魂は見えない
人間の魂というものが、私たちの生殺与奪の権を握る偉大な存在であることがわかったところで、もう一度、人間というものについて考えてみましょう。
隈本確先生は、かねがね人間の構成要素は、肉体、頭脳、心(想い)の三つであるといっています。
そして、肉体と頭脳は死というものによって滅亡するけれど、心、人間の想いというものは死後もずっと残存するものである、という事も言ってきたはずです。
このブログを読んでいるほとんどの方にとって、もはや、ここまでは異論のないところだと思います。
しかし、「魂の存在」となると、少々面食らっている方もいるかもしれません。
わけても、しょっぱなから、魂とは独立した不滅の意志体である、などと言われてしまうと、それが、何か非常に不可解な怪物のような存在に思えてしまったとしても無理はありません。
ここで、ごく簡単に言ってしまえば、魂とは人間の心というものの最奥に居を構える独自の意志を持つ存在である、ということができます。
物質界と想念界と分類をすれば、魂はもちろん想念界に属しますから、姿も形も見えません。
つまり、人間の五感に映ずる存在ではない、ということなのです。
それですから、唯物論者は、人間には魂などないといいます。
彼らに言わせれば、人は脳や心臓の活動が停止した瞬間から単なる物体となり、荼毘に付されて無に帰する、ということになるのです。
そんな唯物論者にとって、目に見えない霊界の存在などわかろうはずもなく、同様に魂の存在についても理解を超えた夢物語のように聞こえることでしょう。
けれども、私たち霊界の存在を信じる者にとっては、目に見えない魂の存在を信じることも、また容易なことであるはずです。
魂は、人間が生きている間はその体中にあり、肉体の消滅とともに霊界へと赴きます。
要するに霊界とは想念だけの世界、無数の魂のうごめく世界、人間の五感には映らない世界、しかし、厳然として実際に存在する世界なのです。
古今東西を問わず、霊能者といわれる特殊な感覚の持ち主によってキャッチされた多くの霊界通信がそのことを裏付けているし、なによりも隈本確先生自身、霊界探訪は よくするところです。


遺体に対する感覚の違い
>何か非常に不可解な怪物のような存在に思えてしまったとしても無理はありません。
私が漠然と持っていた魂の存在と、日神会に出会って知った魂とはちょっと違っていました。
私が、日神会でいう魂という存在を知った時に感じたことが、まさに不可解な怪物とまでは言えませんが、いつも自分を監視している怖い存在に思えました。
今では、自分をいつも温かく見守ってくださる、そしてまちがっている時は厳しく指導してくださる存在だと感じています。
>彼らに言わせれば、人は脳や心臓の活動が停止した瞬間から単なる物体となり、荼毘に付されて無に帰する、ということになるのです。
これに関して、だいぶ前に海外に住んでいる日本人の話を読んだことがあります。
その海外に住んでいる日本人の隣人夫婦は、とても夫婦仲がよかったそうです。
隣人夫婦は、その国の人でした。
ところが、その隣人夫婦の奥さんが急に亡くなってしまいました。
あんなに仲が良かったのに、旦那さんが亡くなった奥さんの遺体を運ぶのにブルトーザーだったかフォークリフトだったか、そういうもので運んでいたそうです。
それを見た日本人の人は、思わず悲鳴を上げて止めたそうです。
隣人にしてみれば、愛していた奥さんといえども、もう亡くなった遺体はただの物体だ、ということのようです。
唯物論者でも、これは日本人の感覚では理解ができないのではないでしょうか。