聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

善意の自殺

自殺をした人の魂の行き先

昔から言われている言葉の一つに、「自殺をしたものの魂は浮かばれない」というのがあります。

そして、霊界の実在を信じる人達の多くも、自殺者の霊は霊界で迷い、苦しんでいると考えているようです。

そんなわけで、自殺者の遺族の方々は、往々にして、身内が亡くなったという悲しみのほかに、割り切れない悲しみと不安をいだいてしまうのです。

しかし、以前から言っているように、意外に自殺と言っても厳密に考えれば、そこには天界入りの自殺および魔界入りの自殺も含まれれば、はたまた戦争の犠牲者、主君への忠義を果して殉死した臣下、あるいは即身成仏の名のもとに自ら果てていった僧侶たちも含まれるでしょう。

ここで、結論を先に行ってしまえば、結果的に自殺をなした彼らの全てが霊界で救われずに苦しんでいるということは、ありえません。

私達人間は、この世に生を享けて、職業をもち、家庭をもち、社会生活を営みます。

そして子孫をもうけ、人類繁栄のため各人各種のやり方で何らかの努力をしていくでしょう。

それが、人間生活というものだからです。

こうして、私達は自分に課せられたいろいろな仕事、この世での任務を全うした暁に、自然の淘汰によるところの霊界入りを果たすわけであります。

これが、人間の最も自然で望ましい、基本のすがたなのです。

しかし、世の中にはそれもかなわず、国家の忠義のために、主君への忠義のために、あるいは即身成仏の名のもとに、自らの生命を中断せざるを得なかった人々も実際にいます。

隈本確先生はこれらの人々について、先ほど、結果的には自殺をなしたと結論付けましたが、このような自殺を「善意の自殺」と言っておきましょう。

善意の自殺という言葉は妥当とはないかもしれませんが、より適切な言葉が見つからないので、ここでは一応そのように言って了解していただくことにします。

隈本確先生が、ここで言いたいことは、自殺行為ひとつを論じるにしても、そこには人間界倫理に照らして善として見られることと、悪として見られることがあるということです。

そして、このことを神霊世界から見た場合に、どのようなことになるのでしょうか。

先程もちょっと触れましたが、長崎市の西坂でキリシタンのゆえに火あぶりの刑に処せられた殉教者達は、死の間際、燃え盛る焰の中でさえキリストを信じて、唇にはほほえみすら浮かべていたといいます。

この時、彼らの想念はすでに美しき神界に飛翔していたのでしょう。

されば、彼らの魂は肉体の死後、輝く大霊界の高みに解き放されたはずです。

同じ自殺行為とと言っても、このように善意の自殺行為の場合には、死の間際の想念がだいたいにおいて崇高で美しいものです。

したがって、苦しみや恨みの悪想念に燃えながら霊界入りしていった霊魂とは、当然、霊界での居住区が違ってきます。

何故なら、自殺に限らず病死、事故死、老衰死のいずれにしてもその区別なく、死後、当人の魂がいかなる霊界に行くかは、死の間際の想念、心境によって決まってくるからです。

それは、たとえ母子、兄弟であってもわからない当人自身の死の間際の心のありかたの問題であるともいえます。

 

 

 

.死の間際になって魂が高いレベルになれない

長崎市の西坂でキリシタンのゆえに火あぶりの刑に処せられた殉教者達は、死の間際、燃え盛る焰の中でさえキリストを信じて、唇にはほほえみすら浮かべていたといいます。

 

そうだったのですか……

私は今、感動をしています……

こんなことが可能なのですか……

 

>彼らの想念はすでに美しき神界に飛翔していたのでしょう。

されば、彼らの魂は肉体の死後、輝く大霊界の高みに解き放されたはずです。

 

きっと高い神の世界に行かれたのでしょうね。

 

>死の間際の想念、心境によって決まってくるからです。

 

そうなんですよね。

死の間際になって急に、神界レベルの想念にはなりっこないのです。

だから、日ごろから魂を汚してはいけません。

気を付けたいものです。