聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

心の姿勢

前回の続きです。

 

神様との取り引きになってはいけない

病気を治してもらいたいがゆえに神に祈る、不運から逃れたいがゆえに神に全品を奉納する、このような発想が、そもそも魔界的発想なのです。

もちろん、以前の隈本確先生にしたところで、全品に糸目をつけずに神様巡りをして、それで心身の苦しみから救われるという事は、全くありませんでした。

要するに、病気、事故、災難、その他の不運から逃れるために神、守護神すがり、祈りをささげても無駄だといいうことなのです。

病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。

「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」

というのでは、取引になってしまうのです。

取引が通用するのは現界だけなのです。

という事を肝に銘じておいてもらいたいものです。

私たちが、何の下心もなく、ひたすら純粋に神を求め、そこに高樹神霊の霊流をいただくことができたら、その副産物として、病気や不運といった霊障は自然に解消されるのです。

また、私たちが、病気、事故、その他の災難という現界的不幸に見舞われた時には、すべて自分の責任としてとらえ、いたずらに不運を嘆くことなく、おのれの至らなさを大いに反省し、心の底から神、守護神にお詫びをすることであります。

なぜなら、現界的不幸の多くは、自己の想念操作(心の在り方)を誤った時に生ずるものだからです。

逆に、思いもかけない幸運は恵まれたときには、あまり有頂天になりすぎてはいけません。

心の中にますます謙虚の想いをもって、神、守護神にお礼申し上げることです。

というのも、幸運とは日々純粋に神を求めた果報として、神から与えられるものだからです。

では、一口に言って、神に対する正しい心の在り方とは、どのようなものなのでしょうか。

それは、私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。

 

 神のみぞ 人の心をはかりけり

   たゆとう心の 奥の底まで

 

 

 

 

気が付くといつの間にか・・・

>「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」

というのでは、取引になってしまうのです。

取引が通用するのは現界だけなのです。

 

私は前回まで、こういうことを他人事のように書いてきましたが、自分では、そんなつもりではなかったのですが、いつの間にかこれだけお祈りをすればきっといい結果が出るはず……などと考えている自分がいました。

思い通りにならなくて、ハッと気が付く、これでは神様に失礼だと……

何度それを繰り返したかわかりません。

でも、気が付くとやっているんです。

やはり人間界にいると、現界的発想になりやすいんですね。

自分で常に気を付けていないと、いつの間にか取り引きになっています。

 

>病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。

 

この心の姿勢が大事です。

気を付けたいものです。

 

>私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。

 

この言葉は、私は素直に受け入れていました。

ところが、次男にこんなことを言われました。

「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。

最初、次男が何を言っているのかわかりませんでしたが、現界的に考えるとそうなのかもしれません。

だいぶ前に、私がまだテレビを見ていたころのことです。

テレビの中では、40代くらいの男性が親のことを言っていました。

この男性のご両親は、熱心なクリスチャンです。

この男性も、うちの次男と同じことを言っていたことを思い出しました。

ご両親のことを「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。