聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

人生は霊界での生活のための準備期間

人生のための人生ではない

 

人生、わずか五十年か百年、人間の生ということについて考える時、永遠の時の流れの中で、わたしたちに与えられた、その持ち時間のあまりに短いことに愕然とさせられます。

しかし、すでにこれまでに神霊について多少とも学んできた私たちは、人がこの世で与えられた持ち時間を使い果たした後、さらに、霊界で長い長い持ち時間を課せられている事を知っています。

つまり、わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず、死んで魂だけの存在となって、永遠の大霊界で長い時を過ごさなければならないのです。

……が、そうはいっても、わたしたちが五感をもった肉体人間として過ごすこの世の時間がひどく短いことに変わりはないのです。

では、かくも短いこの人生は、いったい何のためにあるののでしょうか。

人がよく言うように、それは、あくまでも人生のための人生なのでしょうか。

もし、そうだとしたら、わたしたち人間は、そのつかの間の人生を目いっぱい楽しまなければ損ではないか、ということになってしまいます。

もちろん、人生を明るく楽しく過ごすことはいいことに違いありませんが、それが「旅の恥はかき捨て」ならぬ「この世の恥はかき捨て」といった調子で繰り広げられ、エスカレートしていくのでは見当違いも甚だしいのです。

「この世の恥はかき捨て」的感覚の持ち主は、結局、霊界の存在、ひいては魂の存在についてよく知らない人なのです。

本当に霊界の存在を理解し、魂の存在の重さを知っている人であれば、仮のすみかであるこの世で過ごす百年足らずの歳月が、霊界でも生き続けなければならない人間にとって、いかに大切な時期であるかよくわかっているはずなのです。

そう、わたしたちの人生は、現界生活だけのたった今の人生のためにあるのではありません。

人生とは、実に、永遠の霊界での生活のための修行期間であり、準備期間なのです。

だから、私たちは肉体をもった人間である間に、自己の魂に対して、霊界で生活するための十分な準備を整えておかなければなりません。

しかし、人間はとかく「人生のための人生」といった安易な考えに流されやすく、そのため、魂の存在を無視したいろいろな悲劇が発生することになるのです。

 

 

 

 

人生の先輩から教わる

最近の私の周囲では、人生の最終期に入った人の話をよく耳にします。

私の年齢を考えるとしようのない話ですが……

夫は、子供たちが小学生の時にPTAの役員を長い間続けていました。

その時の仲間の様子が耳に入ってきました。

その時の仲間は、役だからその範囲で無難にこなせばいい、という感じではなく、とてもバリバリに活動をしていていろいろな新しいことなどを挑戦していました。

市でもかなり注目をされていたようです。

最近耳に入ってきたのは、その人はどうも認知症になったらしいというのです。

その当時の様子を知っている者にとっては、認知症とは程遠いような人でした。

もう一人ですが、わたしが習っていた水彩画の先生です。

中学の元美術の先生でした。

校長を退いて定年退職をしてからも、私たちに絵を教えながら市を代表する画家として、市の美術館で2か月間個展を行ったりと活躍をしていた人でした。

その人も、最近は認知症になり奥さんもなくなり、施設に入られるようです。

そんな経歴があっても、施設に入るとただのお爺さんなんだなぁ……と複雑です。

今では亡くなって数十年たつのですが、夫の母方の祖父と父方の祖父もそれぞれに凄い人でした。

夫の母方の祖父は、農家の息子でしたが、自力で八百屋を立ち上げ、市では一番大きい八百屋を経営し、当時まだ市場がなかったので、祖父を中心に市場を立ち上げました。

そんな祖父も病院に入った時は、看護婦さんたちにとってはただのお爺さんなんだと感じました。

夫の父方の祖父は、国鉄で駅長をしていたといいます。

横浜駅や新宿の駅長をしていたというから、かなりのものです。

私が結婚して間もなく、お通夜に連れていかれました。

駅前にある立派なお屋敷でした。

その後、そのお屋敷を売ったのですが、15~16件の家が建っていたといいますから、かなりの広さです。

その祖父も晩年は、子供たちの家をたらいまわしだったといいますから結構気の毒だったようです。

人生が終わってそのあと、という前に人生の最後もなかなか難しい気がします。

人生の先輩に勉強をさせてもらっている気がします。