聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

魂の美化、浄化、向上は無限

神の心にかなう生活とは

隈本確先生のもとに寄せられるお便りの中に、神に対する心構えを教えてもらいたい、というものがしばしば見受けられます。

しかし、このようなお便りをいただくたびに、隈本確先生ははたと困ってしまうのです。

というのも、実際のところ、真実の高級神霊(神)に対する心構えとはこのようなものである、という教条なるものはないからです。

神の心とは、人間界に住む我々が、あのようなものである、このようなものであると単純に決められるような、そんな個性的なもの、教条的なものではないのです。

しいて言えば、神の心とは、無限大の広がりをもつ窮みのない想念世界、それでありながら、真理原理の中心があり、真実そのもの、かつ、人間界のいかなる倫理規定をも超えた永遠の生命の道である、と言えるでしょうか。

したがって、私たちがこの人間界にあって、ここまですれば神の心にかなう、このような想念生活を送れば神の心にかなう、ということは厳密に言えば決してありえません。

また、それだからこそ、私たちは霊界入りするその直前まで、自己が有する想念界の反省と切磋琢磨、美化、浄化につとめていかなければならないとも言えます。

なお、霊界入りしたその後の暁においても、私たちの魂は、美化、浄化、向上という無限の段階の道のりをたどって、ようやく真実の神の心に近づくことができるわけであります。

だから、一口に神の心にかなう生活と言っても、それは、私たちが現界での生活と霊界での生活を通して追及されるべき永遠の道程である、ということも言えます。

そして、この現界と、死後の霊界においてさえ神を求める心を忘れ、自己の想念の管理を怠ったものこそ、現界の地獄、霊界の地獄へと転落していくことでしょう。

 

 

 

 

 

我が家の猫たち

今回も記事とは関係のない話です。

一時、我が家と夫の仕事場に沢山の猫がいました。

元は、夫の仕事場の向かいの家で野良猫に餌を与えていました。

ところが、その家の人の気が変わったのか急に餌を与えなくなってしまいました。

夫がその猫にえさを与えていたのか、それとも夫が食べてごみ箱に捨てたものを、拾って食べていたのかわかりませんが、いつの間にか、子供が生まれて数カ月が過ぎると、仕事場においていくようになりました。

夫も猫が嫌いではなかったので、そのまま子猫は住み着き大人の猫になり、その猫も子供を産みどんどん増えていきました。

そのうち、元の猫は我が家にまで子猫を置いていくようになりました。

確かに私も子供たちも猫は好きですが、いくら何でも増えすぎです。

夫は、かわいがっているだけで何もしません。

仕方がないので、私と次男で半年を過ぎた猫から片っ端から、避妊の手術をさせました。

あまりに沢山の猫を手術をさせているので、人間の勝手でこんなに避妊をさせていいのかと罪悪感もありましたが、保健所に連れていけば殺されることがわかっているので、連れていけませんでした。

時には、里親を探している獣医さんのところまで連れていきました。

今では、年月をかけて続けていたおかげで、夫の仕事場には猫はいなくなり、我が家では次男が飼っている猫と合わせて2匹になりました。

沢山の猫たちの思い出は沢山ありますが、子猫を生みまくって置いていった母猫は、人に絶対というほど懐きませんでしたが、さすが野良で生き残っていただけあって、とても頭にいい猫でしたし、人間のいうこともわかっていたようでした。

私もあまりに沢山の猫を置いていくので、その元の母猫に言いました。

「君の子供たちを沢山預かったけれど、もう家ではこれ以上は面倒を見切れないから、置いていかないで」

と言ったら、その母猫はジーッと私のいうことを聞いていました。

その後、我が家にも夫の仕事場にも子猫を置いていくことはありませんでした。

そんな子猫たちもいろんな人にもらわれていきました。

知人のYさんも黒猫のメスが欲しいというので、もらってもらいました。

Yさんは「9ちゃん」という名前を付けてとてもかわいがっていました。

とても穏やかな猫でした。

最近、その「9ちゃん」が20歳の天寿を全うして逝きました。

夫の死後場では半野良状態だったので、20歳までなど絶対に長生きはしなかったことでしょう。

「9ちゃん」の最後の写真を見せてもらいました。

沢山のきれいな花に囲まれて、静かに眠っていました。

それを見て私は、とても嬉しくなりYさんに感謝の言葉を言いました。

神の心にかなうための模索が大事

一つの心が大切

隈本確先生は以前から、死の間際の想念が大切であると強調しています。

この言葉の意味するところは、誰でもたった今心の底から反省し、心の姿勢の全てを切り替えれば救われる、ということでもあります。

自らの心のあり方が間違っていたと気づかれた方があれば、即座に大いなる反省をし、改悛の情を燃え立たせてほしいと思います。

心の世界とは、たとえ一秒の反省であっても、その想いが本当に深いものであれば、天に通ずる世界であります。

それだからこそ、心のあり方次第では、神霊治療をはじめいろいろな奇跡すら可能なのであります。

人間、この生身の肉体はいつ死ぬか知れないからこそ、常に心の管理を怠ってはならないという道理も成り立つのです。

人間は、一つの心こそ大切なものであると思います。

本音と建て前が違うということ、つまり二心(ふたこころ)、三心(みごころ)を抱くということは、自己の魂を苦しめ、自分自身を破滅へと導くものであることを知るべきなのです。

 

  目に見えぬ神の心にかなうこそ

        人の心のまことなりけり

 

これは、明治天皇の御製であります。

この歌の中には難しい言葉は一つもないけれど、これほどに神霊と人間とのつながりの妙、ならびに心の指標を言い得た言葉もないと思います。

この人間界で生活している私達は、普通の状態では神の姿を拝することもできませんが、霊界の実相を見聞きすることもできません。

しかし、地球をも含むこの大霊界には実際に神霊がおられ、私たちは日々、そうした神霊との何らはのかかわりの中で生きているのです。

そうであれば、私達は目に見えない神の心に対して、形式とか外見にこだわることなく、ひたすら真心からの行いで応えていくべきなのだと思います。

私たちの毎日の生活の中に、諸々の事象として顕現されたくる想念界の様相を一つ一つ整理し、反省し、そして、どのような想念こそが神の心にかなうのか、ということを絶えず模索しつつ生きていきたいものであります。

そのような目に見えない努力を、何年、何十年と続けていくことによって、きっと、わたしたちの心(魂)は昇華、美化されていくことでしょう。

それが、人間の魂が成長していく過程でもあるのです。

 

 

 

私の反省

今回の記事とは全く関係のない話です。

私は「週末ビフォーアフター」というyoutubeが好きでよく見ます。

毎週金曜日のお昼前くらいだと思いますが、更新されます。

依頼のある家庭に行って、片づけをするのです。

この「週末ビフォーアフター」というyoutubeの特徴は、「捨てなさい」とは言わないのです。

依頼人だけでなく、依頼人の家族の想いもきちんと聞いて、家族にとって一番生活しやすい収納を考えます。

そして、最低一部屋はきちんと片付けるのです。

そのyoutubeを行っている古堅純子氏によると、「捨てなさい」と言わなくても、一部屋でもきちんと片付けて気持ちのいい状態になると、家族全員の意識も変わり、おのずと捨てるべきものがわかってくるというのです。

だから、使用頻度の高いものは使いやすい場所に、使用頻度の低いものはあまり手の届かない場所や、使いづらい場所に収納し、家族だけになった時に散らかりにくい部屋にします。

入りきらないものは、あまり視野に入らないところに種類別にまとめておくというものです。

今日観たyoutubeでも、とてもきちんと片付いて使いやすくなっていました。

それを見た次男君(おそらく小学生)が、「ダメだ!ダメだ!」と、否定をしながら片付いた部屋を次から次と開けていました。

言葉にすると、せっかく片付いているのに、変な子と思われると思いますがこの次男君、口では否定をしていますが、家の中がどこもかしこも片付いて、嬉しくてしょうがなくて言っているのです。

この次男君を見ていると、まるで我が家の長男そっくりだと思いました。

我が家の長男も、必ずと言っていいほど否定していました。

そういう長男を見ていて、私はいつも悲しい気持ちになっていました。

この子は何故いつも、否定ばかりするんだろう、なぜ素直に言えないんだろうと。

長子だということもあり、私も子育てに力が入っていたんだと思います。

「週末ビフォーアフター」での次男君の様子を見て、古堅純子氏がとても温かい言葉を言っていました。

「口では否定をしているけれど、嬉しいんだよね」と。

それを見ていて、私は自分が長男の否定している言葉に対して、長男を否定していたけれど、長男の行動を見て長男を受け入れればよかったんだと、反省をしました。

もう大人になってしまった長男には、私が反省をしてももう遅いですが……

 

 

 

 

 

建て前が通用するのは人間界だけ

前回の続きです。

 

建て前と本音は日常の中にもある

建前と本音の違いということについて言えば、これも一部の宗教者、霊能者だけに限った問題ではありません。

一見、幸せそうな、ごく平凡な家庭の中にさえ、この建て前と本音の違いということは、しばしば見受けられるのです。

例えば、貞節でいかにも優し気な妻が、心の中では夫を呪いに呪っている場合もそうです。

「あなた、お帰りなさいませ、お疲れ様、お食事、召し上がりますか、それとも、すぐにお風呂になさいますか。どちらでも……」

などと優し気な言葉で、帰宅した夫を迎えた妻、実は心の中ではこんなことを言っています。

「まったく、いま何時だと思ってんの、もう十時半よ!私は一日中家でおさんどんをしているのに、好き勝手な時間に帰って来て!今まで、どこで何をしてたのよ。まったくバカにしている。で、帰れば”風呂、飯、寝る”しか言わないじゃないの。たまにお風呂が沸いてなかったりしようものならギャーギャーわめくし、うるさいったらないわ。ほんとにィ。今は食べさせてもらてるから我慢してるけど、私だって自分に経済力があったら、すぐにでも家を飛び出しちゃうから。そいで、もっとましな男を見つけるわ!」

あるいは、姑さんが嫁に対して、さも感謝しているようにこんなことを言うのです。

「由紀子さん、あなたがお嫁に来てくれたおかげで、わたくしも大変助かりますわ。仕事も全然しなくていいし、息子の面倒もしっかり見てもらえるし……」

ところが、心の声は次の通りです。

「何が助かるものか、嫁に来てもらって大変迷惑。台所の隅々は汚れっぱなし、料理なんかまずくて食えたものではない、洗濯一つさせてたって満足にしやしない。機械でするっていうのにさ。それに、ちょっと目を離せば昼寝ばかり。買い物に行けば手あたり次第買い込んで、冷蔵庫の中はいつもいっぱいで、ぷーんと嫌な臭いがする。息子にべったり引っ付いてりゃ、それでいいってもんじゃないんだよ。こんなぐうたらな女、見たことがない。ああ、憎たらしい。よりによって、何てつまらん女を息子の嫁にしてしまったんだろう」

—―と、このように日常生活の中でも、建て前と本音の間には深い溝があることがままあるものです。

(ここで一つの注釈を付ければ、この建て前ではなく本音である心の想いの世界を読み取ることを読心術という。神霊との対話も、こうした一種の読心術の世界でなされるものである)

しかし、人間、いくら表面をつくろい、建て前で押し通したところで、それが通用するのは生きてこの世にある間だけです。

高々、百年足らずのことです。

それに比べて、死後、何千年、何万年と続くかもしれない霊界にあっては、その人間が現界から持ち越してきた本音の部分だけしか通用しないのです。

だから、どんなに優しげな顔をつくっても、また誠実そうな言葉を吐いても、それが真心から出てきたものでなければ、霊界においては全く意味を成しません。

のみならず、霊界が心(想念)だけの世界であれば、言葉に反して心が醜い人間は、霊界では当然、悪想念ばかりが渦巻く地獄界へと落ちていくことになるのです。

 

 

 

 

 

笑顔のおばあちゃま

>人間、いくら表面をつくろい、建て前で押し通したところで、それが通用するのは生きてこの世にある間だけです。

 

本当のそうなんですよね。

また義母の話になりますが、義姉が義母を連れて行ってから間もなくのことです。

義姉が義母を連れて行くという時の夫の兄弟に対して、私達夫婦が出した条件が義母が私達の仕事場に来ないで欲しい、ということでした。

義母や義姉は、住まいは義母が義姉のところにいても、日中の昼間は今まで通り、夫の仕事場で仕事をするということを想像していたようでした。

でも、私たち夫婦が出した条件は、義母に仕事に来ないでくれというものでした。

これには義母本人だけでなく、義姉や夫の兄弟たち全員驚いたようでした。

何故なら、義母自身が自分がいなければ我が家の仕事が成り立たない、と思い込んでいたようでした。

おそらく義母も、周囲にそのように言いふらしていたと思われます。

ところが、私達は年老いた義母(当時88歳だった)の思い込みの激しさと、間違いだらけで困っていて、本音のところでは早く仕事をやめてもらいたかったのです。

電話を受け取って、調子のいい返事をしても、当時二カ所の市場に出荷をしていたのですが、そのどちらかの市場からの電話だったのにもかかわらず、二カ所両方の名前を合わせたものを言うし、水を出しっぱなしで帰宅をしてきたり、と大変だったので、それを機会に仕事をやめてもらってホッとしていました。

本人は、いずれわたしたちが困って、来てくれと頼みに来ると思い込んでいたようですが……

話は元に戻りますが、義母が義姉のところに行ってしばらくして、お客さんが来て

「笑顔の素敵なおばあちゃまは、お元気?」

と言われ、私は思わず

「そんな人家にいたっけ?」

と言ってしまいました。

お客さんは、その言葉で全てを察したようで、黙ってしまいました。

 

平気でうそをつく人は意外と多い

本音と建前が違う人

以前書いた「悟りに言葉はいらない」ということに関連して、言葉ということについて少々考えたいと思います。

隈本確先生は、長年言葉を超えた神霊世界の仕事をしている関係上、人間の心と言葉の間に存在するギャップに対して非常に神経質になっています。

本音と建前の違う人には、ほとんど嫌悪感に近いものを感じてしまうのです。

「心にもないお世辞を言ったり、心と裏腹のことをさも真実らしく語ったりする人物は、まったく我慢ならない存在であるが、彼らは、自分自身の背後霊や先祖霊にその心の実物を全て把握されているということを、一刻も早く知るべきでしょう。

自らの想念界で制作したウソを平気で喋り散らしている人達は、まことに気の毒な人達であります。

人に平気でうそをつく、本音と建前が違うということは、要するに自分の心、魂に対してウソをついているということになります。

わたしたちが、肉体の死後も魂だけの存在となって永遠の大霊界で生き続けなければならないことに思い至れば、これは大変なことであります。

もし、あなたが不幸にして自らの魂を欺くことを日常しているとしたら、一分でも一秒でも早く、ぜひ、ことの重大さに気づいてもらいたいものです。

はっきり言ってしまえば、隈本確先生が見渡したところ、このような人たちは案外多いのです。

さしずめ、一部霊能者、祈祷師の間で盛んな水子供養など、まさにまやかしそのものの行為であります。

かつて、インチキの合成写真でいかにも水子霊なるものが写っているかのように見せかけて、依頼人からお祓い料をとっていた自称霊能者、実はペテン師が社会をにぎわしました。

まったく迷惑な話であります。

しかし、この事件にしても宗教や神霊に絡んだ氷山の一角に過ぎないのです。

実際に自分自身で水子霊の存在を確かめることもできず、その存在自体を認められないにもかかわらず、一部の 自称霊能者、宗教従事者たちは、「水子霊の供養引き受けます」などとまことしやかに言います。

建て前の面では水子霊救済の錦の旗を掲げ、その実、本音をさぐれば水子供養ということを単なる金儲けの手段としているわけです。

 

次回に続きます。

 

 

 

ある出来事

>人に平気でうそをつく、本音と建前が違うということは、要するに自分の心、魂に対してウソをついているということになります。

 

同居していた義母が、まさにそんな人でした。

自分でうそを言っていることに対して自覚があるのかないのかわかりませんが、自分の都合が悪くなると、決まって自分が被害者になり、夫や私が悪者になっているのが当たり前でした。

だから、知らない人が聞いていると、わたしは鬼嫁だったようです。

結婚して数年が過ぎた頃にこんなことがありました。

義母に電話をしてほしいという人がいました。

私は、義母が帰宅してから、そのことを伝えました。

ところが、義母は電話をすることを忘れていたようです。

私に電話を欲しいと頼んだ人から電話がかかって来たようです。

そんな時、私が近くにいて電話をしている義母の言っている言葉が聞こえる場所にいるのにもかかわらず、平気で「嫁が教えてくれなかった」と、私が伝えなかったことにしていました。

義母は、電話を切った後も平然としていました。

その様子を心や魂の親さんがしっかりと見ているのですね。

昔から日本では、お天道さんが見ている、という言葉がありました。

 

自己の魂は自己の王者

前回の続きです。

 

とらわれすぎると良くない

本来、自己の魂は自己の王者であるべきなのです。

それなのに、その魂をとりまく想念界で、あれこれ度を過ぎた想いに走ると、真の自由体である魂には大きな負担となるのです。

一般に言われている悪い考えに凝り固まることは、魂にとって当然良くない事でありますが、いわゆる一般道徳的に正しいことであっても、あまりに排他的にその考え一つに凝り固まることは、やはり魂にとって良くないことなのです。

例えば、親側に何の反省もなく一方的に「親には孝行しなければならない」と子供に言ってみたり、「墓は立派にし、法事は盛大にしなければならない」「子供は一流大学を出して、一流会社に就職しなければならない」……などなど、世間一般で多くの人達が人間界倫理としてかたくなに良いと信じていることも、度が過ぎれば結果は裏目にしか出ないでしょう。

しかも、教条主義的思考をもって一生を終えたものは、ある一定の考えにかたくなに凝り固まった想念が魂の重なりとなっているため、死後も高き霊界へは進むことができず、地獄界へと落ちていくことが多いのです。

 

 

 

知人の悩み

>本来、自己の魂は自己の王者であるべきなのです。

 

私は、この表現がとても好きです。

自己の魂は自己の王者であるべき。

良いですね。

私の魂は私の王者。

 

>真の自由体である魂には大きな負担となるのです。

 

私の知人に、人としてはとてもいい人なのですが、とても苦しんでいます。

もうすぐ80歳になろうという人です。

端から見ると、いや本人も自分の人生で今が一番良い時期で、何の不満もないはずだと言います。

知人の夫である人も、気のいい人です。

2人の子供たちも成人をして社会で立派に働き、それぞれに家庭も持ち、孫たちも順調に育っています。

それなのに、今は若かった頃のことを思い出して悔しい 思いをしているというのです。

頭では、そんなこと今さら思い出したところで、どうなるわけでもないことは重々承知をしているというのに、自分の思いの中で許せないことがいっぱいあって、今になって思い出して悔しいという感情が湧いてきてどうしようもないというのです。

夜中に突然、思い出してあの時ああいえばよかった、こうすれば良かったと思うこともあるのだそうです。

この知人は、人間界の中では真っ当な人です。

世間一般の常識に沿った生き方をしてきました。

ところが、過去の一つ一つが自分では納得していないことがいっぱいあったようです。

一番の不満の対象は、気のいい夫に対してです。

知人の夫は、とても気のいい人ですが、外でいい顔をし過ぎるためそのしわ寄せが妻である知人に来ていることに全く気がついていません。

妻である知人も、不満があっても世間での目を気にして、自分の想いを胸の中に押し込んでしまったようです。

それが今になって、消化しきれず平和になった今になって胸の奥にくすぶっていた想いが飛び出してきているようです。

 

>ある一定の考えにかたくなに凝り固まった想念が魂の重なりとなっている

 

知人もまた生来の生真面目が災いをして、ものごとを四角四面に考え過ぎてしまうために、自分だけでなく夫にも厳しい基準を設けてしまうために、いつも自分の思うままに生きている夫に対して厳しくなってしまうようでした。

知人も自分の基準が、あまりに気真面目過ぎることはわかっていて、それを変えようと試行錯誤をしているようです。

今回の記事は、この知人の想いに重なる部分があったので書いてみました。

知人が地獄に落ちるとは思えませんが、何とか知人が今の辛い状態から抜け出してほしいと願っています。

 

悟りとは言葉で納得する世界ではない

霊界の三大原則

どのような想念をもつと、どのような霊界に行くのかということについては、これまでにも折に触れて書いてきていますので、このブログを読んでいる方もおぼろげであっても理解してくださっていることと思っています。

隈本確先生も大霊界に存在する無数の神霊の全てと接触したわけではありませんので、百パーセントそうであるとは断定できませんが、今日までの何十、何百万体という招霊、招神体験から知り得た範囲内で話を進めましょう。

まず、霊魂というものは、霊界にあって真の自由体でなければなりません。

ここに、霊界の三大原則とでも言うべきものを掲げてみましょう。

一、霊界において霊魂は、あらゆる研磨を積み、力、働き、術(エネルギー)を修得することの自由をもつ

一、霊界において霊魂は、自己の霊体の浄化の自由をもつ一、霊界において霊魂は、神界での自己の霊体の無限の向     上の自由をもつ

ところで、この霊界の三大原則に反し、その足かせとなるのが人間界想念の教条主義です。

神とはいかなる存在か、悟りとは何か、このような問いかけに対して学術的な答えを得ようと思うのだったら、古今東西の文献を紐解けばいいのです。

しかし、その文献に書かれたことの全てを頭に詰め込んだとしても、だから神を知ることができた、だから悟りを得られた、ということは決してできないはずです。

もし、そのような知識にすっかり満足しきって、それで神を、仏を知ることができたと思い込んでいるようであれば、それこそ教条主義の悪弊に陥っていると言うべきであります。

本来、神の世界、悟りの境地とは、言葉や文字という有形の表現手段では現し得ない想念世界境地であります。

それは、自らが神の世界にひたり得た時に、初めて胸中深くに感じられる至福の境地でもあります。

だから、本当のところは、悟りに言葉はいりません。

いろいろな理屈や注釈を必要としている間は、まだ悟りには程遠いということも言えます。

神の世界とは、また悟りの境地とは、言葉で納得する世界ではないのです。

それは、あくまでも己自身が、味あう世界なのです。

隈本確先生の言うこの教条主義とは、なにも神の世界だけに限ったことではありません。

それは、私達の日常生活すべての面に見られる、ある好ましくない心の状態なのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

悟りの境地

>神の世界、悟りの境地とは、言葉や文字という有形の表現手段では現し得ない想念世界境地であります。

それは、自らが神の世界にひたり得た時に、初めて胸中深くに感じられる至福の境地でもあります。

 

世間一般で言われる悟りを開いた、という言葉とは、隈本確先生の言われる悟りの境地とは、大分違う気がします。

おそらく世間一般に言われているものは、教条主義から得た知識で分かったつもりでいる人のことではないかと、私は勝手に思っています。

私は隈本確先生の言われる悟りの境地の方が、心にしっくりきます。

言葉や文字という有形の表現手段では表現ができない想念の世界……

いつか私も、神の世界で胸中深く至福の境地にひたれる日が来ることを願っています。

魂を向上させることが大事

前回の続きです。

 

霊界での生活に備えて魂を向上させる

――人間は何のためにこの世に生を享け、何のために生きていくのでしょうか。

隈本確先生は言っています。

私達が現界人として過ごすこの世の生活は、人間が霊界入りする前段階の束の間のモラトリアム期間であると、そして、この時期に私達人間は、来るべき永遠の霊界での生活に備えて、十分に魂を向上させておかなければならないのです。

その魂の向上は、時として現界での熾烈な苦しみをあまんじて受けることのによって達成される場合もあります。

しかし、そのようにして現界で課せられた過酷なまでの試練を乗り越えた魂は、肉体を去って霊界入りをした暁には、一路、きらめく大霊界の高みに向ってずんずん進みゆくことでしょう。

このくだりの意味をよく考えると、人間界生活での真実の基本姿勢もだいたいわかっていただけるはずであります。

また、自殺という死の決算に対する善悪の判断も、このブログを読んでいる方々ご自身で下されることと思います。

いかなる人間の死といえども、それは人間界最後の決算であり、永遠の大霊界への初めの一歩であります。

その死の瞬間に、霊界での居住地もだいたい決まってしまうのです。

そうだとすれば、やはり、死とは、人間の過去、現在、未来を通して最大の問題であり、軽々しく扱うべき問題ではないでしょう。

 

 

 

>魂の向上は、時として現界での熾烈な苦しみをあまんじて受けることのによって達成される場合もあります。

しかし、そのようにして現界で課せられた過酷なまでの試練を乗り越えた魂は、肉体を去って霊界入りをした暁には、一路、きらめく大霊界の高みに向ってずんずん進みゆくことでしょう。

 

この世に生を享けて、このことを理解している人と、理解していない人では、肉体消滅時に大きくわかれることでしょう。

でも、現界での過酷な試練は乗り越えることができればいいけれど、その乗り越えようとしている最中というのは、とてもつらく苦しいものです。

 

そんな時に、聖の親様や聖なる御霊親様という日神会の神様からのエネルギーをいただくと、辛く苦しい試練を乗り越える知恵や力が湧いてきます。

 

先ほど、ジャーナリストの我那覇真子氏のとても怖い話を聞きました。

今カナダがとても大きく変わってきているということです。

私は、夕飯の片づけをしながら聞いていましたので、違うところもあるかもしれませんが大まかに言うと以下のとおりです。

カナダ政府が自殺希望者の手伝いを推奨しているというのです。

27歳のむすめさんが自死をしようとしたのを止めたのですが、それが娘さんの気持ちを尊重しなかったということで裁判になって、父親が負けたというのです。

父親がやったことは、親として当然のことです。

父親の気持ちを思うと、辛いですね。

そのように若い人が悩んでいると、国の機関が自殺を勧めてくるというのです。

もう、信じられない話ですが、本当のようです。

日本は欧米に追随することが多いので、心配です。