前回の続きです。
高橋さんが霊界で苦しんだわけ
「いま、わたくしの周りは、広い広い雲の海原です。ところどころには、きれいな草花が生えております。はるかかなたの上界には、富士山を真っ白にしたような白銀の山が見えます。いつの日かは、わたくしもあの白銀の山で霊界人として永遠の生活を送ることができるのではないかと、大きな希望に胸を膨らませております。
……先生、なぜ、わたくしは霊界で苦しんだのでしょうか。わたくしは、人間界にあるとき、なにひとつ悪いことはしていない、少なくとも、意識的に悪いことをしたことはなかった、人様にも、それほど迷惑をかけたことはなかった、そして、神に対する心は大変崇高なものをもっていたと自信を持っておりました。
しかし、霊界で、わたくしは塗炭の苦しみを味わいました。体も顔もすべて、とてつもない大木にはさまれて……、日一日とそのはさむ圧力がわたくしお体、顔に、グイグイ、グイグイと感じられて、その苦しさは、もう、何とも表現のしようもありませんでした。
今思いまするに、霊界でそのようにわたくしを苦しめたものは、わたくし自身が人間界でもっていたところの我であったのではないでしょうか。そのように思います。
このことは、人様にはわからなかったでしょう。わたくしは、顔にはあらわしませんでした。しかし、わたくしは心の中に非常な我の強さをもった、頑固な人間であったのです。たとえ顔では笑っていても、心の中では、「絶対に許せない」というような強い想いを常にもっていたのです。
この頑固さ、我というものが人一倍強かったわたくしは、霊界では、自分自身の頑固さ、我の強さという重りで足枷をされ、その結果、先ほど申しましたように、とてつもない巨木に挟まれるという苦痛をなめるというはめにとなってしまったようです。
生前に、何にも悪いことをしなかった、人様に悪い想いも与えなかった、まずは立派なことをしてきた、信仰心はしてきた……と、このように思ってきたわたくしですけれども、問題は人さまではなかったのです。神でもなかったのです。ただ、自分自身の想いが欠点であったのです。
人間界で何にも悪いことはしていない、人に迷惑をかけていない、社会的に立派なことをした、これで良しと……。
けれども、これらのことは霊界では何の役にも立たないのです。」
次回に続きます。

我
人間界で素晴らしいといわれる行いであっても、霊界ではその行いに見合った想いがなければ、通用しないということのようです。
どんなに行いが素晴らしいといわれることをしていても、心の中に良くない想いをもっていれば、霊界では決して上の方には行けないということのようです。
まだ私が若かったころ、キリスト教を信じている人が書いている記事を読んだことがあります。
人を殺していなくても、人を殺したいと思った時点で罪だというのです。
当時は確かにそうかもしれないと思いましたが、でも、どうしても私の中にしっくりこないものがありました。
瞬間的にでもこの人を殺したいと思った時点で、罪になるとしたらその想いの罪はズーっと続くのだろうかと疑問に思いました。
その後反省をしたとしても、その罪は残るのか、反省した時点で罪は消えるのか、わたしの疑問は残ったままでした。
日神会に出会って、その疑問は解けました。
日神会では、想いを大切にします。
日神会に出会ってからの私の考えは、人を殺したいと思った時点では、その想いは地獄行きだけれど、それを反省した時点でその想いは地獄へは行かない、ということです。
>霊界でそのようにわたくしを苦しめたものは、わたくし自身が人間界でもっていたところの我であったのではないでしょうか。そのように思います。
我ですね。
我の強さというのは、けっこう厄介です。
自我というのは、自分を守るためには必要なものではありますが、強すぎると人間界にいる時でもけっこうトラブルのもとになります。
人間でいる間は表面だけ取り繕っていても、魂だけになると霊界では通用しません。
この我を捨てるのはなかなか難しいものですが、魂の向上として一生の課題にしたいものです。





