聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

「魔界の想念」

前回の続きです。

 

神に対する姿勢

自分の気持ちがスッキリして、神の世界に入り入りやすくなるというのなら、もちろん形式なこと、例えば立派な祭壇をつくることも悪いことではありません。

しかし、間違っても、立派な祭壇をつくったのだから、神は自分を守ってくれるだろう、などと考えないことです。

それこそが、隈本確先生の言う「魔界の想念」に他ならないからです。

少々誇張して言えば、「さあ、立派にお祀りをしたぞ、だから、今度は私をしっかりと守りなさい」といった感じで、神よりも人間・凡夫の頭が高くなってしまっているのです。

根本的に神に対する心の姿勢が間違っているとしか言いようがありません。

隈本確先生は、かつて、十年来の不安感、恐怖感に悩むうつ症状の人の神霊治療をして、一回で完治させたことがあります。

ところが、その依頼人が二回目にやってきたときにこんなことを言いました。

「先生、今までずっと感じていたわけのわからない不安感とか恐怖感は、まったくなくなりました。完全に治ってしまったようですよ。でも、おかしいんです。あの時、私は守護神を出していただきましたよねェ、それなのに、この間車の事故を起こしてしまいました。私の守護神が出ているにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったんでしょう。守護神は、私をいろいろな不幸から守ってくださるのではなかったのですか」

まるで、事故を起こしたのが隈本確先生や守護神の責任である、と言わんばかりの非難のまなざし、非難の声色です。

だが、いったい、その依頼人の日常生活のすべてを無条件で守ってあげなければならない責任が、隈本確先生や守護神にあるのでしょうか。

隈本確先生にしても、その方の守護神にしても、当人の召使いでもなければ、道具でもありません。

守護神におかれては「余は人間・凡夫の道具ではない。下僕ではない」と、厳然と言われているでしょう。

かくいう隈本確先生自身、三十年前の極端な霊媒体質時代には、心身の苦しみから逃れたい一心で金銭に糸目をつけず、ありとあらゆる神社仏閣をめぐり、宗教団体の門をたたき、はては巷の神々を訪ね歩いたものです。

しかし、今にして思えば、隈本確先生のそのような考え方こそ間違っていたのです。

 

次回の続きます。

 

 

 

 

こういう考え方の人けっこういそう

>間違っても、立派な祭壇をつくったのだから、神は自分を守ってくれるだろう、などと考えないことです。

それこそが、隈本確先生の言う「魔界の想念」に他ならないからです。

 

この考え方は、人間界では口には出さなくても心で思う人は、いそうです。

でも、この考え方は「魔界の想念」なのですね。

 

>おかしいんです。あの時、私は守護神を出していただきましたよねェ、それなのに、この間車の事故を起こしてしまいました。私の守護神が出ているにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったんでしょう。守護神は、私をいろいろな不幸から守ってくださるのではなかったのですか、

 

これは完全に、この人人間・凡夫の不注意ですね。

守護神を出してもらったから、何から何まで全部守ってもらえるというのは、これも「魔界の想念」なのでしょうね。

でも、こういう考え方の人はけっこういる気がします。

本人は、まったく悪気はないのでしょうが……