聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

人間の体は動くようにできている

前回の続きです。

 

大切な人はこき使おう

「あなたは、お母さんがたいせつでしょう」

「はい、もちろんです」

いかにも当然、といった調子のお嬢さんの声、そこで、すかさず隈本確先生は言います。

「では、あなたは、今日からお母さんをこき使ってあげなさい」

「え?」

「もし、あなたがお母さんが大切で長生きしてもらいたいと思うのだったら、お母さんを大いにこき使うことですよ。しかしね、お母さんが早くいなくなった方が良いと思うだったら、お母さんには何も仕事をさせずに、全部あなた一人でやってしまって、お母さんをジーッと縁側にでも座らせておいたらいいんですよ」

隈本確先生がそこまで言うと、たいていのお嬢さんは笑いながら、いかにも納得でうなずきます。

「ああ、そういうことだったんですね。今まで、わたしは、体の弱い母にはなるべく何もさせないように気を付けていたのですが……、そうですね、今日から早速母をこき使うことにしましょう」

さて、隈本確先生はこんなふうに、同年配の若い娘さんに対しても、時に応じて全然違ったアドバイスをすることが良くあるのですが、それは、まったく同じ内容のことを言わんがための隈本確先生流のレトリックなのです。

要するに、ここで隈本確先生の言いたいことは一つ、どんどん体を使って、運動をしなさい、ということなのです。

甘やかされて家事の手伝いもまったくしない、その上に、何のスポーツもせずに家でゴロゴロしているようなお嬢さんは、その生活を改善しない限り、いくら神霊治療をしても、根本的に霊媒体(心)質は改善されることはないでしょう。

親孝行な娘さんに大事にされすぎているお母さんにしても、同じことが言えます。

自分は体が弱いから、娘が何でもしてくれる、いい娘をもったものだ……、と喜ぶのは良いのですが、それですっかり隠居然としてしまったのでは、娘さんの親孝行も逆効果というわけです。

人間の体というものは、もともと動くようにできています。

機械だって、動かなければさびついてしまいます。

それと同じことなのです。

 

 

 

 

人間がゴロゴロできるようになったのは最近

>人間の体というものは、もともと動くようにできています。

機械だって、動かなければさびついてしまいます。

それと同じことなのです。

 

そうなんですね。

人間の体は動くようにできているんですね。

いろんなものが発達して、人間がゴロゴロできるようになったのは歴史的にもここ最近ですよね。

本来の人間のあるべき状態ではないのですね。

 

話は全く別の話になります。

最近の私は、毎日の掃除のついでに少しづつかたずけをしています。

先週までは、子供たちも成人して大分たつので、お人形さんの片づけをしていました。

我が家の子供たちは男女どちらもいるので、五月人形とお雛様と両方あります。

だから、お人形さんの量はとても多く、昔の家の押し入れはとても広いですが、その押し入れの半分の上と下の3分の1をお人形さんが陣取っています。

義母が生きていた頃は、お人形さんの出し入れは私には触らせず、義母と夫がしていました。

正直、わたしは楽ちんと内心思っていて、お人形さんがどれくらいあるか知りませんでした。

今回かたずけるにあたり、改めてすごい量だ驚いています。

ここをかたずければ、いろんなものがしまえる、と思った私はお人形さんをかたずけることにしました。

最初は、小さいケースに入ったお人形さんや兜、刀などかたずけたました。

その次はお雛様をかたずけることにしました。

段ボールに入っており、それを開けるとびっしりとお人形さんが入っており、お人形さんの並べ方もを書いた用紙もありました。

それを見た瞬間、とても片ずける気がなくなってしまいました。

それだけでなく、何もする気がなくなってしまいました。

それから、その日は最低限のことだけにして、あとは何もする気がなくなってしまいました。

翌日気を取り直して、またお雛様の段ボールを開けるとまたかたずける気がなくなってしまいました。

そんなことが数日続いてしまいました。

これはおかしいと思い、わたしの片づける気力がなくなる原因がどこからきているのか、その想いはどこからきているのか探ってみましたが、よくわかりませんでしたし、今もわかりません。

ただ、どこからかお雛様をかたずけてはいけない、というメッセージが来ている気がしたので、また元あった押し入れにしまいました。

そのメッセージのエネルギーは悪い感じはませんでしたので、受け入れることにしました。

今は、わからないけれどわかる時が来るかもしれません。