聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

想いの世界のたいせつさ

前回の続きです。

 

思っていることは霊界からは筒抜け

隈本確先生は、これまでに刊行してきた「大霊界」シリーズの中で、しばしば低級霊という言葉を使ってきました。

が、この言葉は、霊界にばかりでなく、そのまま人間界にも当てはまるものだと思います。

すなわち、人間界にも、やはり低級人間とでも言うべき人達がいるのではないか、という事です。

それは、想いの世界の過ちという事を知らない人達、自己の想いを管理できない人達にほかなりません。

言葉に、出さないのだから良いだろう、考えるだけなのだから良いだろうと思って、心の中で悪想念のありったけをたぎらせて平気でいるような人は、霊の存在ということについて、よくよく考えなおしてみる必要があります。

隈本確先生は、次のことを繰り返し、何度でも言います。

霊とは、人間想いの塊です。

人間がその生を終えて肉体という殻を捨て去った時、人は心だけの存在、想念だけの存在、想念だけの存在の霊となるのです。

だから、霊といわれる存在は、たとえ、それが高級神霊であろうと低級霊であろうと、善霊であろうと悪霊であろうと、当然の事ながら、想念界では大変通暁しています。

私達人間がいだくかすかな想いの光や影を、霊界側の住人たちは、よろしく感知しているのです。

そして、人間自身が知らないうちに、己の想念に見合った霊が群がり集ってくるのです。

心に悪想念を有すれば、その人間自身、悪霊の巣窟ともなるでしょうし、心に清き想念を有すれば、肉体は現界にありながら、高き神霊としっかり結ばれることになるでしょう。

たとえ、両者が言葉では同じことを言っていようとも、心、想念の違いがやがて、その運命に大きな隔たりをもたらすことは、あまりにも当然のことであります。

心の中で犯した過ちを知って、これを反省、是正する心の姿勢、すなわち想いの世界の管理という事でありますが、それが人間生活にとってどれほど大切なことであるか、この記事を読まれた方は深く心に刻み込んでいただきたいと思います。

なぜならば、これまでもそうだったように、今後も隈本確先生が論ずるすべての問題は「想いの世界のたいせつさ」ということが、まず、前提となっているからです。

 

 

 

 

 

>言葉に出さないのだから良いだろう、考えるだけなのだから良いだろうと思って、心の中で悪想念のありったけをたぎらせて平気でいるような人は、霊の存在ということについて、よくよく考えなおしてみる必要があります。

 

こういう人はいます。

そして、その人はばれていないと思っているのですが、バレていないこともありますが、完全にばれていることもあります。

いつもバレなければいいやと思っていると、いつの間にか自分に甘くなり、他の人達とのずれが出てきますが、他の人にはあからさまにわかっても、本人だけが気がついていないという事があります。

でも、霊界からは全部バレているんですね。

 

>人間自身が知らないうちに、己の想念に見合った霊が群がり集ってくるのです。

心に悪想念を有すれば、その人間自身、悪霊の巣窟ともなるでしょうし、心に清き想念を有すれば、肉体は現界にありながら、高き神霊としっかり結ばれることになるでしょう。

 

霊というのは、一般には目に見えないし聴こえないので、自分の想念管理がしっかりしていないと、自分の想念に見合った霊がいつの間にか群がっているという事ですね。

怖いですね。

 

>「想いの世界のたいせつさ」

 

自分の思っていることは、言葉に出したり文字に表した事と同じように、気を付けるべきですね。