 

感覚的にいつも空回りをしている感じでした。

 

あの頃は、私と長男の間に霊がいるとは思いもしませんでした

 

今なら、霊流を流すのですが、あの頃はそんなことを思いもしませんでした。

 

できれば、長男の子育てをやり直したいくらいですが、時は戻りませんよね。

 

 

 

 

高級守護神になると優劣はない

高級守護神に優劣はない

 

守護神について、もう一つ注意をしておかなければならないことがあります。

 

よく一般の人は、五種類の守護神のうち、どの神が一番偉いのかとか、特に力があるのかと尋ねたがりますが、それは全く意味のないことです。

 

というのも、例えば同じ不動尊にしても霊界のどの段階にいるかという事で、その術や働きの力量が全く違ってくるからです。

 

五種類のどの守護神も霊界のより高い段階に住んでおられる神ほど、その力は優れて偉大なものになってくるのは当然のことです。

 

たとえ名称は同じ不動尊でも、低級霊、強大な力をもった悪霊もいれば高級神霊の持つすべての術、働き、力を兼ね備えた最高級の神霊もいます。

 

このように最高級の神の働きを有してくると、もはや不動尊は単なる不動尊ではなく、その名称さえもふさわしくない全能の最高神という事になります。

 

このことは、不動尊以外の毘沙門天権現大神、観世音菩薩、天照皇大神のいずれについても言えることです。

 

また、五種類の神の分類は、あくまでもその神の初期の性格の相異によってなされるのものであって、高き霊界に向上された守護神におかれては、どの神が優れているとか劣っているとか言う事は、全く次元を異にした問題であります。

 

 

   

 

 

人間界的発想

 

五種類の守護神のうち、どの神が一番偉いのかとか、特に力があるのかと尋ねたがりますが、それは全く意味のないことです。

 

この質問、実に人間界的ですね。

 

そうですね、今まで五種類の守護神の性格を教えてもらいましたが、性格であって、守護神も高き霊界に往生されたら、神様の優劣はありませんよね。

 

今回の記事の内容とは関係ないのですが、以前から思っていたことです。

 

人生で一番いい時期は60代だと思っています。

 

60代というと、たいていの人は年寄りの仲間入りの年齢と思っていると思います。

 

特に若い人はそう思うと思います。

 

私も子供の子どもの頃は、60代というとものすごいおじいちゃんおばあちゃんのイメージがありましたが、自分がその年齢になると意外とそうでもないと感じています。

 

最近の私の60代のイメージは、人生で最高に良い時期ではないかと思っています。

 

というのは、昔と違って今の60代は元気です。

 

まだまだ体は元気な人が多いです。

 

環境的に介護があったりお孫さんの面倒を見なければならない人は別として、そういう事情がない人は体はまだまだ元気でから動けますよね。

 

定年も過ぎて、社会のしがらみもないし自由です。

 

けっこう自分の好きにできます。

 

年を取ると我が強くなって、周囲を困らせる人もいますが、そういう悪い意味での好きにするのではなく、前向きなことです。

 

社会に役に立つことなどです。

 

私の場合は、社会に役に立つことではありませんが、日本史を学んでいます。

 

自分自身の向上になるかな、と思っています。

 

以前からもう一度自分が住んでいる日本の歴史を知りたいと思っていました。

 

この年になって今更歴史を学んでしょうもない、と思われるかもしれませんが、歴史というのは知れば知るほどおもしろいです。

 

見ようによっては真反対にも解釈ができるという事と、今まで単にでき事としてとらえていたものに、それには裏があるというか、そうせざるを得ない事情があるという事がわかると、とても面白いです。

 

例えばで言うとですが、もうご存知の方もいると思いますが、秀吉がキリシタン弾圧をしました。

 

私は、その事実を知っていましたが、それには理由がありました。

 

というのは、ポルトガルが日本人を奴隷として自国に連れて行っていたのです。

 

それを防ぐためでした。

 

それも実に巧妙で、昔の西洋人の植民地にする方法というのは、キリスト教を使っていました。

 

当時九州の大名の多くがキリスト教に改宗していました。

 

そうなると、ポルトガルにとっては扱いやすいのです。

 

大名の支配下にある領地の中の寺や神社を壊すことを指示し、教会の建設をするように言いました。

 

その後は、領地の民に全員キリスト教に改宗するように指示をしました。

 

当然従わないものが出てきます。

 

従わないものは、奴隷としてポルトガルに連れていきました。

 

それを知った秀吉が激怒し、キリスト教を禁止したといいます。

 

秀吉のイメージというとエロ爺という感だったのですが、知るとものすごく頭が良く、機転の利く人だったように思います。

 

今は、歴史を知ろうと思うといろんな動画が出ており、見ていてとても楽しく学べます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多信仰の弊害

多信仰の弊害

 

今までは、五種類の守護神がもつ主な特徴と、それが人間界に現れた場合にどんな長所や短所となって出てくるか、という事について説明をしました。

 

まだ守護神を出していない多くの読者の方々も、自分自身の性格をよく顧みられて、自分にはどの神霊の流れが最も強く働いているか、という事がわかっていただけたのではないかと思います。

 

しかし、人によっては五種類の神霊のうち、一体だけでなく二体も三体も、極めて強い力をもった強力な高級神霊が作用している場合もあります。

 

例えば、一人の人間の体に、権現大神と観世音菩薩の気質をもった強力な神霊の霊流が、ふたつながらに流られているという事です。

 

このことは、多くの神々に守られているようで、ちょっと考えるとよさそうで、実は好ましい事ではありません。

 

以前に書いた記事で、"多信仰の弊害”という事について言っています。

 

多信仰とは、文字通り多くの神々を祀ったり拝みまわったりすることを言うのですが、これでは当人の心も定まらないし、神々もそういう状態を非常に嫌われます。

 

一人の人間に、何種類もの神の霊流が流れているという状態とは、ちょうど"多信仰”と同じようなものです。

 

隈本確先生は若い頃、自分の性格が自分自身でもわからなくて、ずいぶん悩んだものでした。

 

その頃の隈本確先生の体の中には不動尊、権現大神、観世音菩薩という三体の強力な神の流れがあったのではないかと言います。

 

ある日は権現大神の流れのままに生き、人を人とも思わぬ傲慢さを丸出しにします。

 

観世音菩薩の流れの中深くあり、ある時は完全に不動尊の流れの中にあある自分を発見しました。

 

隈本確先生は、途端に気性が激しくなり、言動も荒々し、う、時には暴力的にさえなってしまうのでした。

 

隈本確先生は、そんな自分自身がつかみきれず、悩みました。

 

—―いったい、どれが、本当の自分なのだろうか?しかし、一番困ったのは、この三つの神の性格が同時にあらわれた場合でした。

 

険しく荒々しい息所と人を見下したような傲慢さ、そして他人に対する涙もろいまでの同情心、気弱さ、これらの心が一人の人間から一挙に噴き出した様ををちょっと考えていただきたいものです。

 

もう、こうなると一種の錯乱状態です。

 

このような隈本確先生自身の体験から、守護神は一人の人間について一体の身とした方が好ましいことがわかります。

 

その方が人間として心穏やかに暮らしていけるのです。

 

したがって、守護神の出ていない人で、自分の体に複数の強力な心理絵の流れが感じられる人は、特に自分の心の動きによく注意を払って、言動にも気を付けなければいけません。

 

自分の意志の力で、自らの心の管理、コントロールをしていく努力がぜひとも必要です。

 

 

   

 

 

合っているような合っていないような・・・

 

前回の記事にコメントをくださったきん様が、性格にはそうでないような少しあるようなという感じだと書かれています。

 

実は、私も同じような想いでいました。

 

私の頃はもうすでに聖の親様になっていたので、守護神を個々に出していただくという事もなかったのですが、自分自身の性格の傾向というのがどういうものなのか、という事を知りたくて考えてみました。

 

正直のところ、守護神の流れで自分が大きく影響を受ける、という考え方をしたこともなかったので、神霊学的に人の性格を見ると、そうなるのかなと思っていました。

 

自分の性格を見ると、全体でみると優しい方なんだろうけれど、こうと決めたら頑として動かないし、若い頃は思ったら口に出してしまうので、物凄い沢山の失敗をしてきました。

 

そうやって自分の性格を見ると、観世音菩薩の流れかなと思うのですが、前回の守護神の性格を見ると、

 

弱気を起こしてクヨクヨしたり、情におぼれやすいというのはぴったり当たっていると思います。

 

他人ごとに巻き込まれやすいのかもしれません

 

でも一つだけはっきりと違うと言えるのが、人に貸した金品の返済の要求ができないとか、イヤなことは"イヤだ”とはっきり言える方です、というか、言ってしまう方です。

 

これで、周囲の空気を壊した事いっぱいあるんです。

 

すがに人間長くやっているうちに、若い時ほどのこともないのと、年と共に図太くなって空気を壊したことも気にしなくなっている、という恐ろしい事にもなっている気がします……

 

こういう事を考えると、合っているところもあるけれど、合っていないところもある感じです。

 

人間色々ですね。

 

 

 

 

 

観世音菩薩と天照皇大神

お久しぶりです。

 

やっと書くことができました。

少しづつですが、書けるようになりました。

 

書けるようにはなりましたが、まだ少しづつなので、当分は不定期で行いたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

観世音菩薩と天照皇大神

 

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)

 

慈愛と救済をあらわす柔の神です。

 

生前は、宮人、尼僧、社会奉仕家だった場合が多いです。

 

観世音菩薩を守護神としていただいている人、またはこの神の流れを強く受けている人は、この神の性格どおり誰にも優しく、受け身で、争いごとを極度に嫌います。

 

観世音菩薩自体、慈悲心に満ちた神霊だから、この神の流れを受けた人も、それがそのまま性格的長所となってあらわれています。

 

しかしながら、争いごとを極度に嫌う性格は、主張すべき時にも自己を主張できないという性格的弱点となってしまいます。

 

また、人間界にも霊界にも善人や善霊ばかりがいるとは限りません。

 

どのような善意で対しても、人を欺き、困らせる悪人や悪霊もいます

 

そして、このような悪意の人や霊の餌食になりやすいのが、この観世音菩薩の流れを受けた人達なのです。

 

すぐに弱気を起こしてクヨクヨしたり、とかく情におぼれやすく、他人ごとに巻き込まれやすいのも欠点です。

 

人に貸した金品の返済を要求できない、といった弱い面もあります。

 

だから、観世音菩薩を守護神としていただいている人やその流れを受けていると思われる人は、極力気を強く持って、相手のペースに巻き込まれないように気を付けなければなりません。

 

そして、いやなことははっきりと"イヤだ”と言えるだけのドライな強さを持つことも必要でしょう。

 

人に同情するのもほどほどにしなければ、自分自身が破滅してしまいます。

 

特に、社会生活をしていくうえでは不動尊毘沙門天大神、権現大神の気質を取り入れていくように努力されるといいと思われます。

 

天照皇大神(てんしょうこうたいじん)

 

日本古来からの神道の流れをひく国津神の総称です。

孤高の神です。

横のつながりがなく、縦のつながり・流れの中に位置する神です。

天照皇大神を守護神としていただいている人、またはこの神の流れをを強く行けている人は、凛とした気高さに恵まれています。

 

したがって、周囲の人々に対しては信頼感、清潔感を与える反面、少々近づきにくい印象を与えることがあります。

また、精神的に非常に緻密なところがあって、唯信的思考が強いというのも、この人たちに共通の特徴です。

 

生活の面では、他人に煩わされることを好まず、むしろ一人で過ごすことを好む場合が多いです。

 

そんなわけでか、自然に生涯を独身で送ることにあったり、あるいは夫や妻と生別・死別して孤高の生活を一人楽しむというケースも、しばしばみられます。

 

性格的長所は、精神的に潔癖で曲がったことが嫌いだという事です。

 

しかし、潔癖も度が過ぎると温かみに書けた冷たい人柄となってしまう恐れもあります。尊大、高ぶりなどの他、弧高感が強すぎて一人で思い悩んだりしがちなことがあげられます。

 

 

   

 

 

 

優しい人と凛とした人

 

観世音菩薩ですが、世の中には本当に優しい人がいます。

 

きっとそういう方が観世音菩薩の流れを汲んでいる方なのでしょうね。

 

世界にこんな人ばかりだと、戦争など起こらないのではないかと思います。

 

現実は、難しいものです。

 

天照皇大神を守護神としていただいている人、またはこの神の流れをを強く受けている人は、凛とした気高さに恵まれています。

 

こういう人は、少ない気がします

 

凛とした気高さという姿は、個人的にはあこがれます。

 

孤高の人ですが、一本筋が通っていて何にも負けない強さをもっていたい、と若い時から願っていました。

 

いつも周囲を気にして、フラフラしていたものですから。

 

日神会に出会ってからは、少しはましになったとは思いますが、まだまだです。

 

いつか肉体を脱ぎ去った時に、凛とした魂になっていたいと願っています。

 

 

ありがとうございました

急な話ですが、しばらくお休みをしたいと思います。

 

なぜかわかりませんが、急に書けなくなりました。

 

なんだか一流の売れっ子作家みたいな、生意気なことを書いていますが、何故かわかりませんが、急に書けなくなりました。

 

今後、再開するか、これで終わるのか自分でもよくわかりませんが、今まで私のブログを読んでくださった方々に感謝をいたします。

 

もしかしたらまた再開するかもしれませんが、その時はまた読んでくださるとうれしいです。

 

今までありがとうございました。

          

毘沙門天大神と権現大神

毘沙門天大神と権現大神

 

毘沙門天大神(びしゃもんてんおおかみ)

戒めの力、術が最も強い神です。

人間は、しばしばこの神霊の力で、肉体の極度の苦しみを味わうことになります。

この神霊の力は、数百年、数千年と持続します。

生前は念力僧、仏法奉持者だった場合が多く、稀には武将だった場合もあります。

毘沙門天大神を守護神としていただいている人、またはこの神の流れを強く受けている人に言えることは、第一に念が非常に強いという事です。

したがって、自分では意識していなくても何となく周囲を威圧するような雰囲気を持っている人が多いです。

性格的長所は、粘り強く、決して中途で弱音を吐いたりしないという点です。

しかし、この粘り強さも執念深さとなったら短所になってしまいます。

尊大さ、傲慢さ、人の意見を聞かない我の強さ柔軟性の欠如などが短所ですが、総じて気難しく扱いにくい人が多いようです。

だから、毘沙門天を守護神としていただいている人やその流れを受けていると思われる人は、周囲に与える念・圧という事を十分考慮して、常に低姿勢と、思考の柔軟性を心がけなければなりません。

この神の流れを受けている人は、本人の意思のあるなしに関わらず、常に強大なる背後の力が働いているわけですから、それを管理せずにストレートに出していたら、周囲の人々から恐れられ、嫌われることになってしまいます。

以前、常に自分の心と言動をよく管理して、他人に尽くす生活を心がければ、強大な毘沙門天大神の力が良い方向に生かされて、人間生活の面で大成することでしょう。

また、この神の知らせ、戒めを受けている人は、肉体的には全身リュウマチ膠原病、半身不随、二十年にもわたる激しい頭痛、全身のしびれ・硬直といった、病気の中でも最も痛みの激しい者とか、非常に頑固なものに苦しめられることが多いのです。

 

権現大神(ごんげんおおかみ)

位と権威の神。

他の神霊の支配を受け付けない、広域の力と働きをもっています。

生前は時の権力者、大事業家、官史、社会的地位の高い人、武将だった場合が多いです。

権現大神を守護神としていただいている人、またはこの神の流れを強く受けている人、一種の風格が備わっていて、どこへでても威風堂々としています。

しかし、それがややもすると、周囲の人々の目には尊大とも傲慢とも見えることがあります。

性格的長所は、落ち着きがあって小さなことにクヨクヨとこだわらないことです。

そして指導力に恵まれているために、特に男性の場合、人の頭に立つことが多いのです。

しかしながら、性格のおおざっぱなところも、対人関係においては思いやりのなさとか無神経さという欠点としてああらわれてくることがあります。

また、とかく自信過剰気味で横柄なところがあります。

だから、権現大神を守護神としていただいている人やその流れを受けていると思われる人は、できるだけえらそうな態度、人を見下した態度を抑えて、周囲の人々に対する思いやりといたわりの心を養う事が大切です。

 

 

  

 

 

死後の世界の世間の認識

 

毘沙門天大神も権現大神を守護神もどちらも、名前からして強そうですね。

実際、どちらも強そうな感じです。

 

毘沙門天大神は、生前は念力僧、仏法奉持者だった場合が多く、稀には武将だった場合もある、とあります。

 

権現大神を守護神は、生前は時の権力者、大事業家、官史、社会的地位の高い人、武将だった場合が多いとあります。

 

やっぱり意志が強い人ですね。

 

この記事とは関係ないのですが、昨日ネットの記事を見ていたら、芸人のヒロシ氏が徹子の部屋に出演した時のことを書いた記事でした。

 

ヒロシ氏が黒柳徹子さんに「(死後の世界)はないと思っていますけど、いざ僕が死んで、本当にそういうところ(地獄)があったらどうしようと思うんですよ」とゆううつそうに言いました。

 

徹子さんは、「死んだら痛いとかないじゃないのよ」と苦笑していました。

 

それでも「わかんないですよ。鬼が金棒もっているかもしれないんですよ。」と脅かすヒロシに、徹子さんは「そしたら鬼のバカって言う。そうすると鬼は逃げますよ。全然怖くない。なぐるぞって言われたら、殴ってごらん、もっと痛い思いさせてあげるからって…フフフ」と微笑みを浮かべて笑いを誘っていました。

という記事でした

 

死後の世界の世間の認識って、こんなものかもしれません。

 

もっと現実の大霊界を知ると、人間であるときも大きく変わるし、戦争も減るかもしれません。

 

でも、こんなレベルだと肉体が無くなった時、動揺するでしょうね。

 

そうすると、家族友人知人の名前を呼びたくなるかもしれません……