前回の続きです。
神様との取り引きになってはいけない
病気を治してもらいたいがゆえに神に祈る、不運から逃れたいがゆえに神に全品を奉納する、このような発想が、そもそも魔界的発想なのです。
もちろん、以前の隈本確先生にしたところで、全品に糸目をつけずに神様巡りをして、それで心身の苦しみから救われるという事は、全くありませんでした。
要するに、病気、事故、災難、その他の不運から逃れるために神、守護神すがり、祈りをささげても無駄だといいうことなのです。
病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。
「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」
というのでは、取引になってしまうのです。
取引が通用するのは現界だけなのです。
という事を肝に銘じておいてもらいたいものです。
私たちが、何の下心もなく、ひたすら純粋に神を求め、そこに高樹神霊の霊流をいただくことができたら、その副産物として、病気や不運といった霊障は自然に解消されるのです。
また、私たちが、病気、事故、その他の災難という現界的不幸に見舞われた時には、すべて自分の責任としてとらえ、いたずらに不運を嘆くことなく、おのれの至らなさを大いに反省し、心の底から神、守護神にお詫びをすることであります。
なぜなら、現界的不幸の多くは、自己の想念操作(心の在り方)を誤った時に生ずるものだからです。
逆に、思いもかけない幸運は恵まれたときには、あまり有頂天になりすぎてはいけません。
心の中にますます謙虚の想いをもって、神、守護神にお礼申し上げることです。
というのも、幸運とは日々純粋に神を求めた果報として、神から与えられるものだからです。
では、一口に言って、神に対する正しい心の在り方とは、どのようなものなのでしょうか。
それは、私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。
神のみぞ 人の心をはかりけり
たゆとう心の 奥の底まで
気が付くといつの間にか・・・
>「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」
というのでは、取引になってしまうのです。
取引が通用するのは現界だけなのです。
私は前回まで、こういうことを他人事のように書いてきましたが、自分では、そんなつもりではなかったのですが、いつの間にかこれだけお祈りをすればきっといい結果が出るはず……などと考えている自分がいました。
思い通りにならなくて、ハッと気が付く、これでは神様に失礼だと……
何度それを繰り返したかわかりません。
でも、気が付くとやっているんです。
やはり人間界にいると、現界的発想になりやすいんですね。
自分で常に気を付けていないと、いつの間にか取り引きになっています。
>病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。
この心の姿勢が大事です。
気を付けたいものです。
>私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。
この言葉は、私は素直に受け入れていました。
ところが、次男にこんなことを言われました。
「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。
最初、次男が何を言っているのかわかりませんでしたが、現界的に考えるとそうなのかもしれません。
だいぶ前に、私がまだテレビを見ていたころのことです。
テレビの中では、40代くらいの男性が親のことを言っていました。
この男性のご両親は、熱心なクリスチャンです。
この男性も、うちの次男と同じことを言っていたことを思い出しました。
ご両親のことを「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。