人間の魂は本来はとても美しい
人間の魂は、本来は、とてもきれいなままです。
それが、乳幼児、少年・少女、青年、壮年、老年に至るまでの間に、魂を取り巻く環境に問題があるのです。
だから、長い人生の過程で魂にびっしりと悪想念をこびりつかせてしまった人の魂は、本来の輝きを失い、同時に高級神霊からの波動をも容易に受け付けないようになってしまいます。
そのような悪想念の殻を硬くまとってしまった魂は、逆に悪の波動を自ら流し、当然、悪霊の波動にも感応しやすくなっているのですから、現界にいるのに悪霊界の片棒を担ぐようなことさえやってしまいます。
このように、人間の魂が本来は正常なものだとしたら、霊の浄化救済という事は、霊体そのものではなく、その霊がこびりつかせている悪想念の浄化という事になります。
地獄界に棲む悪霊の招霊をし、それらの霊の浄化、救済をした体験を隈本確先生は数限りなく行っています。
神霊治療の基本は、霊の浄化です(神霊治療とは、人間の肉体に憑依をした霊を浄霊及び霊の救済、向上させることによって、結果的には肉体の疾患が治るという原理だから)。
地獄に落ちている霊が浄化、救済されているその瞬間は、周囲は白色を帯びた光のベールがそよいだようにさわやかな気配が広がって、さざめく黄金色、白銀色の光の束が縦横に交錯するのです。
キラキラと輝く世界が醸し出されてくるのです。
霊の浄化と救済という事の一連の事は、隈本確先生の胸中でつくられた霊界で繰り広げられることです。
隈本確先生は、隈本確先生の特殊な感性がとらえる極美の世界ですが、文字には表しきれないほど素晴らしい世界のようです。
浄化され、きらめく光体となった霊は、隈本先の意志の力を加える必要もなく、隈本先生の胸中を離れ、燦然と輝く光体の集団の世界へと自らと進んで行きます。
そして、隈本確先生は、その光輝く霊体を見送りながら、いずれは自分も行くであろうこの美の世界に対する賛歌の思いで、心うちふるえるのでした。
祈り――。
わたしたちの想念が、霊界と現界の双方に、美の賛歌を高らかに歌いあげんことを。
前回の記事で書き足りなかったこと
前回の記事に書き足りないことがありました。それをちょっと書きたいと思います。
身近なある人が亡くなった姿を書きました。
その人が二本足だと書きましたが、書き終わってから考えたら人間も二本足だから何にも変わっていないという事になります。
私が見た二本足のその人は、全身が小さくなって全体の姿が鶏みたいな感じでした。
だから、二本足と言っても人間の二本足ではありません。
鶏のような二本足で、歩くとよちよちという感じで歩いています。目は大きいのですが、黒目はとても小さいです。その霊の行き先は、もちろん地獄です。
常に聖の親様を
自分が困った時、どうしていいかわからないでいた時に、辛くて七転八倒していた時に、日神会に出会えていっぱい助けてもらい、今は何の支障もなく暮せるようになりました。
体も元気で、人付き合いも問題なく、穏やかに暮らせるようになりました。
日神会の事は、最初は感謝でいっぱいでしたが、そのうち日がたつうちにその気持ちもだんだん薄らいでいきました。
日神会のエネルギーは、人間界と違ってとても高く強いエネルギーですので、自分で意識して自分で強く願ってひかないと、あの素晴らしいエネルギーをいただくことはできません。
人間界で支障がない、日神会のエネルギーをいただかなくても普通に暮らしていける、となると、だんだん気持ちが日神会から遠ざかっていきます。
自分では祈っているつもりでも、気がつかないうちに祈りが形だけになったり、自分流になったり……
私も自分でも気を付けているつもりでも、時々ハッとすることがあります。
祈りの波長が聖の親様にあっていないのです。
形だけになっていることがあります。
以前、毎年日神会に行っていた頃は、日神会から帰る電車の中で、今年も一年心を引き締めて聖の親様に常に一緒にいていただけるように、と、切り替えていましたが、今は自分で常に意識をして生きるチャンスです。
私も自力で聖の親様の元に行きたいのです。
気を付けたいと思います。