聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

隈本確先生と師の出会い

きっかけはお父様の病気から

隈本確先生は、幼いころから人の死を予言したり、明日の天気をピタリと当てるなど、いわゆる超常的能力があったのですが、十代のころは全くの無神論者でした。

その隈本確先生が、なぜよりによって神霊能力者としての道を進み、また一生の仕事として、神霊治療などを始めたのでしょうか。

このあたりのいきさつについては以前に触れています。

隈本確先生が二十歳になったころのことですが、お父様が突然、原因不明の奇病に襲われ、それを長崎近郊に住むある行者さんに治してもらったのが、きっかけだったのです。

隈本確先生は、多くの医者がさじを投げたお父様の奇病を、その行者さんがものの数分で見事に直してしまったのを見て、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたのでした。

その時の模様については理解していただくために、以前に掲載したものの一部を引用して、繰り返し述べます。

 

——ああ、わたしは実在の神を見た!

神は実在していたのだ。

隈本確先生の、その後の人生を決定する一大決心は、まさにこのとき芽生えたのでした。

私も、何とかしてあの神のお力をいただくことはできないものか。

あの奇跡のお力を修得することはできないものか。……

いや、何とかして……、何としてでも、隈本確先生はたった今現実に見せつけられた偉大なあの神のお力を、この身にいただくのだ!

それから6年間、隈本確先生は雨の日も風の日も、夜になると家から15キロ以上も離れたあの神のすむ行者さんのところへ通ったのでした。

隈本確先生の全収入は、その行者さんに捧げられました。

そんなわけで、この間、隈本確先生は自分の靴一足、ネクタイ一本買えない状態でした

親兄弟をはじめ親戚の者たちは、みな一様に゛バカ、気ちがい、神狂い”と言って隈本確先生をののしったのですが、隈本確先生はその神に命を預けるというくらいのすさまじい入れ込みようだったので、それらの言葉も一向に意に介しませんでした。

行者さんのもとに通い詰めて4年目、隈本確先生はようやく神霊治療能力を発揮し始めたのでした。

ところがそれから2年後に、その行者さんは病を得て、あえなくみまかってしまったのです。

 

……と、言うわけなのですが、この行者さん、享年47歳、早すぎる死でした。

さて、隈本確先生は以前に書こうと思い立ったその時から、どうしても、この行者さんと隈本確先生のかかわりあいについて書かなければならない、という強い想いに動かされていました。

隈本確先生が師と仰ぐ行者さんと隈本確先生とが現界で共に過ごした6年間は、決して美談で終わるようなものではありませんでした。

ともに神を求める二人の人間の間には、あまりにも人間臭い心理的葛藤が繰り広げられたのでした。

しかし、高き神の霊流は最終的にすべてを浄化し、癒したもうたのでした。

神に対する深い敬虔な祈りのうちを続っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

凡人とは違う

隈本確先生は、多くの医者がさじを投げたお父様の奇病を、その行者さんがものの数分で見事に治してしまったのを見て、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたのでした。

 

おそらく私のような凡人ですと、自分の親の奇病を治してもらっても、この行者さんすごい!ありがたい、で終わっていたと思いますが、さすが隈本確先生です。

そこから、日神会を立ち上げるまでされたのですから、やはり凡人ではありません。

 

>この行者さん、享年47歳、早すぎる死でした。

47歳とは早すぎますね。

 

隈本確先生が師と仰ぐ行者さんと隈本確先生とが現界で共に過ごした6年間は、決して美談で終わるようなものではありませんでした。

 

このお話は、これからしばらく続くのですが、私が最初にこのお話を読んだとき、思わず大きなため息が出ました。あまりに壮絶だったのです。

心の姿勢

前回の続きです。

 

神様との取り引きになってはいけない

病気を治してもらいたいがゆえに神に祈る、不運から逃れたいがゆえに神に全品を奉納する、このような発想が、そもそも魔界的発想なのです。

もちろん、以前の隈本確先生にしたところで、全品に糸目をつけずに神様巡りをして、それで心身の苦しみから救われるという事は、全くありませんでした。

要するに、病気、事故、災難、その他の不運から逃れるために神、守護神すがり、祈りをささげても無駄だといいうことなのです。

病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。

「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」

というのでは、取引になってしまうのです。

取引が通用するのは現界だけなのです。

という事を肝に銘じておいてもらいたいものです。

私たちが、何の下心もなく、ひたすら純粋に神を求め、そこに高樹神霊の霊流をいただくことができたら、その副産物として、病気や不運といった霊障は自然に解消されるのです。

また、私たちが、病気、事故、その他の災難という現界的不幸に見舞われた時には、すべて自分の責任としてとらえ、いたずらに不運を嘆くことなく、おのれの至らなさを大いに反省し、心の底から神、守護神にお詫びをすることであります。

なぜなら、現界的不幸の多くは、自己の想念操作(心の在り方)を誤った時に生ずるものだからです。

逆に、思いもかけない幸運は恵まれたときには、あまり有頂天になりすぎてはいけません。

心の中にますます謙虚の想いをもって、神、守護神にお礼申し上げることです。

というのも、幸運とは日々純粋に神を求めた果報として、神から与えられるものだからです。

では、一口に言って、神に対する正しい心の在り方とは、どのようなものなのでしょうか。

それは、私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。

 

 神のみぞ 人の心をはかりけり

   たゆとう心の 奥の底まで

 

 

 

 

気が付くといつの間にか・・・

>「一生懸命お祈りしますから、病気を治してください」

というのでは、取引になってしまうのです。

取引が通用するのは現界だけなのです。

 

私は前回まで、こういうことを他人事のように書いてきましたが、自分では、そんなつもりではなかったのですが、いつの間にかこれだけお祈りをすればきっといい結果が出るはず……などと考えている自分がいました。

思い通りにならなくて、ハッと気が付く、これでは神様に失礼だと……

何度それを繰り返したかわかりません。

でも、気が付くとやっているんです。

やはり人間界にいると、現界的発想になりやすいんですね。

自分で常に気を付けていないと、いつの間にか取り引きになっています。

 

>病気や不運から逃れようと思うならば、無理にそこから逃れようとあがくことなく、もろもろの事象はそのままにして、まず、心の姿勢を一歩進めて高き神霊、守護神の霊流を一心に仰ぐことから始めなければなりません。

 

この心の姿勢が大事です。

気を付けたいものです。

 

>私たちの日々の生活において、良き事象が起これば感謝とお礼、悪しき事象が起これば反省とお詫び、神に対してこの二つのことをしっかりと守ることである、といえると思います。

 

この言葉は、私は素直に受け入れていました。

ところが、次男にこんなことを言われました。

「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。

最初、次男が何を言っているのかわかりませんでしたが、現界的に考えるとそうなのかもしれません。

だいぶ前に、私がまだテレビを見ていたころのことです。

テレビの中では、40代くらいの男性が親のことを言っていました。

この男性のご両親は、熱心なクリスチャンです。

この男性も、うちの次男と同じことを言っていたことを思い出しました。

ご両親のことを「良いことがあると神様のおかげで、悪いことが起こると自分が反省というのはおかしい」と。

 

「魔界の想念」

前回の続きです。

 

神に対する姿勢

自分の気持ちがスッキリして、神の世界に入り入りやすくなるというのなら、もちろん形式なこと、例えば立派な祭壇をつくることも悪いことではありません。

しかし、間違っても、立派な祭壇をつくったのだから、神は自分を守ってくれるだろう、などと考えないことです。

それこそが、隈本確先生の言う「魔界の想念」に他ならないからです。

少々誇張して言えば、「さあ、立派にお祀りをしたぞ、だから、今度は私をしっかりと守りなさい」といった感じで、神よりも人間・凡夫の頭が高くなってしまっているのです。

根本的に神に対する心の姿勢が間違っているとしか言いようがありません。

隈本確先生は、かつて、十年来の不安感、恐怖感に悩むうつ症状の人の神霊治療をして、一回で完治させたことがあります。

ところが、その依頼人が二回目にやってきたときにこんなことを言いました。

「先生、今までずっと感じていたわけのわからない不安感とか恐怖感は、まったくなくなりました。完全に治ってしまったようですよ。でも、おかしいんです。あの時、私は守護神を出していただきましたよねェ、それなのに、この間車の事故を起こしてしまいました。私の守護神が出ているにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったんでしょう。守護神は、私をいろいろな不幸から守ってくださるのではなかったのですか」

まるで、事故を起こしたのが隈本確先生や守護神の責任である、と言わんばかりの非難のまなざし、非難の声色です。

だが、いったい、その依頼人の日常生活のすべてを無条件で守ってあげなければならない責任が、隈本確先生や守護神にあるのでしょうか。

隈本確先生にしても、その方の守護神にしても、当人の召使いでもなければ、道具でもありません。

守護神におかれては「余は人間・凡夫の道具ではない。下僕ではない」と、厳然と言われているでしょう。

かくいう隈本確先生自身、三十年前の極端な霊媒体質時代には、心身の苦しみから逃れたい一心で金銭に糸目をつけず、ありとあらゆる神社仏閣をめぐり、宗教団体の門をたたき、はては巷の神々を訪ね歩いたものです。

しかし、今にして思えば、隈本確先生のそのような考え方こそ間違っていたのです。

 

次回の続きます。

 

 

 

 

こういう考え方の人けっこういそう

>間違っても、立派な祭壇をつくったのだから、神は自分を守ってくれるだろう、などと考えないことです。

それこそが、隈本確先生の言う「魔界の想念」に他ならないからです。

 

この考え方は、人間界では口には出さなくても心で思う人は、いそうです。

でも、この考え方は「魔界の想念」なのですね。

 

>おかしいんです。あの時、私は守護神を出していただきましたよねェ、それなのに、この間車の事故を起こしてしまいました。私の守護神が出ているにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったんでしょう。守護神は、私をいろいろな不幸から守ってくださるのではなかったのですか、

 

これは完全に、この人人間・凡夫の不注意ですね。

守護神を出してもらったから、何から何まで全部守ってもらえるというのは、これも「魔界の想念」なのでしょうね。

でも、こういう考え方の人はけっこういる気がします。

本人は、まったく悪気はないのでしょうが……

 

 

形式にとらわれると心の自由を失う

祈りは深い想いの世界

隈本確先生の霊流をひいて行う自己治療、他者治療にかぎらず、およそ神霊に関するすべての事柄に共通していることは、最終的には当人の心の在り方(想いの技術)のみが問題になってくるということです。

だから、あまり形式的な儀式にとらわれたり、肉体を苦しめて行にとらわれると、かえって心の自由を失って、真実の神霊の力を仰ぐことができなくなってしまうのです。

いろいろな形式的儀式や行が意味を持つとすれば、それは、神に対する正しい心の在り方を作り出すうえでの助けとなりえた場合だけなのです。

隈本確先生は『大霊界』シリーズを通して、いろいろな宗教的儀式や行について批判的なことを言ってきましたが、現在の日本を見渡したところ、あまりにも華麗にして空虚な、形骸化した儀式ばかりが目についたので、それを率直に言ったまでなのです。

豪華な儀式や立派にしつらえられた祭壇に付きまとう金銭や物品は、神の世界とは全くかかわりない現界的事象にすぎませんし、立派な祭壇をつくり、豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、派手な儀式をするだけの金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになってしまいます。

しかし実際には、そのようなことは決してあり得ません。

なぜならば、想念(波動)だけの存在である高級神霊は、やはり人間の想念(心)だけにしか感応しないからです。

隈本確先生が、しつこいほどに「想いの世界」という言葉を繰り返すのは、それが高級神霊の世界そのものであるからです。

隈本確先生は、自分の守護神本尊に対して、形式的な祝詞をあげたり、その他の儀式を行ったことは一度もありません。

また、朝夕の祈りにしても、特別に衣服を着替えてするなどということはありません。

ただ、心の中に内在させた守護神本尊に対して、想いの世界で、深い深い祈りをささげるばかりです。

神棚や体の姿勢、特別な衣服は、単に深い想いの世界での祈りを助長させる手段にしか過ぎないのです。

頭から水をかぶり、どのように斎戒沐浴したところで、この肉体を持った人間・凡夫、汗はすぐに出てくるし、体の中にはいわゆる浮上物も入っています。

要するに、形式にこだわりすぎることはナンセンスだ、ということです。

 

次回に続きます。

 

 

      

 

 

アカシックレコードの切り替えの浄化

 >豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、派手な儀式をするだけの金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになってしまいます。

 

この言葉は、私の心にグッと入ってきました。

そうですね、豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになりますね。

普段、そんなことを考えたこともありませんでしたが、そういうことになりますね。

改めて考えさせられました。

 

最近届いた会報に、アカシックレコードの切り替えの浄化というのがありました。

そんなことを考えたこともありませんでしたが、そんなことが可能なのですね。

アカシックレコードの切り替えの浄化をするには、一度霊界に行かなくてはいけないそうです。

ということは、死ぬということだそうです。

完全に魂の尾を切っていくのだそうです。

会報に書いてある内容を少し書きます。

半月前から御神事が来ていたそうです。

アカシックレコードの能力が欲しいのでしたら、こちらに来てください。出ないといただくことはできません」

「そうしないと授かることはできません。決めるのはあなたです。あなたが決めてください」とはっきりおっしゃったのです。

「わかりました。死ぬこともありますか?」と問うと、

「当然あります。あなたが(命が)持つかどうかです」。

「わかりました。お伺いいたします」と言って決死の覚悟でいただきに行ってきたのです。

とあります。

命がけですね。

私のような凡夫にはわかりませんが、以降に期待をしたいと思います。

 

 

技術を身につけると、何かをしながらでもできる

前回の続きです。

 

自己の存在を無にし自分の胸中に霊界をつくる

前回書いた神主、僧侶、加持祈祷師、行者等が行う祝詞や教文を脂汗を垂らしながら一心不乱に上げることによって入神状態にに陥り、神、仏、霊が降霊してくる場合もあります。

しかし、そのほとんどは一時間から二時間ぐらいも祝詞や経文を上げ続けて、ようやく自ら降霊の状態に引きずり込んでいく、といったあんばいです。

隈本確先生は、このような長時間祝詞や経文をあげて招神、招霊をした覚えは、ただの一度もありません。

隈本確先生の場合、想いの技術を用いて、ものの二、三秒で招神、招霊をやってのけてしまいます。

目標を定めた相手神霊に対して、自己の存在を無にし、自分自身の体を明け渡す、つまり、自分の体(胸中)に霊界をつくりあげるのです。

そして、最も親しい、最も大好きな、最も大切な人に対してするように、「さあ、どうぞ、いらっしゃあい……」という深い想いの世界をつくりあげると、祝詞、経文、気合の掛け声など、一切の念力に頼ることなく、その相手神霊は即座に隈本確先生の体中に降霊してくるのです。

このような技術を身に着けている隈本確先生は、あぐらをかきながらでも、タバコを吸いながらでも、歩きながらでさえも、自由自在に招神、招霊ができるのです。

情熱をもって、本心から隈本確先生の霊流をひこうと努力しているにもかかわらず、どうしても自己治療に成功しないという人は、以前書いた「娘さんの恵子さんの神霊治療」のくだりをもう一度読み返して、心の技術を習得していただきたいと思います。

リラックスしながらも、情熱と深い想いとをもって、繰り返し練習し、そして病気の自己治療にぜひとも成功していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

明日のわが身

>目標を定めた相手神霊に対して、自己の存在を無にし、自分自身の体を明け渡す、つまり、自分の体(胸中)に霊界をつくりあげるのです。

 

そうなんですね。

長い間続けてきたので、どこか自己流になっているところもあるかもしれませんので、改めて初心に帰って霊流をひきたいと思います。

以前は一年に一度、日神会に行って講座を受けていました。

そうすると、自分でも気が付かないうちに自己流になっている部分があったりして、気づかされていました。

気を付けたいと思います。

 

先日、日神会から会報が届きました。

正二郎先生のお母様のことが書かれていました。

ということは、隈本確先生の奥様のことですね。

奥様は、認知症のような症状が出ておられるとのことでした。

もちろん、正二郎先生はお母様に神霊治療をされています。

それでも、霊流を流すと良いようですが、また悪くなったりの繰り返しのようです。

正二郎先生は、あきらめずにその都度神霊治療を行ってほしい、と書かれています。

その言葉の中には、実際に家族が認知症になっている方々の大変さが書かれ、励ましの言葉もあり、とても胸に響く思いで読みました

以前にも書いたことがありますが、私は水彩画を習っていますが、先生は80代後半です。

先生は、認知症の兆候が見られるようになってきました。

私もこっそり、毎日少しづつ先生に霊流を流しておりました。

流していて、少しずつ良くなっている気がしていました。

そして、最近はかなり良い感じだと思っていましたが、先々週に習った数日後に、絵の会の代表者の家に先生から電話がありました。

電話の内容というのは、前回の絵の会のときに先生の作品をみんなに見せた後、それが返ってきていない、ということでした。

代表者はYさんという人です。

Yさんは、自分の記憶では先生の作品は見ていない、と言いましたが、一応みんなに聞いてみます、と言って電話を切ったそうです。

その後、何人かの人に聞いても誰も見ていないといったといいます。

絵の会は、地域の自治会館で月三回行っています。

私が毎回最後の確認をして、自治会館の鍵をかけて出ているので、Yさんは私に先生の作品を見なかったか、聞いてきました。

私も見なかったので、そのことを伝えました。

その後、先生からYさんに電話があり、そのことを伝えると先生は、私たちの誰かが盗んだと決めつけて、

「そんな人たちのところでは、教えることができない」

と言って電話を切ったそうです。

その内容を、Yさんは全員に伝えてくれました。

生徒は全員で10名です。

全員、もうこれではもうこの会も終わりになるか、と覚悟をしていた人も多かったと思います。

でももしかしたら、先生は何事もなかったようにいつも通り来るかも、というようなことを皆で話し合っていたら、先生が何事もなかったように普通に「おはよう」と言ってやってきました。

そして、私たちもいつも通り先生に教わりました。

先生は、そうやって時々おかしくなりますが、指導の内容はいつもと変わらないのです。

指導はとてもうまい先生です。

先生が帰った後、みんなで顔を見合わせてしまいました。

先生、忘れているのか何なのかわかりませんが、でも、ああいうことを言うということは、認知症が一歩進んだのかな……という残念な気持ちになりました。

それでもみんなの中にあるのは、自分もいつか行く道かもしれない、という想いです。

もちろん今も流していますが、これからも、先生に霊流を流す予定でいます。

 

 

自分の念力で押し返しているかも・・・

一心不乱になりすぎても・・・

隈本確先生の霊流の応用法について述べてきたところで、想いの技術、ならびに神に対する心の在り方について、少々述べてみたいと思います。

あるとき、隈本確先生のもとに一つの相談が持ち込まれました。

隈本確先生の本を見ながら、いくら一所懸命に自己治療をしてみても効果が出ない、というのです。

そこで、隈本確先生は、いかにも残念そうな顔をしているその人に、どのように自己治療をしてのか聞いてみました。

その人は次のようにこたえました。

「どのようにといいましても、それは先生の本に書いてある通りにしました。まず正座をして、手印を組んで、一心不乱に先生に祈りました。もう、本当に必死で、脂汗がたらたら出てくるくらいに祈ったんですが……」

それがいけないのです。

一心不乱に、脂汗が出てくるくらいに祈る――、これでは、隈本確先生の霊流が作用しないはずです

いってみれば、自分の念力で、隈本確先生の霊流を一心に押し返そうとしているようなものです。

このような心の技術、念じ方では、決して隈本確先生の霊流を自分の体に引き入れることはできません。

隈本確先生の霊流をひくためには、リラックスして、安らかな気持ちになることが大切なのです。

そして、隈本確先生に対して、できえる限りの親近感、和の感情を持つことです。

渾身の力を込めて身構えるのではなく、隈本確先生に対してゆったりと心を開くような想いで、受け入れ体制をつくることがコツでもあります。

神主、僧侶、加持祈祷師、行者などにしても、祝詞や教文を脂汗を垂らしながら一心不乱に上げることによって神霊との交流をはかろうとする場合がよくあるようですが、このやり方は、むしろ滑稽です。

これは、自分の念力を増大させて、自分が招霊しようとしている神・仏・霊と対決しようとしている図なのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

エネルギーの内容

>自分の念力で、隈本確先生の霊流を一心に押し返そうとしているようなものです。

隈本確先生に対してゆったりと心を開くような想いで、受け入れ体制をつくることがコツでもあります。

 

念力で、押し返しているようなもの……

なるほど。

本人は真剣に一所懸命に自己治療を行っているわけですよね。

ところが、一所懸命になりすぎると、自分の念力でせっかくの神霊のエネルギーを押し返してしまうということですね。

ゆったりと心を開くような想い……

自分で霊流をひいていると、意識をしていませんでしたが、力んでいません。

話は変わりますが、最近気が付いたのですが霊流をひいているとお願いをしている内容によって、エネルギーが違う気がしています。

もしかしたら、こちらでお願いをする内容に合わせて聖の親様が一番いいエネルギーを流してくださっているのではないかと思いました。

私だけが感じていることなのかもしれませんが……

 

天命界の神霊と波長が合うと激しい勢いで霊流が流れてくる

霊流は減らない

隈本確先生は「大霊界」の御本を通して、隈本確先生の霊流(厳密にいえば、隈本確先生の守護神の霊流)をひくとをたびたび強調しています。

いつも言っているように、隈本確先生という人間は全く普通の人間、というよりは、むしろ非常に俗っぽい人間だということを自覚しています。

しかし、この隈本確先生の体中には、俗人である隈本確先生の存在をはるかに超えた超神霊が鎮まっておられることも、また事実なのです。

隈本確先生の守護神本尊・聖天恩先主本尊大神におかれては、すでに天命界にあられる超神霊の存在であり、隈本確先生の魂の存在である聖地恩祖主本尊大神におかれても、地上界の神霊を導く任にある超神霊です。

だから、隈本確先生の一日は、隈本確先生を今日までお導きくださった守護神・本尊聖天恩祖主本尊大神、および隈本確先生を今日まで支配し、生かし続けてくださっている隈本確先生自身の魂・聖地恩祖主本尊大神に対する、深い敬虔な祈りから始まります。

そして、もしあなたが、想いの世界で隈本確先生にピッタリと波長を合わせることができたら、すでに天命界にあられる隈本確先生の御守護神、および隈本確先生の魂の親さん・聖地恩祖主本尊大神の霊流は、あなたの上にも奔流のごとく降り注ぐことでしょう。

ところが、このことについて、隈本確先生はある依頼人の方から次のような質問を受けました。

「実は、今日こうして神霊治療を受けに来たものの、『大霊界4』をよく読んで先生の霊流を一生懸命ひいていたら、治療を受けていないにもかかわら、すでに病気は治ってしまったんです。

それにつけても、一つ疑問に思うがあります。今現在、すでに先生の御本を読んで霊流をひき、そして、病気が治ったり、運勢が好転している人がたくさんいるはずです。そして、そういう人達は、先生のご本によるご指導で今後もどんどん増え続けていくと思います。でも、そうやって多くの人が先生の霊流捧持者となった場合、先生がお疲れになったり、苦しまれたり、霊流が減ってしまう、ということはないのでしょうか」

この質問に、隈本確先生は思わず苦笑をしてしまいました。

そして、心配そうな顔つきをしている依頼人の方には、次のようなに答えました。

「そのような心配は、まったくご無用ですよ。全人類が浴びたからといって、太陽の光が減るなんて言うことはないでしょう。天命界にあられる超神霊の霊流も、それと全く同じことです。どうか安心して私から霊流をどんどん引いて、幸せになってください」

 

 

 

 

再度トランプ大統領

>そうやって多くの人が先生の霊流捧持者となった場合、先生がお疲れになったり、苦しまれたり、霊流が減ってしまう、ということはないのでしょうか」

 

私は、こんなことを考えたこともありませんでしたが、一つの事実にいろんな見方や考え方があるものです。

ちょっと驚きです。

 

今回も記事とは全く違った話です。

アメリカのトランプ氏が大統領に決まったようです。

トランプ大統領になって嫌だという人もいれば、良かったという人もいます。

これからの四年間を見たいと思います。

トランプ大統領は、とにかく戦争が嫌いだと聞きました。

だから、前回のときはアメリカ大統領で初めて戦争をしなかった大統領でした。

以前からトランプ氏は、ロシアウクライナ戦争は一日で終わらせて見せる、と言っており、だとしたら楽しみです。

ウクライナ戦争を一日も早く終わらせてもらいたいものです。

イスラエルのことも、一日でも早く終わらせてもらいたいものです。

以前のトランプ大統領には、安倍首相というトランプ大統領への対応が最高にうまい首相がいましたが、今回は石破首相ですが、大丈夫でしょうか……

前回の岸田首相は、強い人や強い国の言いなりでした。

石破首相も不安しかありませんが……

おそらくトランプ大統領は、おかしな法律を押し付けてくることはないだろうとは思いますが……

話は飛びますが、昨日、私は免許証の更新のために警察に行ってきました。

すべてのことを済ませてから、トイレに寄ろうとトイレに向かいました。

ところが男性専用のトイレがあるのに、女性専用のトイレがありませんでした。

5年前の更新のときは女性専用トイレがあったのですが、今回は男性用トイレと男女一緒のトイレしかありません。

私も年を取ってきましたが、いくら何でも男女一緒のトイレは入る気になりません。

これも、あのくだらないLGBT理解増進法のせいかと思ったら、無性に腹が立ちました。

私もあのくだらない法案が成立してから、女性専用トイレがないトイレを初めて見ました。

警察という場所だから、肉体が男性で心が女性という人は多分出没はしないでしょうが、やはり男女一緒では嫌です。

日本には日本人に合った、日本人を守れる法律をつくってもらいたいです。