前回の続きです。
至福の世界にいた故人
隈本確先生の質問に輝くばかりの霊体いっぱいに至福のもいをみなぎらせた故人は、即座に喜びの想いの波動を返してきました。
「ごらんのとおりです。この世界こそ、この輝きこそ、わたくしが人間界で求めてやまなかった最高の美の世界です。こうして極限の美の世界の探求者としての目的を果たすことの出来たわたくし、いま、至福の想いに満たされております」
偉大な美の探求者である故人が到達し得た、その壮厳なる美の世界に自分自身の想いの世界をゆだねきっていた隈本確先生は、人間界でははかり知ることの出来ない大霊界の神秘のさまに、深く心を打たれるばかりでした。
これほどまでに燦然と輝きわたる美の境地、それは栄光の世界としか言いようのない輝かしい世界であります。
人間の生と死とは、何なのでしょうか。
そして、この輝かしい神秘の神々の住む霊界に対して、対照的なもう一つの霊界の存在を、どうとらえたらいいのでしょうか。
神と魔界――、あまりにも神々しい光の世界にありながら、神霊能力者としての隈本確先生の脳裏をそんな言葉がよぎっていきました。
こうして、無限の大霊界が織りなす神秘の様相に想いを馳せつつも、隈本確先生は自分だけしかひたることの出来なかった故人波動の世界と、そして、隈本確先生自身の波動の世界に対して、至福の想いを抱きながら我に返ったのでした。
この間、五分くらいでありましょうか、隈本確先生は、この時すでにご遺族の方に、隈本確先生が故人の想念世界に没入し、故人と交わした対話の全てを霊言(霊を自分の体に呼び入れ、その霊の想いを音声に出すこと)として言葉に出していました。
そして、さらに人間界には立ち戻った隈本確先生は、故人の晴れがましいばかりに輝く至福の境地のあり様について、人間界の言葉をあれこれ模索しながら語り、お伝えしました。
その一部始終を見聞きしていたご遺族の方は満ち溢れる涙をふこうともされず、深く、深くうなずかれるばかりでした。
「……ありがとうございました。本当にありがとうございました。
実は、わたくし自身、先生のただいまの霊言にありましたとおりの故人の想いの世界を感性的に感じておりました。
ですが、霊感事はなにも感知できなわたくし、いまひとつもの足りないような、寂しいような、満たされないものを、いつも感じていました。
でも今、わたくしの想いが間違いでなかったということが、はっきりとわかりました。
やはり故人は立派な人であったという確信が持てた今、わたくしは、故人を祝福し、その冥福を祈りに祈るばかりです。長崎まで出てまいりましたおかげで、わたくしの心の隅にあった空白の一つが喜びで満たされました。あつくあつく御礼申し上げます」
満面に深い安堵と安らぎの色をたたえて、深々と頭を下げると、遺族の方は帰って行かれました。
隈本確先生は、それから暫く、なおも故人の輝かしい至福の想念世界の余韻に浸りながら、人間の生と死の谷間の問題について、簡単には結論付けることの出来ない複雑な思いにとらわれいたのでした。
人の死は大霊界側と人間界側とは違う
>人間の生と死とは、何なのでしょうか。
私も最近感じるのは、人間界でとらえている人間の死と大霊界でとらえる人間の死は違う気がしています。
今でも世界中で戦争が続いています。
沢山の人の命がなくなり、亡くなり方も悲惨な場合が多いのです。
人間の側から見ると、人によってはそういう状況なのに神様は何もしてくれない、だから、神様はいないのではないかという人もいます。
人は死によって人でなくなるので、死というものをとても大事に感じます。
しかし、大霊界から見ると人の死というのは、終わりではなく霊魂だけになった新たな誕生のようです。
だから、大霊界から見ると、人の死も一過程なのではないか、と最近感じています。
>この輝かしい神秘の神々の住む霊界に対して、対照的なもう一つの霊界の存在を、どうとらえたらいいのでしょうか。
神の世界と地獄界、本当に対照的な霊界ですね。
できれば、私達はこの方のように輝かしい神秘の神々の住む世界に行きたいものです。
>故人の想いの世界を感性的に感じておりました。
ですが、霊感事はなにも感知できなわたくし、いまひとつもの足りないような、寂しいような、満たされないものを、いつも感じていました。
でも今、わたくしの想いが間違いでなかったということが、はっきりとわかりました。
同じ体験はしたことがありませんが、このご遺族の方のこういう想いは、わかる気がします
良かったです。