霊界の知恵と人間界の知恵
隈本確先生のことです。
隈本確先生が主催する会の会員の一人が、隈本確先生の手元を見て、不意に「アラッ、先生!」と言いました。
それから、さも「しまった、これはいけない」といった顔つきをして、さらに、隈本確先生の指先をジーッと見ているのです。
「なんですか、福田さん」
と、隈本確先生が問いかけると、福田さんは、困ったように口ごもりました。
「いえ……、でも、先生なら大丈夫でしょう」
「何が、私なら大丈夫なのですか」
「はあ、実は、その指輪が……」
ぼそぼそとそう言いながら、福田さんは、なおも隈本確先生の指先を見つめています。
それは、隈本確先生が愛用している金製のもので、隈本確先生自身のせいを彫り込んだ印鑑型をした指輪でした。
「実は、先生、名前の彫ってある、そういう印鑑型の指輪には良くないのですよ。
でも、それも、先生なら大丈夫だと思いますが」
福田さんは大まじめにそんなふうに言ったのですが、これには、隈本確先生は苦笑してしまいました。
福田さんの言葉によれば、名前を彫り込んだ印鑑型の指輪というのは運勢上に良くない影響を及ぼすとのことでしたが、隈本確先生は、その意味するところが全く理解できませんでした。
一体、どうして名前を彫った印鑑の指輪に、個人の運勢を悪くする働きがあるのでしょう。
印相学によっているのだか何だか知りませんが、実際的な根拠もない、そのようなことを意に介するすることはありません。
どうしても気になる人は、良くないと言われているものをわざわざしなくてもいいでしょうが、自分がその指輪を気に入っているのだったら、全く問題はありません。
現に、隈本確先生は、福田さんにそのことを指摘されてからも、ずっとその指輪を愛用していますが、隈本確先生の身辺に悪いことは何も起こっていません。
又世の中には、姓名判断によって名前を変える人も非常に多いのです。
高い命名料を払って、長年なじんできた名前をわざわざ変えるのです。
厄介なことです。
確かに、姓名の自覚によって運命を割り出していく姓名判断の場合、数多くの具体例にあたり、データをそろえていけば、統計的に一定の確率を示す数字が出てくるはずです。
がそこには、それが統計によるものであるという以外の根拠は何もないのです。いわゆる占いと言われる運命学全般について、隈本確先生は、専門外です。
しかし、隈本確先生は仕事柄、しばしば運命学をしているという人に病気治療依頼及び種々のアドバイスを頼まれる機会があります。
姓名判断にしても、四柱推命、易、気学にしても、それぞれ長い歴史と伝統とをもつ学問です。
隈本確先生は、あながち、そのすべてを否定しようというものではありませんが、言えることはいかなる運命学も人間の知恵の世界から生み出された学問であるという事であります。
したがって、高いご守護神をいただき、高級神霊と常に波長の合った生活をしている人達にとっては、姓名判断も印相も家相も、無意味と言えば無意味であります。
要するに、高き神霊の働きは一般運命学で測れる範囲を大きく超えてしまっているのです。
それは、霊界の知恵と現界の知恵の差でもありましょう。
かつて、高名な占術家が、隈本確先生に言いました。
「いかなる的中率を誇る運命学(占い)でも、高き神霊の力に歯が立ちません。
わたくしたち運命学の専門家は、高き神霊を扱う方たちの運命は鑑定しえない、という事をよく承知しております。
何故なら、あらゆる戦術の上を行くのが神霊の力であり、それは、しばしば先天的な運命を変えてしまう強大な力をもっているからです。」
六曜を気にする知人
>あらゆる戦術の上を行くのが神霊の力であり、それは、しばしば先天的な運命を変えてしまう強大な力をもっているからです。」
これは、私も本当だと思います。
詳しくは書けませんが、本来ある人が行くだろうと思っていた道が、長い間超神霊エネルギーを流し続けているうちに、その人にとって一番いいであろうと思われる方向に変わったことがあります。
これしか書けないので、この記事を読んでいる方には何がが何だかわからないでしょうが、隈本確先生が言っていることを、私は身近で見ることができました。
これとは関係のない話ですが、カレンダーによく六曜というものが書いてあります。
あの大安だとか仏滅とか書いてあるものです。
以前にも書いたことがあると思うのですが、私の知人にその六曜にものすごくこだわる人がいます。
私は、そういう事はほとんど気にしたことがありません。
でも、人によっては気にする人もいるので、一応時によっては相手にとって失礼のないように気を付けてはいます。
知人は、良くないことがあると仏滅だといったり、三隣亡だと言ったり、忙しいです。
だから私は、知人に仏滅だといっても、日本中の人が悪いことが起こるわけではないから、そんなに気にすることはないのではないか、と言ったことがありますが、知人にはその六曜が染みついているようで、抜けないようでした。
知人を見ていると、失礼ですが、自ら自分を不安にしているようにも見えました。