聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

自己の魂は自己の王者

前回の続きです。

 

とらわれすぎると良くない

本来、自己の魂は自己の王者であるべきなのです。

それなのに、その魂をとりまく想念界で、あれこれ度を過ぎた想いに走ると、真の自由体である魂には大きな負担となるのです。

一般に言われている悪い考えに凝り固まることは、魂にとって当然良くない事でありますが、いわゆる一般道徳的に正しいことであっても、あまりに排他的にその考え一つに凝り固まることは、やはり魂にとって良くないことなのです。

例えば、親側に何の反省もなく一方的に「親には孝行しなければならない」と子供に言ってみたり、「墓は立派にし、法事は盛大にしなければならない」「子供は一流大学を出して、一流会社に就職しなければならない」……などなど、世間一般で多くの人達が人間界倫理としてかたくなに良いと信じていることも、度が過ぎれば結果は裏目にしか出ないでしょう。

しかも、教条主義的思考をもって一生を終えたものは、ある一定の考えにかたくなに凝り固まった想念が魂の重なりとなっているため、死後も高き霊界へは進むことができず、地獄界へと落ちていくことが多いのです。

 

 

 

知人の悩み

>本来、自己の魂は自己の王者であるべきなのです。

 

私は、この表現がとても好きです。

自己の魂は自己の王者であるべき。

良いですね。

私の魂は私の王者。

 

>真の自由体である魂には大きな負担となるのです。

 

私の知人に、人としてはとてもいい人なのですが、とても苦しんでいます。

もうすぐ80歳になろうという人です。

端から見ると、いや本人も自分の人生で今が一番良い時期で、何の不満もないはずだと言います。

知人の夫である人も、気のいい人です。

2人の子供たちも成人をして社会で立派に働き、それぞれに家庭も持ち、孫たちも順調に育っています。

それなのに、今は若かった頃のことを思い出して悔しい 思いをしているというのです。

頭では、そんなこと今さら思い出したところで、どうなるわけでもないことは重々承知をしているというのに、自分の思いの中で許せないことがいっぱいあって、今になって思い出して悔しいという感情が湧いてきてどうしようもないというのです。

夜中に突然、思い出してあの時ああいえばよかった、こうすれば良かったと思うこともあるのだそうです。

この知人は、人間界の中では真っ当な人です。

世間一般の常識に沿った生き方をしてきました。

ところが、過去の一つ一つが自分では納得していないことがいっぱいあったようです。

一番の不満の対象は、気のいい夫に対してです。

知人の夫は、とても気のいい人ですが、外でいい顔をし過ぎるためそのしわ寄せが妻である知人に来ていることに全く気がついていません。

妻である知人も、不満があっても世間での目を気にして、自分の想いを胸の中に押し込んでしまったようです。

それが今になって、消化しきれず平和になった今になって胸の奥にくすぶっていた想いが飛び出してきているようです。

 

>ある一定の考えにかたくなに凝り固まった想念が魂の重なりとなっている

 

知人もまた生来の生真面目が災いをして、ものごとを四角四面に考え過ぎてしまうために、自分だけでなく夫にも厳しい基準を設けてしまうために、いつも自分の思うままに生きている夫に対して厳しくなってしまうようでした。

知人も自分の基準が、あまりに気真面目過ぎることはわかっていて、それを変えようと試行錯誤をしているようです。

今回の記事は、この知人の想いに重なる部分があったので書いてみました。

知人が地獄に落ちるとは思えませんが、何とか知人が今の辛い状態から抜け出してほしいと願っています。