聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

魂を向上させることが大事

前回の続きです。

 

霊界での生活に備えて魂を向上させる

――人間は何のためにこの世に生を享け、何のために生きていくのでしょうか。

隈本確先生は言っています。

私達が現界人として過ごすこの世の生活は、人間が霊界入りする前段階の束の間のモラトリアム期間であると、そして、この時期に私達人間は、来るべき永遠の霊界での生活に備えて、十分に魂を向上させておかなければならないのです。

その魂の向上は、時として現界での熾烈な苦しみをあまんじて受けることのによって達成される場合もあります。

しかし、そのようにして現界で課せられた過酷なまでの試練を乗り越えた魂は、肉体を去って霊界入りをした暁には、一路、きらめく大霊界の高みに向ってずんずん進みゆくことでしょう。

このくだりの意味をよく考えると、人間界生活での真実の基本姿勢もだいたいわかっていただけるはずであります。

また、自殺という死の決算に対する善悪の判断も、このブログを読んでいる方々ご自身で下されることと思います。

いかなる人間の死といえども、それは人間界最後の決算であり、永遠の大霊界への初めの一歩であります。

その死の瞬間に、霊界での居住地もだいたい決まってしまうのです。

そうだとすれば、やはり、死とは、人間の過去、現在、未来を通して最大の問題であり、軽々しく扱うべき問題ではないでしょう。

 

 

 

>魂の向上は、時として現界での熾烈な苦しみをあまんじて受けることのによって達成される場合もあります。

しかし、そのようにして現界で課せられた過酷なまでの試練を乗り越えた魂は、肉体を去って霊界入りをした暁には、一路、きらめく大霊界の高みに向ってずんずん進みゆくことでしょう。

 

この世に生を享けて、このことを理解している人と、理解していない人では、肉体消滅時に大きくわかれることでしょう。

でも、現界での過酷な試練は乗り越えることができればいいけれど、その乗り越えようとしている最中というのは、とてもつらく苦しいものです。

 

そんな時に、聖の親様や聖なる御霊親様という日神会の神様からのエネルギーをいただくと、辛く苦しい試練を乗り越える知恵や力が湧いてきます。

 

先ほど、ジャーナリストの我那覇真子氏のとても怖い話を聞きました。

今カナダがとても大きく変わってきているということです。

私は、夕飯の片づけをしながら聞いていましたので、違うところもあるかもしれませんが大まかに言うと以下のとおりです。

カナダ政府が自殺希望者の手伝いを推奨しているというのです。

27歳のむすめさんが自死をしようとしたのを止めたのですが、それが娘さんの気持ちを尊重しなかったということで裁判になって、父親が負けたというのです。

父親がやったことは、親として当然のことです。

父親の気持ちを思うと、辛いですね。

そのように若い人が悩んでいると、国の機関が自殺を勧めてくるというのです。

もう、信じられない話ですが、本当のようです。

日本は欧米に追随することが多いので、心配です。

 

 

どんな自殺でもNO!

やっぱり自殺はいけません

隈本確先生は、今まで書いてきたことに対してとても危惧していることがあります。

それは、隈本確先生が今まで述べてきた自殺に関する説明について、それがあたかも自殺を美化し、読者の方々に対して、むしろ自殺を推奨しているかのように受け取られはしまいか、という心配です。

もし、そんな事になったら、それは人間界倫理の攪乱以外の何でもありません。

だから、この自殺ということについて論じるのは、隈本確先生にとっては、以前に水子問題について論じた時と同じように、ある種のやりきれない思いが付きまとうのです。

しかし、隈本確先生はやはり神霊能力者としての立場を貫き、正しい霊界というものを知っていただくために真実を述べることにしたのです。

「自殺をすると霊界で救われない、だから自殺なんかするものじゃない」といった式の生ぬるい方便で人を説得するよりは、霊界の真実を語り、そして人間の正しい心のあり方を理解していただくことの方がずっと大切なことと思われます。

隈本確先生はここで、今まで述べてきた自殺問題に対して一つの結論を出しました。

隈本確先生の考えは、自殺の善悪は別であっても、いかなる自殺をも肯定することはできないということです。

たとえ、国のためという大義名分のある戦争であっても、それが集団による自殺行為である以上、もちろん肯定するわけにはいきません。

以前に「霊界志向による自殺」の時にも述べましたが、偉大な文学者と対面した折の至福の境地を大切なものと思いますが、だからと言って、自殺そのものを肯定することは決してできません。

わたしたちは、本来においてどのような死に方をするかはわかりません。

しかし、いつ、どこで、どのようにしても、人間、その肉体に命ある限り、自己に内在する魂(生霊)に対してでき得る限りの奉仕をしていかなければなりません。

すなわち、現界にあって自己の想念を管理し、魂の浄化につとめていくということです。

それが、私達に課せられた、自己の魂に対する責任でもあるのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

内部からの侵略

>国のためという大義名分のある戦争であっても、それが集団による自殺行為である以上、もちろん肯定するわけにはいきません。

 

今でも世界では戦争が行われています。

現在の日本も危ないと言われています。

ここで言われている戦争とは、武器を使った戦争だと思われます。

現在の世界は、武器を使う戦争だけではなく内部から侵略されることが多くなっている気がします。

侵略されている方がほとんど気がつかないように、年月をかけて内部に入り込んで、侵略された方は身動きができなくなってから気がつくというものです。

もしかしたら、侵略されていても気がつかないで、生活が苦しいと言いながらもそれに対しての手立てがないままに、生きているという状況になりかねません。

お隣の国がウイグルの国の人達に行っていることは、まさにそれだと思われます。

現在は、ほとんど奴隷状態だそうです。

ひどい事に直接手は下さなくても、彼らの人件費はほとんどないので、極端に安い価格で大儲けをしている企業が世界にあります。

我が国にもあります。

消費者は、その実体にはほとんど関心がありません。

自分たちも同じ状況になる可能性もあるのにもかかわらず、世界の恐ろしい状況に関心がありません。

世界には、自分たちが儲かりさえすればいいという人間がいます。

もっと多くの人達に関心をもってもらいたいものです

 

 

善意の自殺

自殺をした人の魂の行き先

昔から言われている言葉の一つに、「自殺をしたものの魂は浮かばれない」というのがあります。

そして、霊界の実在を信じる人達の多くも、自殺者の霊は霊界で迷い、苦しんでいると考えているようです。

そんなわけで、自殺者の遺族の方々は、往々にして、身内が亡くなったという悲しみのほかに、割り切れない悲しみと不安をいだいてしまうのです。

しかし、以前から言っているように、意外に自殺と言っても厳密に考えれば、そこには天界入りの自殺および魔界入りの自殺も含まれれば、はたまた戦争の犠牲者、主君への忠義を果して殉死した臣下、あるいは即身成仏の名のもとに自ら果てていった僧侶たちも含まれるでしょう。

ここで、結論を先に行ってしまえば、結果的に自殺をなした彼らの全てが霊界で救われずに苦しんでいるということは、ありえません。

私達人間は、この世に生を享けて、職業をもち、家庭をもち、社会生活を営みます。

そして子孫をもうけ、人類繁栄のため各人各種のやり方で何らかの努力をしていくでしょう。

それが、人間生活というものだからです。

こうして、私達は自分に課せられたいろいろな仕事、この世での任務を全うした暁に、自然の淘汰によるところの霊界入りを果たすわけであります。

これが、人間の最も自然で望ましい、基本のすがたなのです。

しかし、世の中にはそれもかなわず、国家の忠義のために、主君への忠義のために、あるいは即身成仏の名のもとに、自らの生命を中断せざるを得なかった人々も実際にいます。

隈本確先生はこれらの人々について、先ほど、結果的には自殺をなしたと結論付けましたが、このような自殺を「善意の自殺」と言っておきましょう。

善意の自殺という言葉は妥当とはないかもしれませんが、より適切な言葉が見つからないので、ここでは一応そのように言って了解していただくことにします。

隈本確先生が、ここで言いたいことは、自殺行為ひとつを論じるにしても、そこには人間界倫理に照らして善として見られることと、悪として見られることがあるということです。

そして、このことを神霊世界から見た場合に、どのようなことになるのでしょうか。

先程もちょっと触れましたが、長崎市の西坂でキリシタンのゆえに火あぶりの刑に処せられた殉教者達は、死の間際、燃え盛る焰の中でさえキリストを信じて、唇にはほほえみすら浮かべていたといいます。

この時、彼らの想念はすでに美しき神界に飛翔していたのでしょう。

されば、彼らの魂は肉体の死後、輝く大霊界の高みに解き放されたはずです。

同じ自殺行為とと言っても、このように善意の自殺行為の場合には、死の間際の想念がだいたいにおいて崇高で美しいものです。

したがって、苦しみや恨みの悪想念に燃えながら霊界入りしていった霊魂とは、当然、霊界での居住区が違ってきます。

何故なら、自殺に限らず病死、事故死、老衰死のいずれにしてもその区別なく、死後、当人の魂がいかなる霊界に行くかは、死の間際の想念、心境によって決まってくるからです。

それは、たとえ母子、兄弟であってもわからない当人自身の死の間際の心のありかたの問題であるともいえます。

 

 

 

.死の間際になって魂が高いレベルになれない

長崎市の西坂でキリシタンのゆえに火あぶりの刑に処せられた殉教者達は、死の間際、燃え盛る焰の中でさえキリストを信じて、唇にはほほえみすら浮かべていたといいます。

 

そうだったのですか……

私は今、感動をしています……

こんなことが可能なのですか……

 

>彼らの想念はすでに美しき神界に飛翔していたのでしょう。

されば、彼らの魂は肉体の死後、輝く大霊界の高みに解き放されたはずです。

 

きっと高い神の世界に行かれたのでしょうね。

 

>死の間際の想念、心境によって決まってくるからです。

 

そうなんですよね。

死の間際になって急に、神界レベルの想念にはなりっこないのです。

だから、日ごろから魂を汚してはいけません。

気を付けたいものです。

 

見方によると自殺になる

見方によっては自殺・・・

今までの説明で、自殺の原因とその内容についてはわかっていただけたと思います。

しかし、自殺ということについて論じる以上、なお考えなければならない要素が残っています。

まず、戦争です。

歴史始まって以来今日に至るまで、世界の各国で戦争は行われています。

もちろん、日本も例外ではありません。

過去におおいて、日本人は戦争によってどれほど多くの血を流してきた事でしょうか。

この戦争ということについて考えた場合、私達は、それがほとんど一種の自殺を前提として成り立っているものであることに気づくはずです。

しかも、戦争というものがほとんど個人の意思を超えたところで進行していくところから、それは国家的規模の集団自殺行為であると考えられます。

また、わが国でも外国でもかつて見られた事例として、殉死というものがあります。

君子の後を追って家臣が自殺をすることであります。

あるいは、殉教はどうでしょうか。

長崎の西坂はキリスト者殉教の地として知られており、今も26聖人の碑や資料館があります。

仏道における、即身仏を願って自ら断食し、生きながら座棺に入ってミイラとなるような行為、これも、やはり一つの殉教の 姿でしょう。

と同時に、明らかな自殺と言えるでしょう。

このようにいろいろ見ていくと、世の中には一般的に言われている「自殺」とはちょっとばかり趣を異した自殺行為が無数にあることがわかってきます。

 

 

 

 

 

意外なものも自殺になる・・・

戦争、殉死、殉教、即身仏が見方によっては自殺と言える、なんて考えたこともなかったけれど、言われてみればなるほどと思えます。

 

>戦争というものがほとんど個人の意思を超えたところで進行していくところから、それは国家的規模の集団自殺行為であると考えられます。

 

本当に腹が立つのが、これなんです。

戦争というものがほとんど個人の意思を超えたところで進行しているのです。

戦争をすることを決める連中というのは、戦地に入っていないのです。

戦地に行くのは、これから未来のある若者達なのです。

戦争をしようと仕掛けてくる連中、戦争を煽るやつ、自分たちの欲望のためにどれほど多くの若者たちが命を落としてきたかわかりません。

 

>君子の後を追って家臣が自殺をすることであります。

 

これは、当時では当然として受け取れれていたのでしょうか?

それを知りたいです

君子の後を追って家臣が自殺をする、その家臣の替わりに埴輪を置いたのではないか言われている、と何かで聞いたことがあります。

それならそのほうが良いですね。

 

>長崎の西坂はキリスト者殉教の地として知られており、今も26聖人の碑や資料館があります。

 

このことは、私達は正確なことを教わっていません。

これだけを知ると、当時の秀吉が極悪非道の人間のようですが、でも現実は違ったようです。

何故なら、このキリシタン弾圧をしたことによって、当時は多くのアジアの国々が白人の国の植民地になっていたのにもかかわらず、日本は植民地にならなくてすんだのです。

私もこの話は、数年前に知ったばかりです。

当時、ヨーロッパの国々は狙いを定めた国に、まず最初に宣教師を送り込みます。

それは一応建前はキリスト教の布教です。

しかし、それだけではなく、というより本当の狙いは、狙いを定めた国の調査のためなのです。

日本も御多分にもれず、ポルトガルのターゲットになっていました。 

当時は、九州の何人かの大名がキリスト教に改宗していました。

大名が改宗すると、領民にも改宗をするよう勧めました。

中には、どうしても嫌だという領民がいました。

そういう領民は、奴隷としてポルトガルに連れていかれたと言います。

ということを何かで読んだことがあります。

奴隷にされたのは、5万人という記録もあるようですが、実際にはその何倍もいたのではないかと言われています。

それを知った秀吉が激怒し、キリスト教を禁止したと言われています。

秀吉は、極悪非道ではなく日本を守ったのです。

こんな大切なことを私たちは知らされていません

即身仏ですが、これは過酷ですね。

考えようによっては自殺ですね。

今回の自殺というものの見方は、私にとっては目からウロコでした。

 

 

麻薬禍による自殺(その2)

麻薬禍による自殺(その2)

以前、魂による自殺(その5)で魂の独立性ということを書きましたが、ここで、もう一度そのことを思い出していただきたいのです。

—―そう、私達人間の魂というものは、人間の想念とも違う独立した存在なのです。

だから、麻薬常用者の想念の世界がどのように気ちがいじみた混乱状態に陥ろうと、五感・知覚が崩壊寸前になろうと、魂だけは当人の内面世界のずっと奥の方に控えていて、そんな自分自身の姿をじっと見守っているのです。

そして、魂は汚れすさんだ自己の想念世界を容赦しないのです。

だから、心身に加わる諸々の麻薬中毒症状に対して、当人自身の魂がそれを嫌い、バランスの崩れた意識帯、想念界を忌避し始めたら、魂は自らの力によってその汚らわしい想念界、および肉体から離脱していくのです。

その時魂は、当人の自殺という手段をもって、自らの自由と独立を成就させることがあります。

これもまた、麻薬禍による自殺の一つなのです。

 

 

 

 

 

自己肯定感

>私達人間の魂というものは、人間の想念とも違う独立した存在なのです。

 

このことを最初に読んだときから、私の中で長い間?????が続いていました。

魂のほかに想念?

その時から、ズーッと心の隅に引っかかっていました。

最近はわかります。

 

>魂だけは当人の内面世界のずっと奥の方に控えていて、そんな自分自身の姿をじっと見守っているのです。

 

私はこのことはうまく表現ができませんが、魂と想念が別で、自分の内面世界の奥の方で魂の親さんが自分のことを見守っていることを感じられるようになりました。

私は、いつからか感じるようになったのですが、自分では魂の親さんに嫌がられることをしていないつもりでしたが、魂の親さんは私に対して不満まではいかないけれど、もっと変わってほしいと望んでおられることを感じていました。

でも、その何かが私にはわかりませんでした。

最近になってわかってきました。

ちょっと長い説明になりますが、人というのは思い通りにいならなかったときに出てくる想いというのは、2通りあると思っています。

一つは外に向かうタイプですが、もう一つは内に向かうタイプです。

私は、内に向かうタイプで、自分を責め過ぎてしまうことが多かったのです。

最近は、自分を責めることが減って、自分はこういうタイプだからと割り切って考えられるようになりました。

そうすると、とても気が楽になり今まで考えつかなかった解決方法が見つかりました。

その結果、魂の親さんも嬉しそうです。

今にして思えば、もっと早くに自分を肯定することができていれば、生きることがもっと楽だったのではないかと思います。

そう、今でいう自己肯定感が低かったのです。

 

麻薬禍による自殺(その1)

麻薬禍による自殺(その1)

麻薬による意識混濁状態に霊の憑依がくわわった場合の自殺とは、最終的には強度の霊媒体質となり、狂乱状態に陥ってなされる場合が多いのです。

それというのも、麻薬というものが、強度の霊媒体質を人為的につくる作用をもった薬剤だからです。

ある種の麻薬を服用することによって、人為的にトランス状態(入神状態)に入ったり、霊言現象、霊視現象、霊聴現象を引き出せるということは、医学的実験によっても証明されています。

つまり、麻薬を服用することによって、人間の五感・知覚が異常に増幅され、正常な状態では持ち合わせない第五感、六感、七感、八感……と、その感覚の範囲が広がっていくのです。

こうなると、人間はどうなるのでしょう。

例えば、先ほども霊媒体質の説明でちょっと触れた犬笛ですが、あの犬しか聞こえない犬笛のようなとてつもなく高い音が人間の耳にガンガン聞こえてきたらどうでしょうか。

動物にしかわからないかすかな地鳴りがゴーゴーと聞こえて、体に響いてきたらどうでしょうか。

また、太陽の光をプリズムに通過させると七色に分解されて見えるのですが、この太陽の光である七色が、そのまま人間の目に感知されたらどうでしょうか。

このような状態になったら、おそらく、今日わたしたちがこの人間界で感じている音の世界はがらりと変わるはずですし、風景の色合いにしても全く違ってくるはずです。

そして、麻薬常用による霊媒体質者には、以下の相が、現界のありさまにオーバーラップして見えてきたり、聴こえてきたりするわけです。

これらのことを深く掘り下げて言えば、要するに、五感・知覚が増幅されることによって、それら麻薬常用者のうえに意識の一大混乱現象が起きてくるということなのです。

麻薬常用者の内面世界においては、顕在意識帯、潜在意識帯、超意識帯も大混乱をおこし、五感・知覚の全てがパニック状態に陥ってしまっているのです。

それは、意識の崩壊であり、理性の喪失と言ってもいいのです。

したがって、このような状態の人間にあっては、霊の憑依がいとも簡単に行われ、ほとんど憑依霊の思うがままに操られるということにもなってきます。

その結果、不意の殺人行為とか不意の自殺といった狂乱状態が現出するのです。

 

 

 

>麻薬というものが、強度の霊媒体質を人為的につくる作用をもった薬剤だからです。

 

だいぶ前ですが、テレビで見たことがあるのですが、どこかの部族の中の偉い人が数種類の植物を混ぜて使って、占うようなことをしているのを見たことがあります。

今にして思えば、麻薬の一種の植物を使っていたのではないかと思います。

 

>第五感、六感、七感、八感……と、その感覚の範囲が広がっていくのです。

 

第五感、六感まではわかりますが、その先はどういうものかと思いきや、想像を絶するものを感知するんですね。

怖いですね。

 

>このような状態の人間にあっては、霊の憑依がいとも簡単に行われ、ほとんど憑依霊の思うがままに操られるということにもなってきます。

その結果、不意の殺人行為とか不意の自殺といった狂乱状態が現出するのです。

 

殺人にもつながったり自殺にもつながったりするのですね。

 

有名人の中にもかなりいたりするようです。

スポーツ界エンタメ界、その業界に関わっている人達の中にもかなりいるようです。

人づてですが、聞いたことがあります。

それを教えてくれた人の知人がいた業界が、薬物に汚染をされていたそうです。

その中では「君もやってみる?」と勧められたそうです。

強制はされませんが、その業界の中にいると同じようにしていないと出世ができないとかいうことがあったようでした。

難しいですね。

そして、その人はその業界にいる時は、誰にも言えなかったそうです。

自分がそれに手を出せば親を悲しませるけれど、皆と同じようにしていないと自分の未来はあまり希望はもてない、ということでずいぶん悩んだ結果、辞めたようです。

自分の夢だった仕事の業界全体が、そういうことに汚染をされていた、そういう理由で辞めざるを得ない、というのも納得がいかないですね。

生前の叔父さん

前回の続きです。

 

叔父さんは人格者だった

—―それにしても、叔父さんはなんて快活で、楽しげだったんだろう!

実を言うと、隈本確先生はその叔父さんの生前に、あれほど嬉々として楽しげなところを見たことがなかったのです。

叔父さんは、大変もの静かな人だったのです。

この葬儀が終わって三日ほどして、隈本確先生はお母さんに次のように語ったのです。

「母さん、叔父さんは透き通るような凄く綺麗な顔になって、スーッと霊界の高いところに上っていたったよ。心も体もとても軽くて、うきうきしているって、すごく幸せでも、もう二度と人間界には戻りたくないんだって、そんなこと言っていたよ」 

この隈本確先生の言葉に、叔父さんがなくなって以来すっかり沈み込んでいたお母さんも、嬉しそうに笑いながら言いました。

「確ちゃんは、霊界のことは何でも見えたり、聴こえたりして、わかるんだものね。でも、それで私もホッとした。本当に良かった。叔父さんが、そんなに幸せそうにしているんだったら、もう安心ね。

あのおじさんは妹のご主人ながら、本当によくできた人だった。心のきれいな、優しい人だった。あのおじさんが怒ったり怒鳴ったりしているところなんて、一度も見たことがなったものね。いつでも、だれに対してもおだやかにニコニコしていて、嫌味なんかも絶対に言わない人だったからねぇ。ほんとに神様みたいな人だったと思うよ。だから、きっと霊界でも高いところに行けたんでしょうね……」

しみじみ語るお母さんの表情が和んで、それから暫くの間、亡くなった叔父さんの優しい人柄をしのんで、思い出話のあれこれを語りました。

ところで、この話は隈本確先生が25歳くらい時のことです。

当時、すでに隈本確先生は色々な神霊の力をもっていたとはいえ、いまから思えば、霊界に対してまだまだ浅薄な理解しか持ち合わせておらず、まして、人間の魂の存在などということには思いも至りませんでした。

この頃の隈本確先生は、亡くなった叔父さんが霊界入りすることで幸せになったということだけですっかり安心し、それ以上深く考えようともしませんでした。

しかし、今にして思えば、叔父さんの魂は生前からずっと美しい霊界を志向し続けていたものと思われます。

叔父さんは、魂の霊界志向により、大きな苦しみもなく、若くしてその肉体を脱ぎ捨て去ったのでした。

 

  

 

苦しまずに逝った叔父さん

>本当によくできた人だった。心のきれいな、優しい人だった。       ↓

ほんとに神様みたいな人だったと思うよ。だから、きっと霊界でも高いところに行けたんでしょうね

 

このお母さんの言葉を読んでいると、生前の叔父さんという人がどんな人だったか想像できます。

最近の私、自分の魂がどのレベルかわかりませんが、自分の魂を汚さない方法として、自分が天命界にいると仮定をして生活をしています。

そうしていると、本当にこの人間界の汚さ醜さを感じます。

今までは、人間界だから地獄界レベルの人間も神界レベルの人間もいるから仕方がない、と思っていましたが、最近本当に嫌だと思うようになりました。

本当に残念なことに、そのひどく醜い原因をつくっている本人に限って、自覚がないんですよね。

そういう人に限って、うまくいかないと、その原因を人に責任転嫁します。

こういうことに関しても、以前の文学者の方も隈本確先生の叔父さんも、生前は感じておられたんだろうと思います。

 

>叔父さんは、魂の霊界志向により、大きな苦しみもなく、若くしてその肉体を脱ぎ捨て去ったのでした。

 

こういう感じが良いですね。

私の理想かもしれません。