聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

形だけの現代宗教

「心」を失った現代宗教

 

古来より伝統的に保たれてきた神社、仏閣はともかくとして、近年、いわゆる新興宗教と言われるものも、競うようにして大仰な殿堂を、あちこちに建設しています。

 

それが、いったい何十億、何百億かかったものか知りませんが、そそり立つ白亜の殿堂を見上げつつ、また、昔の城郭を思わせる威容をうちながめつつ、隈本確先生は、何とも不可解な思いにとらわれていました。

 

それら豪勢ではあるけれど超不自然な建築物は、果たして、実在する神、仏、霊と、どれだけのかかわりがあるのでしょうか。

 

また、私たち人間にとって、どのような意味を持っているのでしょうか。

 

隈本確先生には、それはむしろ、当の教団、宗教団体が人類に対してなしている無言の自己主張のように思われてなりません。

 

何より、その大仰な建築物の威容なだけで、十分に威圧的す。

 

人は、その威容を前にして、ただただ感心してしまうか、あるいは、無意識のうちにすっかり呪縛されしまうでしょう。

 

それは、教団の権威の一表現であり、ほとんど催眠的な効果をの効果をもつ教団の自己主張に他なりません。

 

隈本確先生はある時、そんな豪奢な建築を前にして、信者ではなく一般観光客と思われる人の口から「宗教団体は金持ちだなぁ」という感嘆の声が上がるのを聞きました。

 

まったくです。

 

しかし、よくよく考えてみれば、こういう状態は、ただ感心してばかりもいられない事態ではないでしょうか。

 

多くの宗教的活動から、実在する正しい神霊の働きが遠のいて久しい現在、それらを伽藍、もしくは神社、教会とよんでいいのか、とにかく宗教的建造物は、それが立派であればあるほど、一抹の不安とむなしさとを感じさせる存在となり果ててしまっています。

 

本来は、人間の心に平和と幸福とをもたらすべき宗教が、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

 

そのあたりのことについても追々明かしていきたいのですが、悲しいかな、見上げる白亜の殿堂は、「心」を失い、すっかり形骸化していまった現代に宗教の一面を端的に物語るシンボルになってしまっています。

 

 

   

 

 

電車の窓から見える観音様

 

>豪勢ではあるけれど超不自然な建築物は、果たして、実在する神、仏、霊と、どれだけのかかわりがあるのでしょうか。

 

私はほとんど電車に乗ることはありませんが、極たまに用事があって電車に乗ることがありますが、その時に電車の窓から見えるのが、とても大きな観音様です。

 

とても実在の神仏がいらっしゃるとは思えず、神様のエネルギーを感じるか気になり、神様のエネルギーを感じるかどうかみてみたことがありますが、全く感じません。

 

おそらく観光の目玉として建設をしたもののようです。

最近、その観音様の建設のいきさつを偶然知りました。

 

その観音様の建設は、戦前から始まっていたといいます。

 

そして、戦争が始まったので建設を続けることができなくなって中断したままだったものを、戦後世の中が落ち着いた頃に、財界人をも巻き込んで再開したといういきさつがあると言います。

 

観音様ができて、それから観光客が来るようになり、どこからかお坊さんを調達してきて、それらしくしたようです。

 

今では、海外からも来るそうです。

 

この記事を読んだとき私は、何とも言えない複雑な思いでした。