聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

叔父さんは風邪をこじらせたけれど・・・

もう一つの霊界志向

霊媒体質者の霊界志向ということについて、ここで、もう一つの実例をお話したいと思います。

こちらは隈本確先生の叔父さんの死に関するもので、謎の死ではありませんでしたが、その死はやはり当人の魂が美しい霊界を志向していたが故の霊界入りと思われます。

以前にお話した文学者の霊界志向による旅立ちの話と合わせて、死の世界に対する認識を新たにしていただきたいと思います。

ちょっと風邪をひいて気分が悪いと言って、四、五日床に臥せっていた叔父さんが、突然高熱を出して、あっけなく他界してしまいました。

葬儀の日、家族、親戚の者たちは一人ひとり、それぞれ、柩の中に横たわる叔父さんに最後の別れをしました。

それは、小さな木の葉に浸した水を死者の口に含ませるという儀式でした。

さすがに他界して二日目、叔父さんの顔は死の相そのものでした。

隈本確先生は、そんな叔父さんの顔を見ながら、水を浸した木の葉を叔父さんの口元へ持っていきました。

と、そのとき、叔父さんの口元へ近づけた隈本確先生の右手辺りに、サーッとさわやかな一種の風が吹き、あたりの空気をわずかに震わせたように感じました。

それは、幼いころからしばしば隈本確先生のうえに訪れる、ある不思議な感覚の世界でもありました。

思わず、ハッとした隈本確先生は、そのまま静かに霊的感覚の世界に入り、さらに隈本確先生自身の右側の方へ、霊視間隔の世界を広げていきました。

すると、隈本確先生の目の前に、思いもよらぬ光景が展開されました。

そこには、たった今隈本確先生自身がお別れの儀式をしている、その完全な死の相をあらわした叔父さんとは似ても似つかぬ溌剌とした叔父さんが、スックと現れたのでした。

その顔色は、まるで少女のようにほんのりと桜色で、透き通るように清潔でした。

そして、その若々しい叔父さんは、いかにも快活な調子で隈本確先生に語り始めました。

「確ちゃん、確ちゃん、もう、そんな死体はほっときなさいよ。もう、そんな抜け殻にいろんなことをする必要はないよ。いくら自分の生前の肉体とは言え、そんな抜け殻はきれいじゃないよ。ほら、確ちゃん、ワシを見てごらん、こっちの方は、こんなきれいな、立派な姿をしているんだから。それに気分も上々だ。嬉しくて、嬉しくて、何だかうきうきしている。体も、物凄く軽いよ。

ああ、ワシは死んで霊界に来て、本当に良かった。思えば、ワシはずっとこの日を心待ちにしていたんだなあ。もう、どんなことがあっても、二度と古い体に戻って人間界で生活しようなんて思わないよ。確ちゃん、もう、ほっといて、ほっといて。こんなに心の体も軽くて、幸せなんだから……。じゃあ、行くよ、確ちゃん」

その言葉が終わるや、叔父さんはにっこりと微笑んで、緩やかに手の舞、足の舞をともないながら、天高く昇り始めました。

やがて、隈本確先生は叔父さんが銀色に輝く矢のごとくなって、澄み渡った大霊界の高きを目指して、どこまでも、どこまでも昇りゆくさまを見ました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

個人的にはうらやましい

個人的にはこんなふうに逝けたら良いなぁ、と思います。

人間界から見ると、前回の文学者の方は自らですが、この方は風邪をこじらせたというふうに見えます。

しかし、霊界から見ると文学者の方も、隈本確先生の叔父さんも霊界志向という面では同じだ、ということになるようです。

 

隈本確先生は叔父さんが銀色に輝く矢のごとくなって、澄み渡った大霊界の高きを目指して、どこまでも、どこまでも昇りゆくさまを見ました。

 

相当高い所に逝かれたようですね。

生前はどんな方だったのでしょう。

 

深い安堵と安らぎをたたえたご遺族

前回の続きです。

 

至福の世界にいた故人

隈本確先生の質問に輝くばかりの霊体いっぱいに至福のもいをみなぎらせた故人は、即座に喜びの想いの波動を返してきました。

「ごらんのとおりです。この世界こそ、この輝きこそ、わたくしが人間界で求めてやまなかった最高の美の世界です。こうして極限の美の世界の探求者としての目的を果たすことの出来たわたくし、いま、至福の想いに満たされております」

偉大な美の探求者である故人が到達し得た、その壮厳なる美の世界に自分自身の想いの世界をゆだねきっていた隈本確先生は、人間界でははかり知ることの出来ない大霊界の神秘のさまに、深く心を打たれるばかりでした。

これほどまでに燦然と輝きわたる美の境地、それは栄光の世界としか言いようのない輝かしい世界であります。

人間の生と死とは、何なのでしょうか。

そして、この輝かしい神秘の神々の住む霊界に対して、対照的なもう一つの霊界の存在を、どうとらえたらいいのでしょうか。

神と魔界――、あまりにも神々しい光の世界にありながら、神霊能力者としての隈本確先生の脳裏をそんな言葉がよぎっていきました。

こうして、無限の大霊界が織りなす神秘の様相に想いを馳せつつも、隈本確先生は自分だけしかひたることの出来なかった故人波動の世界と、そして、隈本確先生自身の波動の世界に対して、至福の想いを抱きながら我に返ったのでした。

この間、五分くらいでありましょうか、隈本確先生は、この時すでにご遺族の方に、隈本確先生が故人の想念世界に没入し、故人と交わした対話の全てを霊言(霊を自分の体に呼び入れ、その霊の想いを音声に出すこと)として言葉に出していました。

そして、さらに人間界には立ち戻った隈本確先生は、故人の晴れがましいばかりに輝く至福の境地のあり様について、人間界の言葉をあれこれ模索しながら語り、お伝えしました。

その一部始終を見聞きしていたご遺族の方は満ち溢れる涙をふこうともされず、深く、深くうなずかれるばかりでした。

「……ありがとうございました。本当にありがとうございました。

実は、わたくし自身、先生のただいまの霊言にありましたとおりの故人の想いの世界を感性的に感じておりました。

ですが、霊感事はなにも感知できなわたくし、いまひとつもの足りないような、寂しいような、満たされないものを、いつも感じていました。

でも今、わたくしの想いが間違いでなかったということが、はっきりとわかりました。

やはり故人は立派な人であったという確信が持てた今、わたくしは、故人を祝福し、その冥福を祈りに祈るばかりです。長崎まで出てまいりましたおかげで、わたくしの心の隅にあった空白の一つが喜びで満たされました。あつくあつく御礼申し上げます」

満面に深い安堵と安らぎの色をたたえて、深々と頭を下げると、遺族の方は帰って行かれました。

隈本確先生は、それから暫く、なおも故人の輝かしい至福の想念世界の余韻に浸りながら、人間の生と死の谷間の問題について、簡単には結論付けることの出来ない複雑な思いにとらわれいたのでした。

 

 

 

 

 

人の死は大霊界側と人間界側とは違う

>人間の生と死とは、何なのでしょうか。

 

私も最近感じるのは、人間界でとらえている人間の死と大霊界でとらえる人間の死は違う気がしています。

今でも世界中で戦争が続いています。

沢山の人の命がなくなり、亡くなり方も悲惨な場合が多いのです。

人間の側から見ると、人によってはそういう状況なのに神様は何もしてくれない、だから、神様はいないのではないかという人もいます。

人は死によって人でなくなるので、死というものをとても大事に感じます。

しかし、大霊界から見ると人の死というのは、終わりではなく霊魂だけになった新たな誕生のようです。

だから、大霊界から見ると、人の死も一過程なのではないか、と最近感じています。

 

>この輝かしい神秘の神々の住む霊界に対して、対照的なもう一つの霊界の存在を、どうとらえたらいいのでしょうか。

 

神の世界と地獄界、本当に対照的な霊界ですね。

できれば、私達はこの方のように輝かしい神秘の神々の住む世界に行きたいものです。

 

故人の想いの世界を感性的に感じておりました。

ですが、霊感事はなにも感知できなわたくし、いまひとつもの足りないような、寂しいような、満たされないものを、いつも感じていました。

でも今、わたくしの想いが間違いでなかったということが、はっきりとわかりました。

 

同じ体験はしたことがありませんが、このご遺族の方のこういう想いは、わかる気がします

良かったです。

 

美の追求

前回の続きです。

 

故人が求めたもの

故人に対面した隈本確先生は、霊界語で静かに話しかけました。

「何故に、あなたは、謎の霊界入りの道を選ばれたのか――」

故人の、想いの世界の波動いわく、

「わたくしは人間界に在世中は、あらゆる途を通して、美の探求に邁進してまいりました。わたくしの生涯はまさしく美の探求に捧げられました。しかし、美の世界に深く踏み込めば踏み込むほどその奥は深く、やがて、どうしても突き破ることの出来ない厚い壁にぶち当たってしまったのです。

しかし、わたくしには、はっきりと感じられる一つのことがありました。それは、その厚い壁さえ突き破ることができたら、その向こうには、わたくしが求めてやまないきらめくような美しい世界が必ず開けている、ということでした。わたくしはそのことを確信に近い感覚でとらえていました。

そこで、どうしたらその厚い壁を破ることができるか、どうしたらこの人間界にあってさらに深い美をとっらえることができるか、わたくしは、くる日も来るも考え続けました。わたくしは、わたくしの生涯をかけて美を追求し、それを表現しなければなりませんでした。それが、わたくしの人生だったのです。わたくしの美に対する深い憧憬が、わたくしをそのように突き動かしていたのです。

けれども、わたくしは次第にわかって来たのです。……つまり、わたくしたちの住んでいる人間界には、わたくしの求める至上の美の世界はないのではないか、ということが、そのことを、わたくしはある時、心のずっと奥の方ではっきりとと感じ取ることができました。

厚い、大きな壁の向こうに開けている、あの美しい世界、それは、わたくしの心の琴線をかつてないほどに震わせる魅惑の世界です。そして、その世界とは、この人間界を離れることによってのみ到達できる世界なのでした。

この人間界ではない未知の世界に、確かにわたくしの求め続けてきた壮大な美の世界が開けている――、そのようにはっきりと感知出来たわたくしは、深く深く思考した末、あのような謎の旅立ちをしたわけです」

目もくらむばかりにまばゆい黄金色の光の波間に、満足そうにたゆとう故人――、隈本確先生は、もはやこれ以上、なにも問うことがないことを察しました。

しかし、隈本確先生は念のために、さらに深い想いの霊界語で個人に問うてみました。

「いかがでしたか。あなたが求められた、人間界にはあり得なかった美の世界に行きつくことがかないましたか」

 

次回に続きます。

 

 

 

逝く側と送る側の違い

美の追求だったんですね……

ご本人は、考えに考えた末の行動だったようです。

でも、こういう突然の行動というのは、残された家族にとても大きな傷が残る気がします。

享年72歳だったそうです。

今の72歳では早いですが、当時ではまあそんなに少なくはなかったかもしれません。

この文学者の方は、人間的にもとても素晴らしい方だったようで、残された家族の方も神様のようだったと言われていますから、よけいに気持ちが残るのではないかと思われます。

なぜ、どうして……という思いがきっと心の中で渦巻いていたのではないかと、勝手に想像してしまいました。

本当の想いはわかりませんが……

以前にも書いたことがありますが、娘の友達のおじいちゃんも急になくなりました。

やはり、家族にしてみると年齢に関係なかく元気にしていた家族が急にいなくなるというのは、ショックが大きいようです。

家族としては、やはり心の準備の期間がある方が、送る側としては良いようです。

先に逝く方は、家族に迷惑をかけたくないという想いが強いので、ポックリと逝きたいと願いますが、送る側はまた違うようです。

 

あの日本の偉大な文学者はどこに

日本の偉大な文学者の死

隈本確先生は、自ら謎の他界入りを遂げた日本の偉大な文学者について言及をしています。

それは、きわめてすぐれた感性が感知し得た霊界の風景にいざなわれて、自ら異次元の世界へ旅立っていった、美の殉教者といも呼べる偉大な文学者の話です。

隈本確先生は、自殺ということを決して肯定するわけではありませんが、そこには、自殺と呼ぶにはあまりにも美しすぎる世界が開けていました。

ずいぶん前ですが、長崎道場にいた隈本確先生は、ある日突然、世界の文学者のご遺族の方の来訪を受けました。

抒情的哀感と日本の伝統美とその作品に託した、日本が世界に誇る文学者のご遺族ということで、隈本確先生も少しばかり固くなりながら、その用向きをお聞きしたのでした。

隈本確先生の問いに答えて、そのご遺族の方は、次のように用向きを語られました。

「……故人は、ご承知のように謎の他界入りをしたしました。生前は仕事に専念し、大変物静かで、非の打ち所のない人でした。

本当に家族から見ても、人間界にありながら神のような人、とそんなふうに思わせる人だったのです。それなのに、いったいなんのおもむきあって、あのような謎の道を選んだのでしょうか。

残された家族のものとして、それを知ることができればと思いまして、今日、こうしてお邪魔しましたような次第です。どうか、よろしくお願いいたします」

このように依頼された隈本確先生は、さっそくトランス状態(入神状態)に入り、広い霊界の中に故人の姿を探し求めました。

と、突然、霊界を模索中である隈本確先生の心の世界に、燃え立つような明るい黄金色の世界が展開されました。

それは、透明な金色にも似た、神秘と美の波動の世界でありました。

隈本確先生は、深いトランス状態にありながら、なおも霊眼を凝らし続けました。

いた!

このまばゆいばかりに輝く黄金色の神秘の世界に、故人はおられたのでした。

深く、さらに深くトランス状態に入っていった隈本確先生は、そのまま、故人の住む黄金色の霊界へと突き進んでいきました。

 

次回に続きます。

 

  

 

思い出しました

この世界に誇る日本の文学者の謎の死の話は、「大霊界」のご本の中でも、かなり衝撃的でした。

 

>大変物静かで、非の打ち所のない人でした。

本当に家族から見ても、人間界にありながら神のような人、とそんなふうに思わせる人だったのです。

 

この文学者の方は、とても物静かなおだやかな方だと、何かで読んだことがありましたが、ご家族の方から見ても神様のような方だったんですね。

 

前回、私は高級霊界を感知して自ら手を下した人は、希望通り高級霊界に行けたのでしょうか?と書きました。

この文学者の話をすっかり忘れていました。

そうでした。

この方がそうでした。

私がこの方の小説を読んだのは、子供の頃でした。

子供の頃ですので、深く読み取ることはできていなかったと思います。

大人になった今なら、もっと違う読み方ができたのではないかと思いますので、いつかまた読んでみたいと思います。

 

>このまばゆいばかりに輝く黄金色の神秘の世界に、故人はおられたのでした。

 

おられたんですね。

次回には、故人の霊界での様子がわかるのです。

でももう、まばゆいばかりに輝く黄金色の神秘の世界におられるということは、高級神霊世界におられるということですね。

良かったです。

霊媒体質者の霊界志向による自殺

前回の続きです。

 

危険なのは高級霊媒体質者

もし、全ての人の目や耳に霊界の様子がはっきり見えたら、当然大混乱が起こるでしょう。

いずれにしても、集団ノイローゼや集団自殺という現象が起こってくることでしょう。

要するに、一般の現界人にとって、霊界の模様が見えない、聴こえない、感知できない、というところに人類保全真相があるのです。

ところが、先ほどから言っているように、ある種の霊媒体質者にあっては、霊界の模様が心身に感じられる、高級霊媒体質者には高級霊界の模様が、低級霊媒体質者には低級霊界の模様が感じられるのです。

ここで、霊界志向による自殺ということだけを考えた場合、低級霊媒体質者にはその危険があまりありません。

何故なら、低級霊媒体質者には日ごろ霊界の暗い、嫌な面ばかりを見ているので、霊界というものに対して恐怖感や忌避感しか持っていないのが普通だからです。

これに対して高級霊媒体質者になると、ふとしたはずみに自殺に及ぶ危険性も出てきます。

彼ら高級霊媒体質者は、どのようにしてでも現界で見つけることの出来ない美の世界が霊界にあることを知っているのです。

だから、彼らは霊界に対して恐怖感をもつどころか、一種言われぬ憧れの想いを強くもっていて、場合によっては、自ら霊界への扉をに手をかけるようなことをしてしまうのです。

けれども、例えば隈本確先生のように、低級霊媒体質だったものが人生の途中から高級霊媒体質に切り替わったという場合には、霊界の良い面と悪い面の双方を知っているので、早く霊界に行きたいという気分はそう怒ってくるものではありません。

危険なのは、低級霊界の体験なくして、ある日突然、高級霊界の知覚を得た人とか、高齢になり、自然にその波長が高級霊界に合うようになり、その知覚者となった人達の場合です。

これらの人達にとっては、霊界とは、光に満ち満ちた、ただまばゆく美しいばかりの世界なのです。

 

そうした高級霊界の美しさだけを感知し得た人にとっては、確かにこの現界は、がさつで汚らしく、味気のないものかもしれません。

そんなわけで、低級霊界の酷いさまを知らない高級霊媒体質者にあっては、その霊界志向が高じて、ついには自ら手を下して霊界入りを果たしてしまうこともあるのです。

これが、霊媒体質者の霊界志向による自殺です。

 

 

 

 

高級霊界を感知した人達

>いずれにしても、集団ノイローゼや集団自殺という現象が起こってくることでしをした

 

だいぶ前に外国で、ある宗教団体の中で集団自殺があったという記憶があります。

もしかしたら、その宗教団体の中では、霊界の様子が見える人が信者が大勢いたのでしょうか。

 

>そうした高級霊界の美しさだけを感知し得た人にとっては、確かにこの現界は、がさつで汚らしく、味気のないものかもしれません。

 

そりゃそうですよね。

高級霊界の美しさだけを感知してしまったら、現界の汚さ、醜さ、卑劣さを目の当たりにすると、早くこんな汚い世界から抜け出したいと願うことでしょう。

一つ疑問があるのですが、高級霊界を感知して自ら手を下した人は、希望通り高級霊界に行けたのでしょうか?

現界人が霊界の様子が感知出来たら・・・

前回の続きです。

 

大霊界の法則

隈本確先生は高級霊媒体質になり、高級霊界の美しい波動はいつでも感じることができますが、かつての低級霊媒体質だった頃のように自然発生的に低級霊界の模様が霊視に映ってくるようはことはありません。

さて、ここで霊媒体質者の霊界志向による自殺ということについて話をもう一歩進めようと思います。

通常、現界側からは霊界が感知できできず、また、霊界側からはむやみに現界に介入することが許されないという大霊界の法則があります(ただいま述べている霊界志向による自殺の問題からはちょっとそれることになるが、霊界側から現界にやたらに介入してくるケースというのは未浄化な低級霊によく認められるもので、これは霊界人としての正しいあり方に反した邪道の行為である)。

世の中の大多数の人達は、霊的存在についてはっきり感知できないものですが、それは大霊界の法則によって、この世とあの世とがあらかじめ別次元の存在としてつくられているからです。

霊界と現界とでは波長、振動数が異なるから、現界の波動しかもたない通常の人間には霊界の波動がキャッチできないのです。

だから、霊界のことは何も見えない、聴こえない、わからにということになるのです。

その意味で、一般に霊能者と言われる人達は、現界人でありながら同時に霊界人の波長をも持ち合わせた、いわば大霊界の法則から漏れた異端者と言えます。

しかしながら、大霊界には、いったいなぜそのような法則があるのでしょう。

もう、おわかりでしょう。

もし、全ての人の目や耳に霊界の模様がはっきりと見えたり、聴こえたりしたら、まちがいなく、大混乱に陥ってしまうはずだからです。

まず、人々は霊の数のあまりの多さに肝をつぶすでしょうし、人によっては低級霊たちの無残な姿に恐怖をおぼえるでしょうし、ノイローゼになったり、発狂してしまうかもしれません。

また、人によって、逆に霊界のあまりの美しさにあえて自殺をしてしまうかもしれません。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

鳥山明

ドラゴンボール」の漫画の作者で、世界的に人気のある鳥山明氏が亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします

個人的には「Drスランプアラレちゃん」が好きでした。

あの独特な童話のような世界なのに、メカはとても緻密な絵で、それなのに違和感がなく不思議なアニメでした。

たぶん子供たちより私の方が、心待ちにしていたと思います。

どんな状況でも「うんちゃ!」と言いながらやっつけてしまい、がっちゃんは何でも食べてしまうという、こんなアイデアどこから出てくるのか、と感心しながら見ていました。

こんな凄いアイデアが出るのなら、とっても若い人だろうと勝手に想像していたら、なんと享年が68歳といいますから、けっこうの年齢だったんだと驚いています。

本当かどうかわからない都市伝説みたいな話があります。

もう知っている方も多いと思いますが、鳥山明氏は愛知県の清須市に住んでいます。

世界的に人気の漫画家さんなので、収入もすごくあったのでしょう。

人気が出ると、東京に行ってしまう人も多いと聞きますので、それを防ぐために鳥山明氏の自宅から空港まで直通の道路まができたと言われています。

地方自治体としては、高額納税者鳥山明氏を放したくなかったから、と言われています。

「鳥山ロード」と言っている人もいるとか……

鳥山明氏は、アラレちゃんのような世界にいたりして、と勝手に想像してしまいました。

 

昔の僧侶のミイラの前を通ってから異常な食欲

前回の続きです。

 

高級霊媒体質と低級霊媒体質

私達人間にわからないのは、動物たちによって見せつけられる現象ばかりではありません。

エクス線にしても、放射線にしても目には見えません。

普段、私達が何気なく使っている金属類、ハサミや指輪にしても、そこには分子があり、原子核があり、電子がブンブンと飛び回っているのですが、私達には固い金属の塊にしか見えません。

これだけをとっても見ても、人間の五感・知覚で把握し得る世界が、いかに狭いものであるかがわかろうというものです。

ある種の霊媒体質者にあっては、普通の人達には全く感じられない世界の出来事を、その超感覚のゆえに認識できるという事実です。

くわえて、こうして一口に霊媒体質と言っても、「高級霊媒体質」と「低級霊媒体質」とがあるということについても、ここで知っておいていただきたいと思います。

つまり、同じ霊媒体質でも高級霊媒体質と低級霊媒体質とがあり、この二者は、霊の波動を心身に受けやすいという点では相似性がありますが、その内実には雲泥の相違があるということです。

ここが重要なポイントであります。

高級霊媒体質は高級霊と波長が合いやすく、低級霊媒体質は低級霊と波長が合いやすいい体質なのです。

ですから、低級霊媒体質者が総じて霊界の暗い、嫌な面ばかりを感知するのに対して、高級霊媒体質者は総じて霊界の明るい、美しい面ばかりを感知するのです。

前者がおおむね不幸であるのに対して、後者はおおむね幸福であります。

ある人が、某デパートに展示されていた昔の僧侶のミイラの前を通ったその日から、突然異常な食欲に襲われて、常人の四倍のも五倍も食事をとるようになった、という話を聞いたことがあります。

この僧侶のミイラとは、人間が生身のままで仏になるという即身成仏を願って自ら食を断ち、果てていった僧侶のその後の姿な即身成仏とはいっても、とはいっても、日本に残るこれらの僧侶のミイラの実態はと言えば、激しい飢餓の苦痛にもがきながら死んでいったというのが本当のところで、仏の心境には程遠いものであったのでしょう。

かくて、死しても低級霊と化した僧侶は、長の年月、自分と波長の合った現界人があらわれるのを、ひたすら想いの世界で待ち焦がれているのです。

そして、その想いのかなった暁には、憑りついた人間の肉体を使って、思う存分飲み、かつ食らうのでありましょう。

憑依された側の人間こそいい迷惑でありますが、このような人は、もともと低級霊媒体質だったのでしょう。

 

次回に続きます。

 

 

 

銀行では15分位で終了

以前書いた生前贈与の税金を夫婦で一緒に銀行に行って払ってきました。

我が家にとっては超大金なのですが、振り込む銀行では手慣れたもので、ものの15分位で終了しました。

通帳の残高を見るとすごく減っていました。

思わず、銀行員の前で「減っちゃったね」とつぶやいてしまいました。

それを聞いた銀行員の方に、「その代り、もので残りますから」と慰められてしまいました。

「そうなんだけどね」と苦笑をしてしまいました。

あれやこれやと言ってもあとわずかな人生です。

神様から与えられた人生、精いっぱい生きていこうと思います。

肉体という衣を捨てる日まで。