聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

悟りとは言葉で納得する世界ではない

霊界の三大原則

どのような想念をもつと、どのような霊界に行くのかということについては、これまでにも折に触れて書いてきていますので、このブログを読んでいる方もおぼろげであっても理解してくださっていることと思っています。

隈本確先生も大霊界に存在する無数の神霊の全てと接触したわけではありませんので、百パーセントそうであるとは断定できませんが、今日までの何十、何百万体という招霊、招神体験から知り得た範囲内で話を進めましょう。

まず、霊魂というものは、霊界にあって真の自由体でなければなりません。

ここに、霊界の三大原則とでも言うべきものを掲げてみましょう。

一、霊界において霊魂は、あらゆる研磨を積み、力、働き、術(エネルギー)を修得することの自由をもつ

一、霊界において霊魂は、自己の霊体の浄化の自由をもつ一、霊界において霊魂は、神界での自己の霊体の無限の向     上の自由をもつ

ところで、この霊界の三大原則に反し、その足かせとなるのが人間界想念の教条主義です。

神とはいかなる存在か、悟りとは何か、このような問いかけに対して学術的な答えを得ようと思うのだったら、古今東西の文献を紐解けばいいのです。

しかし、その文献に書かれたことの全てを頭に詰め込んだとしても、だから神を知ることができた、だから悟りを得られた、ということは決してできないはずです。

もし、そのような知識にすっかり満足しきって、それで神を、仏を知ることができたと思い込んでいるようであれば、それこそ教条主義の悪弊に陥っていると言うべきであります。

本来、神の世界、悟りの境地とは、言葉や文字という有形の表現手段では現し得ない想念世界境地であります。

それは、自らが神の世界にひたり得た時に、初めて胸中深くに感じられる至福の境地でもあります。

だから、本当のところは、悟りに言葉はいりません。

いろいろな理屈や注釈を必要としている間は、まだ悟りには程遠いということも言えます。

神の世界とは、また悟りの境地とは、言葉で納得する世界ではないのです。

それは、あくまでも己自身が、味あう世界なのです。

隈本確先生の言うこの教条主義とは、なにも神の世界だけに限ったことではありません。

それは、私達の日常生活すべての面に見られる、ある好ましくない心の状態なのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

悟りの境地

>神の世界、悟りの境地とは、言葉や文字という有形の表現手段では現し得ない想念世界境地であります。

それは、自らが神の世界にひたり得た時に、初めて胸中深くに感じられる至福の境地でもあります。

 

世間一般で言われる悟りを開いた、という言葉とは、隈本確先生の言われる悟りの境地とは、大分違う気がします。

おそらく世間一般に言われているものは、教条主義から得た知識で分かったつもりでいる人のことではないかと、私は勝手に思っています。

私は隈本確先生の言われる悟りの境地の方が、心にしっくりきます。

言葉や文字という有形の表現手段では表現ができない想念の世界……

いつか私も、神の世界で胸中深く至福の境地にひたれる日が来ることを願っています。