聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

宗教のあり方

心の力次第

 

隈本確先生はある特定の宗教、それ自体の批判をしようとしているのではありません。

 

隈本確先生は、これまで、どのような宗教に対しても宗教そのものを否定したことはないし、今後も否定しようとは思いません。

 

それに、古今東西を問わず、事実、人間界倫理の良いことを教えているからです。

 

ただ、宗教のあり方が問題なのです。

 

隈本確先生は、「宗教」という名に悪乗りして世間に害毒を流す人間や組織に対しては、許せないという気分を強く持っています。

 

隈本確先生の所へみえる神霊治療依頼人の多くの方々が、治療後、時々次のような質問をする人がいます。

 

「実は、わたしは病気が治ると言われて、十年以上もの間○○宗教に入信しており、現在、○○の御本尊をお祀りしてあります。

ですが、いっこうに病気は治りませんでしたし、今日、こうして先生の神霊治療のおかげで病気は治ってしましまいました。

そこで、私の本心としては、もう、この辺で十年来の信仰をさっぱりとやめて、御本尊も片付けてしまいたい思っているんいるんですが、いかがなものでしょうか。信仰仲間や会の幹部の話では、そんなことをしたら大変なことになる、どんな事態に陥るやもしれぬというのです。

そんなふうに言われると、やはり恐ろしい気がしますし、もし、本当に何かイヤなことでもあったら、それこそ、大変ですし……」

 

このような質問を受ける度に、隈本確先生は、いつでも次のように言っています。

 

「ああ、どうぞ、安心してやめてください。やめて罰が当たるような宗教は、それは悪宗教の見本です。お祀りするのをやめたら罰を当てる本尊、案心して処分してください。悪本尊です。やめたら罰を当てる教祖、神、聖人でも神でもありません。悪霊です。」

 

と、このように言うと、読者の方々の中には、悪霊なら、なおさら恐ろしいではないか、と思われる方があるかもしれません。

 

しかし、それは杞憂であります。

 

というのも、神・仏・霊というものは、それがどんな高級神であろうと悪霊であろうと、あくまでも人間の想い、主体的な働きかけという心の技法によってこそ、現界に作用してくるものであります。

 

神・仏・霊とコンタクトをもとうと思ったら、わたしたち自身の心の力によるしかないのです。

 

したがって、宗教そのもの、会そのものには何らの力や働きがあるものではなく、本尊やお札にしても同様です。

 

次回に続きます。

 

 

   

 

 

やめる勇気

 

>そんなふうに言われると、やはり恐ろしい気がしますし、もし、本当に何かイヤなことでもあったら、それこそ、大変ですし……」

 

こういう気持ちは、私はよくわかります。

 

隈本確先生から見れば、くだらないと思われるかもしれませんが、長い間信仰を続けていると、お祀りをして当たり前になっていて、これをやめると罰が当たるのではないか、しかも同じ信仰仲間や幹部に言われるとよけいにそう思ってしまい、やめるというのは勇気がいることでしょう。

 

あれだけのことがあったオウム真理教にしても、名前を変えて未だに存続しています。

 

それが宗教の怖さでもあるのかもしれません。

 

>「ああ、どうぞ、安心してやめてください。やめて罰が当たるような宗教は、それは悪宗教の見本です。お祀りするのをやめたら罰を当てる本尊、案心して処分してください。悪本尊です。やめたら罰を当てる教祖、神、聖人でも神でもありません。悪霊です。」

 

隈本確先生からはっきりと、このように言っていただけるという事は、本当に心強いと思います。

 

安心してやめることができると思いますし、いざとなればまたここにきて浄霊をしていただけるという心強さがあると思います。

 

安倍総理を射殺したとされる山上の母親にしても、息子があのようなことをしていても、未だにやめる気はないようですし……

 

あの時の謝罪も確か、教団に迷惑をかけて申し訳ない、という謝罪だったと思います。

 

ため息しかありませんね。

 

 

 

 

 

 

 

仏罰の乱用

前回の続きです。

 

仏罰

 

「ふざけるな、人間の道も知らん人間が、仏の使いなどできるはずがないじゃないか!仏の使いとするとは、聞いてあきれるゾ!!」

 

すると、友人は怒りの表情もあらわに反論してきました。

 

「人間の道とはなにか!!」

 

「人間の道とは、人間の心の礼儀作法ではないか、人が食事をしているのに、上がれとも言わんのにずかずか上がり込んできて、ちょっと待ってくれと何回言わせたんだ!だいたい、お前みたいに人間の道もわきまえていないものが仏の使い、仏の使いと言って威張って、あちこちで傍若無人なことをしているから○○○会は悪口ばかり言われるんじゃ!もういいから、帰れ!!」

 

この隈本確先生の言葉に、顔を真っ赤にさせたまましばらく黙っていた友人は、やがて、おもむろに口を開きました。

 

「よし、帰る。しかし、いっておくがな、いんま(いまに)、お前に仏罰があたるぞォ」

 

「ようし、ならばお前が言う、その仏罰をあてる仏とはどんな仏か、名前を言ってみろ!!」

 

「それはな、○○大聖人様さ」

 

そこで、隈本確先生は、言いました。

 

「よし、それでは、ためしてみようか」

 

「どんなして、ためすのか」

 

「見ておれ」

 

そういうと、隈本確先生は隣近所にも響きわたるような大声で言いました。

 

「○○大聖人のバカーッ!!」

 

隈本確先生の怒声ギョッとした友人は、またしても必死になって言いました。

 

「いんま、いんま、罰があたるから見とけ」

 

「よし、それでは、もう一遍やってやろうか。○○大聖人のバカ―ッ!!」

 

隈本確先生が再びすごい剣幕で怒鳴ると、友人は、ついに、たまらないと言った様子で逃げ帰ってしまいました。

 

それにしても、実際のところ、この教えに帰依すれば救われると言った僧はいたが、この教えに帰依しなければ仏罰を当てるなどといった大悪僧は、いなかったはずですが……

 

こうして、学生時代あれほど仲の良かった川田君との関係は、後味悪く一巻の終わりとなっていしまいましたが、果たして、彼の言ったように、隈本確先生に仏罰があったったのだでしょうか。

 

もしそうだとしたら、現在の隈本確先生の栄光は、いったい何なのでしょうか。

 

現にこうして、以降25年以上、隈本確先生は何らの罰も当たることなく、実在する神霊であるご守護神のお力をいただきながら、ますますの研鑽と発展の道を進んでいるのです。

 

あの友人は、当時、○○○会の新聞配達をして生計を立てていたのですが、その後はよくわからないそうです。 

 

 

 

 

 

Aさん、何しに来たのかわからない

 

>実際のところ、この教えに帰依すれば救われると言った僧はいたが、この教えに帰依しなければ仏罰を当てるなどといった大悪僧は、いなかったはずですが……

 

納得です。

 

そうですよね、帰依すれば救われると言った僧はいたが、この教えに帰依神蹴れば仏罰を当てるなどといった大悪僧はいなかったはず、上手いですね。

 

私の○○○会員の件での体験談です。

 

私の上の2人の子は学年が2年違いますが、丁度その間の年齢の子をもった熱心な○○○会員のお母さんが同じ地区にいました。

 

熱心な会員だという事を噂で知っていましたので、子供が同い年ではないこともあり、挨拶位であまり立ち入ったことに関わらないようにしていました。

 

やたら愛想の良い人で、話すと長そうなのと子供の自慢が多かったので、それもあって距離をとっていました。

 

そんな人が、子供たちがお互いに成人をしてだいぶたったころに、急に我が家にやってきました。

 

その人をAさんとします。

 

Aさんはしばらくの間、当たり障りのないことを話していると、急に○○○会の会長は素晴らしい方で、お隣の国のトップと会談もできる間柄、だと言い始めました。

 

私は普段はあまり強くものを言わないつもりでいますが、(人から見た私は、どうかわからない)宗教と訪問販売は、近所親戚関係なくはっきりという事にしています。

 

その件に関しては、自国にミサイルを向けている国のトップと話ができるなんて、自慢にもならないことを、と思いましたが、そこはグッとこらえました。

 

あの国は宗教を否定しているはずだから、外国の一宗教のトップと会談するというのには、それ相当のお金を積んだか、お隣の国に相当の利益がある話を持ち込んだか、両方かどちらかでしょう。

 

と言ったら、Aさん、びっくりした顔をして「……そうかも」と言いました。

 

しばらく考えて、みんな世界中が平等で、同じがいい」と言い出しました。

 

それに対して私は「世界中の人が平等は良いけれど、どんな方法で平等にするのか、同じにするのか、一年中寒い国と、一年中熱い赤道直下の国と平等だから同じことをしなさい、は違うんじゃないの。どこの国も昔から長い間続いてきた習慣や、積み重ねがあって皆安心して暮らせるんじゃない。それを捨てて、今日から世界中の人に同じことをしなさいは、かえって不幸になるんじゃないの」と言ったら、Aさん何を言っていいのかわからなくなったのか、私の知っている○○○会員の何とかさんは、お隣の国に詳しいし知り合いもいっぱいいるから、紹介しようかと言い出しました。

 

とんでもない話なのではっきり断りました。

 

結局Aさんは、何をしに来たのかわからにままで、帰りました。

 

あ、それと、いつもの子供の自慢はしっかり言っていました。

 

 

 

 

                                                   

隈本確先生の友人

隈本確先生の友人

 

これから書くことは、隈本確先生が20代半ばの頃に体験したことです。(今からだと約65年前)

 

当時の新興宗教の入会勧誘活動がいかに非常識で強引だったか、よくわかっていただけると思います。

 

でも、このようなことは、現代でもあちこちで起っていることであり、同様の体験をした方はかなりいるはずです。

 

もう二十数年前も以前のことになりますが、ある日、学生時代に仲の良かった友人の川田君がひょっこりと隈本確先生の家を訪ねてきました。

 

ところが、この川田君の様子が以前とは違って、おかしいのです。

 

たまたま、この時、隈本確先生は食事中だったのですが、彼は、隈本確先生が招き入れるより先に部屋の中に上がり込んできたと思うと、そのままどっかりと座り込んでしまいました。

 

彼は、食事は済ませてきたという事なので、とにかくしばらく待ってもらう事にしましたが、彼の様子は何か不自然で、しきりに部屋の中をきょろきょろと見まわしたり、そうかと思うと、何か傲慢そうなそぶりを見せていました。

 

突然、彼は、隈本確先生の方を見ずにぶっきらぼうに言い放ちました。

 

「おい、隈本、あんたは神ば祀っとっとかァ」

 

見れば、彼の目は、神棚のあたりに注がれており、その目は心なしか蔑むような光をたたえていました。しかし、隈本確先生はそれに答えず、言いました。

 

「ちょっと待ってくれよ、今、食事をすませてしまうから」

 

それで、彼はしばらくは待ったまま、またしても部屋の中をキョロキョロと見まわしているようでしたが、二分とたたないうちに再び口を切りました。

 

「オイ隈本、あの神は、神棚は、早く燃やしてもうた方がよかですばい」

 

「オイ、ちょっと、とにかく待ってくれんか、今食事をしておるんだから」

 

すると彼は、今度はそばにいた隈本確先生の奥様に向って言いました。

 

「奥さん、あんな役にたたん神棚は、早く燃やしてしもうた方がよかですばい」

 

学生時代の友人だからと思って、それまで我慢をしていた隈本確先生も、これには、堪忍袋の緒が切れました。

 

しかも、当時の隈本確先生は、大変血気盛んで癇癪持ちでもあったからなおさらでした。

 

隈本確先生は食卓の前に座ったまま、友人をグーッとにらみつけると言いました。

 

「オイ川田、お前、何しに俺の家に来たのか!」

 

「仏の使いで来たとじゃっか!」

 

この友人の言葉に隈本確先生は、ますますムカムカっと来ました。

 

そういえば、彼は最近ある宗教団体の会員になったという事を、ちらと聞いていました。

 

しかし、それがこのザマなのか、まるで、トラの皮を借りた狐のような傲慢そのものの態度でした。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

選挙の件での電話

 

もしかしたらこの川田さんという方は、○○○会の会員なのでしょうか。

 

○○○会は、仏教は良いけれど神社を嫌うと聞いたことがあります。

 

○○○会は、私も近所や知り合いに会員がいますので、体験談が2つあります。

 

細かいのを入れるともっとありますが、大まかに言うと2つです。

 

今回と次回に分けて書きたいと思います。

 

私の生まれ育ったところは北陸です。

 

現在は関東に住んでいます。

 

私の子供の頃は、とにかく大人からは○○○会員には近づくな、付き合うなと言われていました。

 

私の小学校と中学の同級生に、一家で○○○会の会員の家族がいました。

 

同級生は、その家族の中でも末っ子でした。

 

お兄さんが数人いて、市議会議員と893がいると聞いていました。

 

私の家と彼女の家は同じ地区内とは言え、少し離れていましたし、子供心にそういう事もあって距離を置いていました。

 

だから、ほとんど付き合いがありませんでした。

 

ところが、20年くらい前だったか30年くらい前だったと思いますが、電話があったのです。

 

今にして思えば、彼女はどうやって私の家の電話を知ったのでしょう。

 

電話では、久しぶりだね、から始まって、お互いの近況を話して、おもむろに○○○会の会員のいつもの選挙のお願いでした。

 

そういわれると、だいたいいつもは、わかりました、で終わるんですが、その時は、色々と話して一時間くらいになりました。

 

私も腹黒いなぁ、とは思いましたが、電話はいらないな、と思いましたので、彼女からかかってきた電話なので、電話代は彼女の方になるので長電話でもいいかな、と思い電話を切れないように長々とこちらからいろんな話をしました。

 

その後、彼女から電話がかかってくることはありませんでした。

 

お礼の電話はなく、はがきがきていました。

 

北陸から関東までだとけっこうの金額になると思い、わざと長電話をしました。

 

一応わかりましたとは言いますが、一度もあの党に入れたことはありません。

 

こういうのは、神霊学的にはどうなんでしょうか。

 

現世の話なので、現世の知恵で解決だからいいのかな、と思っています。

 

 

 

 

 

日神会の目標

 

日本神霊学研究会の神霊学は新しい分野の学問

隈本確先生は、「大霊界」シリーズを発行して以来、日本全国から病気治療や霊界の事から、先祖供養、心の問題、そして宗教の事についてまで、問い合わせや質問が殺到したと言います。

 

著書出版で、否応なしに社会の表に引きずり出されましたが、これまで築いてきた隈本確先生の神霊学が、いったい、今の世の中でどのような学問の分野に入るのだろうか、とふと考えこんでしまう事あると言います。

 

隈本確先生が打ち出している神霊学は、医学でもなければ心理学でもありません。

 

かといって、教義を中心とした組織としての形式的な宗教でもありません。

 

いわば、これまで全くこの世に存在しなかった新しい分野の学問であると思います。

 

けれども、隈本確先生は、独自の神霊学をますます研磨し、発展させ広く一般にその有効性を知っていただき、霊障による病気、不運で苦しむ人たちを一人でも多く救うことのできる霊流理論を窮め、一般に普遍化させるために、

昭和57年末、宗教法人の認証を受けました。

 

それにつけても、隈本確先生は、今日までの我が国の宗教がいかに時の為政者たちと癒着しつつ、互いに利用しあいながら、その勢力を増大させてきたかという事を痛感せざるを得ません。

 

今日まで、一般既成宗教についてほとんど門外漢だったのですが、このたび、そのアウトラインを調べていくにつれて、そのことを深く思い知らされた次第です。

 

歴史を通じて、宗教は時に文科省的な、法務省的な働きをし、さらに厚生省的な役割さえ果たしながら、為政者たちの活動の一端を担って、文化という名の砦の中に位置してきました。

 

そして、さらに今日の宗教の多くは、宗教本来の道を大きく外れて、単なる産業化へに道を急ぎつつあるように見受けられます。

 

しかも不思議なのはいまだに科学万能を信じている人も多い現代の日本で、ナンセンスな迷信がはびこって、迷信産業がますます盛んになりつつあることです。

 

こうした状況下で、一部の宗教団体などは、まさに金銭を吸い上げる巨大マシーンのような観さえ呈しています。

 

太古、宗教は有能な神霊能力者に手にゆだねられており、彼らは、正しく神霊と人とのとりもちを行ってきました。

 

そして、偉大な霊界人たちの知恵や力はしばしは現界に顕現され、人々は、何よりも「心」「魂」というものを感性の分野で強く認識しながら生きていたはずです。

 

けれども、時代が下がって権力志向のものがより多く表れ、さらに日本全体が近代的科学万能主義の波にさらされ始めた頃から、急速に有能な神霊能力者たちの数は減少の一途をたどっていったのです。

 

と同時に、神霊と人間との正しい交流が崩れていく中で、様々の迷信が生まれ始めました。

 

神霊能力者たちの亜流は、いわゆる街の拝み屋と堕し、一層、おびただしい迷信がはびこる結果となっていきました。

 

一方、有能な神霊能力者たちのいなくなった能力者不在の宗教は、組織形態のみを教えながら、深く政治と結びついて、その地位をゆるぎないものとしていきました。

 

今日、坊さんと言えば葬式、神主さんと言えば結婚式と相場が決まっているような観がありましたが、いずれにしても、核心が抜けて形骸化してしまった現代宗教のありようをまざまざとみせつけられる事態であります。

 

では、権力志向で前進し形骸化してしまった現代宗教のありようをまざまざと見せつけれれる事態であります。

 

では、権力志向で前進し形式主義の砦を固めつつある宗教と、はたまた迷信志向で流れたる宗教とのはざまで、人々を幸福に導く真の宗教は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。

 

こうした状態を見るにつけ、私達人類は、ぜひ、ここで宗教というもののありかたを見つめなおし、そして、軌道修正をしていかなければなりません、と強く強く感じるのです。

 

さもなければ、本来人類に平和と喜びとをもたらすはずの宗教というものが、全く逆に、社会を混乱させ、ひいては人類を破滅に流れる結果となってしまうでしょう。

 

 

  

 

 

日神会の初心を忘れず続けましょう

 

隈本確先生は、独自の神霊学をますます研磨し、発展させ広く一般にその有効性を知っていただき、霊障による病気、不運で苦しむ人たちを一人でも多く救うことのできる霊流理論を窮め、一般に普遍化させるために、昭和57年末、宗教法人の認証を受けました。

 

日神会の目標は、これだったんですよね。

現実は厳しいですね。

 

今は、武漢肺炎(一般にはコロナと言われている)のせいで聖地も閉まったままです。

 

でも、私達会員信者が直接聖の親様はじめ、天命界の神霊の方々と繋がることができます。

 

この日神会の目標を忘れず、頑張っていきましょう。

 

>一方、有能な神霊能力者たちのいなくなった能力者不在の宗教は、組織形態のみを教えながら、深く政治と結びついて、その地位をゆるぎないものとしていきました。

 

なんだか今の時代をそのまま表している気がします。

 

今、テレビ新聞が騒いでいるそのままでしょうか。

 

でも、その宗教団体よりもっとすごくて、政治だけでなくマスコミ、警察などにも深く入り込んでいると言われている宗教団体もありますが、なぜかそこはスルーです。

 

 

 

 

神棚や仏壇は神仏の象徴

神棚、仏壇は霊界や先祖に対する一つの指標

 

これまでの隈本確先生の説明を読んできて、神社、寺院、墓を初めとして、神棚、仏壇、その他諸々の宗教的物品にいたるまで、それが、私達人間にとって全く無価値なものと思っているとしたら、それは少々いきすぎです。

 

悪念のこもった物品は論外として、例えば家に祭っていある神棚にしても仏壇にしても、それは神仏の象徴であり、現界人としてにとっては霊界や先祖に対する一つの指標としての役割を果たしているのです。

 

隈本確先生がよく言われているように、霊界の存在なくして人間界が成り立ちえないのだとしたら、わたし達人間は、よくよく霊界というものを心にとめながら生活をしていかなければなりません。

 

ですが、人間は、仕事やら日常生活のいろいろな事柄に心を奪われやすく、とかく、目に見えない霊界や守護神の存在を忘れがちです。

 

そうだとすれば、当然、人間生活の中でに霊界も必要になってくるでしょう。

 

神棚、仏壇、墓、お札などは、私達が諸々の現世的雑事に振り回されている毎日の中にあって、わずかな時間でも霊界や先祖に対して想いをはせ、守護神とより強くコンタクトするための指標物として意味を持っているのです。

 

したがって、このような観点から見て、現在、一般によく言われている神棚や仏壇を置く場所やあるいは墓相のあれこれなど全くこだわる必要のない事であります。

 

のみならず、そのようなことにとらわれるということ自体が、すでに当人が迷信の世界に陥っていることの証拠であり、まさに地獄の窯の蓋をあけつつある心の姿勢と言うべきです。

 

やれ墓のつくりや石の色がどうの、立派な神棚、仏壇できちんとお祀りしなければご先祖が喜ばない、などの言いぐさは、真実の霊界とは縁もゆかりもない、それら祭式行事に関わる商売人、事業形の欲に目のくらんだたぶらかしの発言にほかなりません。

 

神棚、仏壇、墓などが、私達現界人にとって霊界に想いをはせるための指標であれば、それらのものに対しては、あくまでも日常生活に支障をきたさない範囲内で、常識的に対処しなければならないはずです。

 

神・仏・霊に関する一般人の知識不足に付け込んで、とことん甘い汁を吸ってやろうという宗教産業に携わる一部の人達のたちの悪さには、あきれ返るばかりです。

 

一般人の神・仏・霊についての無知が迷信を生み出す格好の温床となり、さらに、その迷信をさかんに鼓吹して金儲けに奔走する地獄の亡者がいます。

 

迷信に踊らされたあげくの果てに破滅した人が、現界で生きながら地獄を体験するとすれば、迷信をからめ手にとって金もうけをする人々は、さしずめ、地獄の使者というべきでしょう。

 

地獄とは、すでに現界に存在している世界でもあります。

 

 

   

 

 

最近のお墓事情

 

>例えば家に祭っていある神棚にしても仏壇にしても、それは神仏の象徴であり、現界人としてにとっては霊界や先祖に対する一つの指標としての役割を果たしているのです。

 

確かにそうだと思います。

 

神棚や仏壇は、古くからある家ならあると思いますが、新しい家庭の場合は、ある特定の宗教を信じていないおうちの場合は、そういった類のものは一切ないおうちの方が多いのではないでしょうか。

 

最近私が気になっていることがあるのですが、私達の年代の人達が行う人が多いのではないかと思いますが、墓じまいをする人が増えています。

 

その他には、新しい家で自分たちが初代と言われる人たちの家庭ですが、家の墓というのではなく、一定期間お寺に管理をお願いをして、その後は無縁仏のような形になるというものです。

 

今は、他にもいろんな形のお墓があるようです。

 

隈本確先生がよく言われているように、霊界の存在なくして人間界が成り立ちえないのだとしたら、わたし達人間は、よくよく霊界というものを心にとめながら生活をしていかなければなりません。

 

今では私はテレビ新聞は全く見ていませんが、見ていた頃、墓じまいをしている人の様子を放送しているのを見たことがあります。

 

色んな終活があるものだと思いながらテレビを見ていた時に、ある若い人の体験談を言っていました。

 

両親共に、先祖の墓参りに大変な思いをしたからでしょう。

 

両親は、子供たちが遠くにいるし、お墓参りに大変な思いをしないようにと先祖からのお墓も墓じまいをして、自分達もある一定期間だけお寺に管理をしてもらって、後は無縁仏にしたというものでしたが、子供の立場からすれば、その期間を過ぎた後は、親と向き合いたくても向き合う場所がなくて困ったという話を聞きました。

 

長い人生の間、遠くに離れているとお盆だ御彼岸だと言われてもなかなか帰省ができず、罪悪感が残るという思いもあったのかもしれませんね。

 

でも、あそこには両親がいる、と思うだけで安らぐという事もあったかもしれません。

 

私の場合は、今の家も実家も先祖代々の墓があり、そんな心配もありませんが、新しくお墓をつくらなければいけないとか、子供たちも遠くにいてお墓参りもままならない、という場合だと、考えてしまうかもしれません。

 

良念でも悪念でも波長が合わなければただの物体

自己治療法の公開

 

隈本確先生は、ご自分のご守護神の霊流をひいて、読者自らが自己の病気を治すという画期的な霊流理論の一部である「自己治療法」を公開しました。

 

その結果、本に書いてある通りの方法で自己治療に取り組んだところ、病気が治ったとか軽くなった、あるいは、本を胸に当てて「隈本先生、お願いします」と念じたところ、不安感やイライラがすっかり消えてしまった、などという報告やお礼のお便りが続々と寄せられ、とても喜んでおられました。

 

それにしても、以前に「大霊界」に掲載した自己治療法や、「大霊界」の書物自体にどうしてそれだけの力があるのでしょうか。

 

それは、心の世界、神霊世界の霊妙不思議な働きについて知れば、よく理解できることです。

 

すでに「大霊界」シリーズの読者である方々は、そのことについて十分に理解されていると思います。

 

しかし、「大霊界」にあっては、その「高い自己治療効果」という事について、もう一つの重要なカギがあったのです。

 

実は、隈本確先生は、あの本の扉やカバーに掲載されている自己の写真の原版に、「どうか、この世の中で霊障に苦しむ多くの人達を浄霊し、少しでも病気を治したまえ」と一心不乱に念じて、隈本確先生自身のご守護神の霊流を封じ込めておいてあるのです。

 

だから、心の底から「隈本確先生、お願いします」と願いかけ、超意識の世界で隈本確先生と心の波長が合わせられた方々には、「大霊界」の著書を媒体として、隈本確先生のご守護神の最高の霊流がストレートに作用したのです。

 

一方、いくら隈本確先生の著書が手元に置いてあっても、隈本確先生と深い意識の世界で波長を合わせることができなければ、その人は、隈本確先生の本からなんらの霊流を感じないし、病気も治せず、幸運も訪れません。

 

これが、意識(心)・神霊の世界というものです。

 

前置きが長くなりましたが、要するに言いたかったのは、どんな良念がこもったものでも悪念がこもったものでも、当人がそれに対して心の波長を合わせさえしなければ、それらのものは、少なくともその人はただの物体に過ぎないという事なのです。

 

だから、もし、あなたの家にお祀りしてある神仏像、掛け軸、お札、お守りなどに、運悪く悪徳行者の怨念が込められていたにしても、そのものが発する悪念に対してあなた自身が低い想念で同調さえしなければ、何ら恐れることはありません。

 

それは丁度、外国から送られてくるラジオの短波放送を国内用の長波の受信機でいくら聞こうとしてもウンでもスンでもないのと同じことです。

 

お焚き上げするなり、どのように処理しようとも、それはあなたの自由だし、そのことによってあなたの身に不幸が降りかかってくるなどということはありえません。

 

中には、色々な神仏具や宗教的物品に囲まれつつ欲望、恨み、不安、恐怖、悲しみなどの暗い心にとらわれて生活している人がいたら、たった今心のチャンネルを切り替えなければなりません。

 

何よりも、あなた自身の暗い想念が同じように暗い想念をもった悪霊、低級霊どもを呼び込んでしまう事に早く気がつかんければならなりません。

 

そして、明るい心になったところで、悪想念のこびりついたおどろおどろしい品々を、さっぱりと一婦してしまう事です。

 

隈本確先生を胸に描き、「隈本先生、お願いします」と明るい晴れ晴れとした心で念じながら、それらの物品を堂々と処理してください。

 

部屋を明るく清潔にし、あなた自身も、天高く、きらめく大霊界に思いをはせながら、大きく意識の方向を転換していくことです。

 

 

  

 

 

 

「聖の親様」にとても助けていただいた

 

>その結果、本に書いてある通りの方法で自己治療に取り組んだところ、病気が治ったとか軽くなった、あるいは、本を胸に当てて「隈本先生、お願いします」と念じたところ、不安感やイライラがすっかり消えてしまった、などという報告やお礼のお便りが続々と寄せられ、とても喜んでおられました。

 

私は今でこそ、ほとんどお札も本も何も頼らなくても、胸に聖の親様を想えば即温かいエネルギーを感じることができますが、初めの頃はお札もなくいつも本を頼りに、エネルギーをひいていました。

 

本にカバーを付けても、そのうちボロボロになってしまいました。

 

本は、とても人前には出せる状態ではなくなっていました。

 

何かあれば、即聖の親様とお願いをしていました。

 

心の乱れがあれば、即聖の親様でした。

 

あの頃は、自分の自由になる時間もお金もなかったのと、辛い思いを子供にぶつけることだけは避けたかったので、自分の感情を平常心に保つために、心が乱れそうになると聖の親様、とお願いをしていました。

 

どれほど助けていただいたかわかりません。

 

あの頃は、何かあれば聖の親様、としか思っていませんでしたが、今思えば、確かに紙という物体から神様からのエネルギーを感じ取るわけですから不思議ですよね。

 

そんなことを考えたこともありませんでした。

 

>あの本の扉やカバーに掲載されている自己の写真の原版に、「どうか、この世の中で霊障に苦しむ多くの人達を浄霊し、少しでも病気を治したまえ」と一心不乱に念じて、隈本確先生自身のご守護神の霊流を封じ込めておいてあるのです。

 

そういう事だったのですか。

 

この部分も読んでいたはずなのですが、読んだ覚えがありません。

 

改めて隈本確先生、聖の親様ありがとうございます、です。

 

>要するに言いたかったのは、どんな良念がこもったものでも悪念がこもったものでも、当人がそれに対して心の波長を合わせさえしなければ、それらのものは、少なくともその人はただの物体に過ぎないという事なのです。

 

という事は、良念にしろ悪念にしろ当人が、それに対して波長を合わせなくればいいという事ですね。

 

でも、自分でも意識をしていないと、悪念と波長が合う生活をしていると、影響を受けるという事なんですね。

 

部屋を明るく清潔にし、あなた自身も、天高く、きらめく大霊界に思いをはせながら、大きく意識の方向を転換していくことです。

 

この想いですね。

信仰熱心なつもりが・・・

前回の続きです。

 

悪循環

 

多くの人達が神仏画(神仏像)、宗教的掛け軸や位牌や経巻、お札、お守りを必要以上に尊奉や畏怖の特殊感情を抱き、また、こういう人達に限って、やれ法事だ法要だと言っては様々な宗教的祭式、行事に明け暮れています。

 

あるいは、家の中に立派な神棚や仏壇をしつらえただけではまだ足りず、あちこちの棚に神仏像を祀ったり、壁にはヘビやキツネが描かれた掛け軸をつるし、経文を書いた紙やおどろおどろしい呪符、護符のたぐいをペタリペタリと張り付けているのには、全く、やれやれという感じです。

 

しかも、こうした古物屋同然の家の中で暮らしている人達は、年がら年中、自ら祀った神仏具や書物に囲まれて、それらを拝みまくり、ご利益を求めたり呪いを恐れたりする不健康な精神生活を送っている場合が多いのです。

 

これでは、日常生活自体が、がんじがらめの金縛り的な息苦しいものになってしまうのも当たり前です。

 

かくて、家じゅうに祭ってある神仏具などの全てに、次第次第に当人に不健全な念が付着してくるのです。

 

先程も言ったとおり、隈本確先生のもとへお焚き上げとして持ち込まれる品々の約半数までに、それらを祀り、依頼心を注ぎ込んだ人間の欲望、不安、恐怖といった低い想念が付着しているのですが、そのような己の念がこびりついた品々にとり囲まれて生活していると、今度は、物体にこもった念が自分自身の身の上に跳ね返ってきて、心身共に縛り付ける結果となるのです。

 

一旦物体に封じ込められた念とは、現象界にそのような作用をひきおこすものなのです。

 

したがって、神社、寺院が発行した時点においては何らの神霊的作用をもちません。

 

単なる木片、紙切れにすぎなかったお札やお守りも、深い思い入れ込めてそれが祀られた瞬間から、祀り主の想いを受けて新たな生命を吹き込まれとごとく、物体でありながらある種の物理的な力をもち始めるのです。

 

と同時に、同じ波長をもった悪霊、低級霊が、それらの物体に、また、部屋に雲霞のごとく群れ集まり、付着してくるのです。こうなってくると、それは祀り主に対して、まさしく、その心(想念)を反映しる反射鏡となり、また、自然的に悪霊・低級霊招霊の原理が働き、祀り主当人には自繩自縛の状態が生じてきます。

 

だから、家の中には欲望、不安、恐怖といった悪想念を放射する物体が沢山あればあるほど、当然、「類は友を呼ぶ」法則にのっとって、悪霊の低級霊が好んでやってくるようにもなってしまうのです。

 

ここで、もう一つ言えば、宗教従事者自身の想念が、やれヘビ、キツネの祟りだ、水後の霊障だ、墓の作りがどうのこうのという方な低級霊思考であれば、その宗教、教団自体も、くらい低い想念の集団になってしまうという事です。

 

したがって、それらの教団、団体は憑依霊障がい者の集会的存在となり、入会、入信したばかりにかえって病気がひどくなったり、不幸が多発するといった現象も生じてきます。

 

それと同時に、本来、神霊と何の関係もなかったお札、お守り、その他の神仏具にしても、祀り主の想念いかんによっては、低級霊、悪霊のかかりどころとなり、それらを祀ってある部屋はもちろんのこと、家全体が低級霊、悪霊の棲み処と化し、妖気が漂ってくるものです。

 

その結果、家族に病人が絶えない――などなど、何事もうまくいかなくなり、低級霊、悪霊による蟻地獄の底辺の生活を余儀なくされるようになってしまいます。

 

 

  

 

私の体験

 

>家じゅうに祭ってある神仏具などの全てに、次第次第に当人に不健全な念が付着してくるのです。

 

今回の記事、けっこうありそうな話です。

 

本人は熱い信仰心があるつもりでいるのに、現実は反対の方向に行ってしまっているという……

 

怖いですね……

 

>神社、寺院が発行した時点においては何らの神霊的作用をもちません。

 

今回の記事とは直接関係ありませんが、数年前に私が体験した話です。

 

私はパソコン教室に通っています。

 

その頃、「パソコンからの電磁波から守ってくれるシールというのを欲しい人は売ります」と、先生が言うので、とりあえず3枚買って帰りました。

 

買って受け取った時は何も感じなかったのですが、帰宅してからそのシールを見ると、そのシールからとても嫌な感じのエネルギーを感じました。

 

私は、そのシールに霊流を流しましたが、流しても流してもそのシールから嫌な感じのエネルギーがドンドン流れてきて、際限がないのです。

 

丁度、日神会のお札から神様のエネルギーをいただいてもいただいてもなくならない、もっともっと流れてくるのと同じ感じでした。

 

私もこんなことは初めての体験でした。

 

私は怖くなってそのシールを捨ててしまいました。

 

捨てた後、先生やそのシールを買った仲間のことが気になりました。

 

次の週に先生を見ると、先生の全身を黒いものが包んでいる感じがしました。

 

私は、そのことを先生に言っていいものかどうか迷ってしまいました。

 

今の私なら言っているでしょうが、当時の私はその感覚が本当のものかどうか自信が持てなかったのと、先生を包んでいる黒いものと、シールにつながりがあるのかどうかわからず、結局何も言わずにいました。

 

ところが、その2週間後くらいにパソコン教室に行くと、先生の娘さんがいて、先生は意識不明で倒れたというのです。

 

それから私は物凄く後悔をして、娘さんが信用をするかどうかわからないけれど、自分が感じたことを娘さんに話して、真剣に遠隔治療を行いました。

 

それから数か月後に先生は元気にパソコン教室にに戻ってきました。

 

今でも元気です。

 

それからは、おかしいと思ったら、その人に伝えることにしました。

 

あのシールは、娘さんはお母さんに黙って捨てたようです。

 

パソコン教室の仲間は何もありませんでした。