前回の続きです。
霊界を正しく把握
「石田さん、このようなお坊さんの姿が見えますよ」
「あっ、もう、近頃の伯父がいつもそのようにしておりますよ。
何かというと、すぐにそういう格好をして、ジーッと考え込んでいるのです」
「いや、これはあなたのおじいさまの霊界での姿ですよ」
「えっ?祖父の姿……」
「そうです、近頃、伯父様もそのようなしぐさをしょっちゅうするというのなら、おじいさまの霊に感応してるという事でしょう」
「はぁ……」
びっくりして、言葉も途切れがちになってしまった石田さんに対して、隈本確先生は、ここで少々厳しい説明をしなければなりませんでした。
神霊能力者として、「ウソも方便」では通らないと思ったからです。
「石田さん、よく聞いてください。
霊界というのは、私達が住んでいる現界とは全く異質の世界なのです。
あなたが言われるように、確かに、あなたのおじいさまは生前、よく修行を積んだN宗の立派なお坊さんでした。
しかし、おじいさまが信じ、精進なさった仏道それ自体、人間界発想の知恵の教えによるもので、霊界に実在する神・仏・霊の教えとは全然違うものだったのですね。
すなわち、おじいさまは、生きている人間があみ出した教えに従っての修行は奥義を極めていたでしょうけれど、霊界からの通信による修行をされたわけではなかったのです。
そういうわけで、あなたのおじいさまは、何一つ霊界について知らずに亡くなられ、そこで迷ってしまわれたのです。
そして、何もわからないままに、だんだん、だんだん、深い地の底に沈んで行かれてしまったという事ですね。
でも、もう、大丈夫ですよ。
私が今、深い地の底に沈んおられたおじいさまを私の体に招霊して、一挙に高い神の世界へ送って差し上げましたから、今後は、もう絶対にあなたのマブタがあかなくなる、というようなことはないでしょう」
この隈本確先生の説明を、息をのむようにして聞いていた石田さんですが、もちろん、目はパッチリとあいたままです。
そして、数日後、石田さんはさわやかな笑顔でお礼にみえました。
「おかげさまで、一年半ぶりに主人の顔をまじまじと見ました。
世界が見えるという事は、こんなに楽しい事でしょうか」
開口一番、そういった石田さんは、まるで子供のように全身に喜びをみなぎらせていました。
死後、霊界で苦しむのは、生前、悪心や嘆きの心を持っていた人ばかりとはかぎりません。
どんなに心の浄化に専念しつつ生きてきても、霊界というものを正しく把握していなければ、霊界入り後は、道に迷って泣き叫ぶ子供同然という事にもなってしまうのです。
そして、ただいまの実例でもはっきりとおわかりいただけたことと思いますが、供養のオーソリティーたる僧侶にしたところが、正しい霊界を知らなければ、死後、大変苦しむことになるのです。
現界で一般宗教家が行っている供養とか因縁切の行というものが、神霊学的に見たらいかに無意味なものであるかというも、これで理解していただけたのではないでしょうか。
霊・先祖の供養、因縁解除は、ものや形にこだわった現界的事象(墓、仏壇、儀式)でなされるのではありません。
それは、あくまでも高き神霊の働きでこそなされるものです。
俗っぽい話
>霊界というものを正しく把握していなければ、霊界入り後は、道に迷って泣き叫ぶ子供同然という事にもなってしまうのです。
これです。
人間界で言う理想的な生き方をして、何があっても清く正しくまっすぐに生きても、霊界を正しく把握していないと石田さんのおじいさまのようになるという事ですね。
先日知人2人と死後の世界があるかどうかと、話をしました。
知人の一人は「何もない、何もないと思いたい」と言いました。
もちろん私は、「ある」と答えました。
もう一人の知人は何も言いませんでしたが、以前に「あると思う、あると思いたい」と言っていました。
世間一般では、先の知人が言っていた「死後は何もない、何もないと思いたい」という人が残念ながら多い気がします。
2つほど、俗っぽい話を書きます。
一つ目は、まだ義母と同居していた頃、義父の法事をおこなう予定でいました。
その時期は丁度、お彼岸の頃でした。
お彼岸だと、お寺では檀家の人達が集まります。
そうすると住職など位の高い人たちが、そちらの方に行きます。
義母が言いました。
「うちの法事に位の低いお坊さんだと嫌だ」と。
もう一つの俗っぽい話です。夫と私が結婚をする前に、お互いの実家に行きました。
夫の実家(今の我が家)は、曹洞宗です。
私は、初めて曹洞宗の仏壇を見て、口には出しませんでしたが、心で思わず「しょぼ……」と思いました。
小さくてとても地味です。
私の実家は浄土真宗です。
浄土真宗は、とても派手で大きいのです。
夫は私と反対に、私の実家の仏壇を見て「派手で、でかい」と思ったようです。
同じ仏教でも宗派の違いで、真反対でした。