聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

老年者の霊界志向と霊媒体質者の霊界志向の自殺

前回の続きです。

 

老年者の霊界志向の自殺と霊媒体質者の霊界志向の自殺

人間は、年をとればとるほど霊的感覚が発達し、霊界志向が強くなってきます。

したがって霊界志向の強い老年者にあっては、ある日突然、半睡状態の折、霊界の美しい風景が見えてきたり、妙なる楽の音が聞こえてきたりするのです。

それは、この人間界では見ることも聞くこともかなわぬ美の世界なのです。

—―それに引き換え、この世は何と無残に汚らしいものでしょう。

こうして、霊的感覚の発達した老年者は次第に現界に嫌気がさし、興味がなくなってくるのです。

そのうえ、現実の生活に立ち戻れば、現代の老年者はとかく邪魔者扱いにされ、家族でさえがろくに相手にしてくれないといったありさまです。

老年者が、ふと、夜明け方見たあの美しい世界(霊界)に行こうと思いたつ背景にはこんな現実もあります。

かくて霊的感覚の強い老年者は、自ら、その肉体人間としての生活に終止符を打ってしまうのです。

これが、老年者の霊界志向による自殺なのです。

つぎに、霊媒体質者の霊界志向による自殺ということについて考えてみましょう。

霊媒体質とは霊に憑りつかれやすい体質、すなわち、霊界の波動に対して非常に敏感な体質のことを言います。

霊媒体質者の多くは、しょっちゅう病気になったり、事故にあったりしています。

それというのも、人間界に介入してくる霊のほとんどが未浄化な低級霊だからです。

そして、霊的に敏感な霊媒体質者は、それら低級霊の波動にいちいち感応するものだから大変です。

体のあっちが痛くなったり、こっちが痛くなったり、さらに気味の悪い霊の姿が見えたり、声が聴こえてきたりするのです。

もちろん、それとともに予知現象など、いろいろな霊的現象が自然発生的に心身に沸き上がってくるのです。

これら不幸な霊媒体質者たちは確かに霊界という異次元の世界と交流をもっているわけで、それゆえに一般の人々にはわからないようなことがわかり得る、それが時にはメリットになることもあります。

通常、人間の五感・知覚でとらえることの出来る現象界の出来事というのは、ごく限られた範囲内のものであります。

例えば、周波数が非常に高い超音波を出す犬笛は、犬にはよく聞こえるのに、人間には全く聞こえません。

また、ある種の動物たちは地震に伴うかすかな地鳴りを敏感に感じとったり、いろいろな災害を予知することによって、安全な住処へと移動することが知られています。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

娘の友達のおじいちゃんの死

私の娘の友達のおじいちゃんの話です。

まだ娘が幼稚園の頃の話です。

その頃は、娘の友達親子は2階で寝ていました。

下には、おじいちゃんとおばあちゃんが寝ていました。

朝の6時頃、おじいちゃんとおばあちゃんはたわいもない会話をしていました。

でも、急におじいちゃんの返事がなくなったのです。

しばらく待っていてもおじいちゃんからの返事がないので、おばあちゃんはおじいちゃんに声をかけながら、おじいちゃんのそばに行ってみました。

すると、おじいちゃんは息をしていませんでした。

おばあちゃんは、びっくりして2階にいる若い人たちを大きな声で呼びました。

「おじいちゃんが死んじゃったよ!!!」と。

娘の友達の両親は、驚きました。

おばあちゃんは朝から何を言っているんだろうと。

慌てて下におりました。

家族みんなびっくりです。

おじいちゃんは、昨日までいつもと変わらず元気だったのです。

この話は、娘が幼稚園の頃だったので、幼稚園の送り迎えで毎日娘の友達のお母さんと会っていたのと、おばあちゃんとも親しくしていたので、両方から聞いた話です。

こういう永遠の別れは、家族としては突然すぎて辛いかもしれませんが、当のおじいちゃんからすれば願いが叶ってよかったのかもしれません。

しょっちゅう、家族の世話にならずぽっくり逝きたいと言っていたのだそうです。

とても家族思いのおじいちゃんだったそうです。

精神世界のピーク年齢は高い

前回の続きです。

 

年をとるほど霊的感覚が発達し霊界志向が強くなる

肉体の能力や頭脳の能力のピークとちがい、精神の世界はもっと年齢が高いのです。

こと政治の世界では、ますます顕著になってきています県議会議員、国会議員など、四十代ではまだまだ子ども扱い、五十代でやっと一人前、総理大臣にいたっては五十五歳以上七十代以上というのが常識のようになっています。

多くの人を統率、指導し、さらに多人数の所帯を運営をしていくということになると、肉体や頭脳の力以上に精神世界の力が要求されてくるのです。

そして、このようなことについて、日ごろ心の世界についてなど少しも考えたことのない人であっても、本能的に知っているのです。

本能的ということが適切でなければ、それを生活の知恵と言うふうに置き換えてもいいでしょう。

すなわち、私達は生活の知恵として知っているのです。

このように、私達人類が人間の肉体、頭脳、精神の構図を無意識のうちにも把握していた証拠に、私達は長い歴史を通じて、何か事あれば、年長者、長老の意見に従うことが非常に多かったのです。

ところで、人間の肉体、頭脳、精神に絡んだ社会の問題はさておくとして、人間の肉体や頭脳の力が衰え、それに反して心、精神の力が向上してくると、どのようなことになるのか、そして、それが本章のテーマである自殺と、どのような関連をもっているのでしょうか。

まず、五十歳代を過ぎて強靭な肉体、唯物的な頭脳の働きが減衰することによって、ようやくわが春が来たれりと、その人間の(心の世界)、霊魂世界が表面に躍り出てくるのです。

それまでは、活発な肉体や頭脳の力が、心の世界に対して厚い壁となっていたのです。

こうなると、当然、自己の霊魂の働きが旺盛になってくるから、一般社会問題に対しても直観力が働くようになり、後輩に対しては正しいアドバイスができるようになってくるのです。

と同時に、六十歳、七十歳、と高齢になってくるほど自己の内部に豊かな精神世界が広がり、霊界の波動に対しても非常に鋭敏になってきます。

これが、老年者の霊界志向です。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

半導体の件

県議会議員、国会議員など、四十代ではまだまだ子ども扱い、五十代でやっと一人前、総理大臣にいたっては五十五歳以上七十代以上というのが常識のようになっています。

多くの人を統率、指導し、さらに多人数の所帯を運営をしていくということになると、肉体や頭脳の力以上に精神世界の力が要求されてくるのです。

 

隈本確先生の説に逆らうようで、ちょっと心苦しいのですが、この説も一理あると思いますが、今まではそれでよかったでしょうが、これからの時代は若い人も入らないと困ることも出てくるのではないかと思います。

この件では、私の独りよがりかもしれませんが、こういう考え方もあると思って読んでいただけると嬉しいです。

私はあまりIT関係のことは詳しくはないのですが、以前の日本は半導体の分野では世界でもトップを走っていたと聞きました。

ところが、今では台湾がとても進んでいると言います。

なぜ世界のトップを走っていた日本が今は落ち目になったのか、そこが政治の力だと聞いたことがあります。

半導体というものに対しての政治家の認識が無知過ぎたのではないかと聞いたことがあります。

こういうことは、年寄りの政治家にはどれほどの価値があるのか、あまりわかっていないのではないかと思われます。

政治がちゃんと、日本の半導体を守らなかったためだと聞いたことがあります。

これからの時代は、時代の先を読める人とても必要です。

もちろん、経験豊かな年配者も必要でありますが、若い政治家もある程度の人数は必要ではないかと考えます。

 

 

 

 

肉体、頭脳、精神のピーク

前回の続きです。

 

肉体、頭脳、精神のピーク

最後に、人間の精神についてはどうでしょうか。

肉体の成長は二十歳代をピークで、頭脳の成長ピークが三十歳から四十歳にかけての時期がピークなのに対して、精神のそれは七十歳まで上昇の一途をたどっています。

このように、ほとんどの人間の精神世界の向上、発展は、肉体や頭脳の能力が衰えてからもなお、およそ七十歳まで、ずっと続くわけです。

そして、ここで注目していただきたいのは、若い時代には肉体や頭脳の成長が遅かった精神の成長が、中年以降、急速な速さでそれを、凌駕し、加えて肉体や頭脳の働きは減退の一途をたどることから、その差が歴然としてくるのです。

ここで、私達人間がはっきりと気がつかないうちに、生活の知恵として自然に体得した面白い例を紹介しましょう。

例えば、相撲、ボクシング、野球、その他いろいろなスポーツの選手について、私達はこんな表現を使います。

「三十歳という年齢にかかわらず、よく頑張っていおります」

「あの力士はもう三十歳だ、あと何年相撲をとれるだろう」

「あのラガーマンは三十歳だというのに、若者たちに混じって大変な活躍をしている。あの根性を見ならわなくては」……などなど。

このように、私達はスポーツを初め、肉体を駆使するところのあらゆる活動に対しいて、その限界が三十歳代であることを無意識のうちに知っています。

このことは、頭脳労働においても同様のことが言えます。

奇抜なアイデアや科学的大発見が四十歳以降の人間になされることはほとんどないことは先程書いた通りですが、そんなユニークな発想に限らず、一般の勉学、例えば語学など始めるにしても、四十歳を過ぎてからではちょっと辛い気がします。

四十歳を過ぎた医学者、化学者、工学者などの場合、それまでの体験と実績によって、管理者的存在になるのが普通のようです。

ところがこれに対して、心の世界、精神世界の問題になると事情が一転します。

例えば、三十歳の力士を見て「あんな年なのに、よく頑張っている」といっていた同じ人間が、三十歳の会社経営者をを見る時には、

「あんな青二才に会社経営がやっていけるんだろうか」、ということになります。

要するに、三十代の社長では、まだまだとても若造で頼りないということなのです。

一般的には四十歳代の社長と言っても、まだ若造の部類のようです。

そして、五十代に入ってようやく社会的認められることになるのです。

「あの社長はまだ五十歳だ。なかなかやりてだから、今後あの会社は伸びるだろう。」といった具合です。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

年をとると・・・

私の経験で言うと、年を取ってからの方が感情の起伏が少なくなった気がします。

私がそうだからと言って、他の人も同じかどうかはわかりませんが。

歳をとったら、何があっても感情に振り回されないかと言うと、そういうことでもありませんが。

やはり、押し寄せる感情はありますが、若い頃よりは引きずることが少なくなったことと、切り替えが早くなった気がします。

若かった頃は、やっとおさまったと思った怒りが、突然襲って来たりしましたが、年をとった今は突然襲ってくることも少なくなってきたのと、感情の切り替えが早くなって生きることがずいぶん楽になってきました。

これは、年齢だけでなく、聖の親様からのお力も多分にあるのではないかと思っています。

怒りの気持ちを無意識のうちに、聖の親様にあずかっていただいている気がします。

なんだかうまく表現ができません。

話は飛びますが、隈本確先生の本の内容を書いていると、隈本確先生の語彙力の豊かさを感じます。

自分の語彙力のなさも同時に実感しております。

年齢だと言われるかもしれませんが、残念ながら今の私は、隈本確先生が今書いている内容の本を執筆しておられる年齢よりはるかに年上です。

大霊界の勉強だけでなく、文章の勉強もさせていただいています。

厭世観による自殺と肉体と知恵(頭脳)のピーク

厭世観による自殺

この世の中は善よりも悪が多く、楽しい事よりも苦しい事の方が多いから生きていても仕方がない――と、このように、ものごと全てを悪い方へ、暗い方へと考える見方を厭世観といいます。

こうした厭世的傾向をもった人にあっては、何をやっても面白いこともなく、この世は生きるに値しないものだと思い込んでしまっているのです。

そして、さらに精神がこのようなマイナス方向への傾斜の度合いを深めていった場合に、ついには、世をはかなんで自殺してしまう、といった現象が生じてきます。

これが、厭世観による自殺なのです。

しかし、この場合も前述の社会苦による自殺同様、最終的には霊がらみの自殺に持ち込まれるケースが多いのです。

何故なら、厭世的思考の持ち主というのは、すでにそのことによって暗い想念の低級霊や悪霊の憑依を受けやすい心質になってしまっているからです。

 

肉体と知恵(頭脳)のピーク

老年者による自殺志向による自殺ということを考える前に、肉体と知恵と精神という人間を構成している三要素について、その成長過程を考えてみましょう。

人間が、肉体と知恵(頭脳)、そして精神という三つの要素によって成り立ち、さらに、それらのバランスが互いにうまく保たれたとところで完全な社会人として機能できるということについては、隈本確先生が再三にわたって述べているところであります。

しかし、当然の事ながら、これらの三要素は一人の人間の中にあって、常に同じペースで働いているわけではありません。

まず肉体でありますが、二十歳代を過ぎた人であれば、誰でも身にしみて感じているのではないかと思います。

次に頭脳(知恵)はどうかといえば、こちらの働きは三十歳から四十歳に差し掛かる辺りがピークで、それ以降は減衰の一途をたどります。

このことについては、医学者や化学者など、多くの科学者たちがしばしば言及しています。

すなわち、あらゆる科学上の大発見、大発明と言われるものは、そのほとんどが四十歳以前の科学者たちによってなされたものだということです。

医学、化学、後学ん度の頭脳労働の分野にあって、世界的大発見、大発明のたぐいをするには、三十九歳から四十歳が限界のラインだそうです。

また、科学者に限らず一級の人に会っても、四十歳を過ぎると、なかなか奇想天外なアイデアなど湧いてこないものです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

霊流で認知症が治る

>この世の中は善よりも悪が多く、楽しい事よりも苦しい事の方が多いから生きていても仕方がない

 

世の中、こういうものの見方をする人が一定数います。

こういうものの見方をすると、生きていても面白くないというか辛いことが多いだろうと考えます。

それがひどくなると自殺という方向に向く人もいるということでしょうね。

 

>肉体でありますが、二十歳代を過ぎた人であれば、誰でも身にしみて感じているのではないかと思います。

次に頭脳(知恵)はどうかといえば、こちらの働きは三十歳から四十歳に差し掛かる辺りがピークで、それ以降は減衰の一途をたどります。

 

納得です。

肉体は二十歳代、頭脳は四十歳くらいまでがピークです。

二十歳代でも肉体の不調ありましたが、今思えば無理がきいていました。

頭脳ですが、年齢と共に物忘れがひどくなってきます。

私の母は、六十代から物忘れがひどくなって認知症になりました。

霊流で認知症が治るとわかっていたら、遠隔治療で霊流を流したんだけどなぁ、と今となっては残念です。

まさか、認知症が霊流で治るとは思いもしませんでした。

色んなものに霊流を流してきた私ですが、認知症に対応ができるとは思いもしませんでした。

今となっては、自分の思い込みで流していなかったんだなぁ、と思っています。

私の実家の家系は、男は誰一人として認知症になっていないのですが、女は全員認知症になっています。

だから、私は私だけでなく姉二人にも流しています。

今のところ三人とも大丈夫です。

そういうことを考えると、私や私の周囲の人達がどれほど隈本確先生のあみ出されたこの神霊治療に救われてきたかわかりません。

実家の母のことを知っているので、一人でも認知症の家族がいると、大変さがよくかわかります。

これからは、もっともっと霊流のことを、世の中の人が知る人が増えれば、もっともっと苦しむ人が減ると思うのです。

 

 

霊障による自殺(その5)、社会苦による自殺

前回の続きです。

 

霊障による自殺(その5)

もし、あなたが神を冒涜し、神を神とも思わないようなこと、人を人とも思わないような、ことをした時、一番悲しみ、痛み入るのは、あなたの内面深くひっそりと控えている魂の存在でありましょう。

あなたの魂は、あなたの想念が汚れることを最も嫌うのです。

そのことによって、魂自体までも汚されていくことを、何よりも恐れ、嫌っているのです。

だから、人間・凡夫の想念界が汚れ、すさんできて、魂自体が、「もはや、これ以上我慢ならじ」と判断した場合には、ある日突然、魂自らの力と裁量で人間・凡夫の肉体から離脱していくのです。

現象的には、この魂の離脱が突然、魂の離脱が突然の自殺によってなされることもあれば、原因不明の突然の病死や事故死によってなされることもあります。

いずれにしても、自らの魂に見捨てられたものの気の毒な最後であります。

人間自身がもっている魂が独立した意志体であること、そして、その魂が自らの意志で肉体を捨てて霊界へ旅立っていくことによる人間の死—―。

ついさきほどまで元気にしていた人が、その人自身に内在する魂の力によって突然の死を迎えるということ(例えば、ぽっくり病、心臓発作、脳溢血などによる死)、そのような現象について、あなたは考えたことがあったでしょうか。

その死が、たまたま自己の魂の誘導する自殺であった場合には、原因不明の謎の自殺として、周囲の人達を大いに困惑させることにもなるでしょう。

 

社会苦による自殺

私たちは、自分を取り巻いている周囲の状況にうまく対応できず、悩みこんでしまうことがあるものです。

たとえば、事業の不振とか倒産、対人関係の失敗、失恋、家族の死……などなど、世の中に悩みのタネとなるものは多いものです。

しかし、これらの不幸な状況下にあっても、自分の心が負けさえしなければ、やがて立ち直ることができるものです。

一方、それらの不幸な状況の中で自分の心が負けてしまった場合には、さらに不幸が不幸を呼ぶようにして、芋づる式に不幸は広がってしまうでしょう。

というのも、人間の心が不幸に負けてしまって弱くなってしまったときというのは、低級霊の憑依を非常に受けやすく、したがって、本来悪くなかった体までもが悪くなって、ますます苦悩のタネが増えていくからです。

かくて、その苦しみから逃れたいがゆえに自殺をはかるというケースは、大変多いのです。

また、いえることは、社会苦によって心身が衰弱している時には低級霊、悪霊の憑依を受けやすいところから、悩み多い人にあっては、不意の霊障によって発作的に自殺をしてしまう場合もあるということです。

したがって、社会苦によるの自殺言っても、最終的には霊がらみのことも多いものです。

 

   

 

不思議な日々

>人間自身がもっている魂が独立した意志体であること、そして、その魂が自らの意志で肉体を捨てて霊界へ旅立っていくことによる人間の死—―。

 

この件について、非常に世俗的発想で申し訳ないのですが、こういう魂はどの辺に行くのでしょう。

こういう意思があるということは、ある程度の魂としての大霊界的倫理観があるのではないかと、凡夫の私は思っております。

人間社会には、それはそれはひどい人たちがいます。

それでも、元気に憎まれっ子世にはばかるをしています。

魂が自分から、というのは魂によって違うのでしょうか。

大霊界的には基準があるのでしょうか、気になります。

できれば、霊能者の先生に聞いてみたいと思いますが、実際に会うと聞けないだろうなぁ、と思います。

 

今回の話とは関係がありませんが、以前に相続税の話を書きましたが、聞いていたのとは違い10倍だったと書きましたが、夫の勘違いというか聞き違いで正式の金額がはっきりしました。

最初に聞いていた金額の2.5倍弱でした。

つまり、心配していた10倍の金額の4分の1の金額でした。

ホッとしたのですが、その後の私が気が抜けたのか、何にもする気が起こらず霊流も引くのですが、何だか自分の心がここにあらずという感じで、ふわふわ浮いているような、そして何もする気が起こらずただただ眠いという日を過ごしておりました。

やることは山ほどあるのに何もできないという日が続き、今日やっと眠気がなくなりました。

なんだか不思議な、今までも体験したことのない日々でした。

こういう時も、自分がしっかりしなければと奮い立たしたくても、とにかく眠気が先に立ってどうしようもありませんでした。

自分でもよくわかりませんが、元気になったので良かったです。

 

 

 

霊障による自殺(その4,5)

霊障による自殺(その4)

霊の憑依により、その魂(心)に加わる圧迫に耐えられなくなった場合の自殺とは、例えば、ノイローゼによる自殺とか、うつ症状による自殺などです。

つまり、霊の憑依が肉体面ではなく精神面に起こった場合で、このような時憑依された側の人間は、確たる理由もないのにうつ症状、イライラ、不安感、恐怖感など、さまざまな精神的圧迫に苦しめられることになります。

そして、憑依霊に完全に負けてしまえば、精神的苦痛に耐えかねた逃避行としての自殺というところまで行ってしまうのです。

 

霊障による自殺(その5)

人間自身に内在する魂が、自己の魔界的想念または人間界の内濁の生活を嫌い、その肉体を捨てて離脱をしていく場合の自殺には、人間の魂に関わる、非常に大きな問題が含まれています。

したがって、この場合の自殺ということについては、単なる霊障としての自殺として片づけることができません。

人間の魂の存在と独自性ということについて理解をしていなければ、なかなかすぐには納得できない現象かもしれません。

にわかには信じられないかもしれませんが、私達人間の「魂」というものは、人間の想念とも違う独立した存在なのです。

普通、私達は毎日の生活のくさぐさのことについて、自分の考え、意志で決定し、そして、その決定に従って行動しているはずです。

しかし、ここでちょっと考えてみてください。

ひょっとしたらあなたは、その自分の意志、考え(想念)というものを自分の魂と同一視したり、または同等のものであると思い込んでいないでしょうか。

もし、あなたが簡単にそんな風に思い込んでいたとしたら、ここで人間の内面世界にかかわる真相について正しく把握し直さなければなりません。

ここでは、とにかく人間の魂の独自性ということについて知っておいてもらいたいのです。

あなたが、あなたの内部の世界にどんな想念をもっているか、あなたの魂は知っています。

あなたが良い事をしている時も、あなたがずるがしこいことをしたり考えたりしている時も、あなたの魂は、そんなあなたをじっと観察をしているのです。

人間の魂とは、そのような独立した存在なのです。

 

次回に続きます。

 

    

 

イライラ、不安感、恐怖感

>確たる理由もないのにうつ症状、イライラ、不安感、恐怖感など

 

私は今思い返すと、子供たちが小さい頃こんなこといっぱいありました。

うつだったのかな……と今になって思っています。

当時は、自分はうつだとは思いもしませんでした。

いつも体が重くてだるくて、背中に何か漬物石のようなものがのっかっている感じでした。

この背中に漬物石のようなものがのっかっている感覚は、義母が我が家からいなくなって一年位したらなくなりました。

この感覚は、とてもいいお姑さんや舅さんであっても、同居している人や同居していた人は皆一様にわかると言います。

イライラや不安感や恐怖感は、いつ頃だったか忘れてしまいましたが、いつの間にか無くなっていました。

たまにありますが、そういう時は私の想いの世界が聖の親様から離れているからではないか、と思いできるだけ丁寧に霊流をひくことにしています。

 

>あなたの内部の世界にどんな想念をもっているか、あなたの魂は知っています。

 

このことは常に気を付けなければいけないと思います。

最近の私で言うと、以前にも書いたことがありますが、生前贈与の税金ですが、時々、私の想いの世界でフッと不安感や怒りがこみあげてくる時があります。

そんな時は、今年いただいたお札を胸に当てます。

そして、気持ちが落ち着くまで沢山沢山超神霊エネルギーをいただきます。

気を付けなければ、と気持ちを切り替える事の繰り返しです。

霊による自殺(その2、3)

前回の続きです。

 

霊による自殺(その2)

いろいろな手段によって現実に自殺をしたのにもかかわらず、霊界に入った当の霊魂には自殺をしたという意識がないのです。

なぜなら、彼らは自分が生前と全く同じような手足、顔といった幽体をもっていて、人間そのままの姿をしているからです。

しかも、死後間もない幽界霊はもともと人間界と波長が合いやすいために、彼らのは人間界のもようがはっきりと見えるのです。

家族も、知人も、友人も彼らにはよく見えるのです。

そんなわけで、彼らはますます自分が死んでいるとは考えられなくなっているのです。

もちろん、生前の想念がそのまま続いているのですから、心の悩みや苦しみも自殺前と変わりません。

かくて彼らは、もはや肉体がないのにもかかわらず、自らのそのような状態を悟ることなく、苦しみから逃れたいがゆえに、再び自殺をはかるのです。

しかし、実際は、彼らは幽界にある霊魂です。

彼らが何回ビルの屋上から飛び下りようと、走ってくる電車に飛び込もうと、現象界には何らの変化も 起きはしません。

こうして何度かの自分なりの自殺によっても、なお現界にいた時の苦しい想念に決着をつけることができなかった幽界霊が思いつくのが、現界人への憑依です。

彼ら幽界霊は、現界にいる人間の肉体を使って今一度の自殺をはかろうとするのです。

現象的に見れば、ここに現代人に対する突然の憑依現象が起こり、その現界人は、霊のいく度目かの自殺行の道連れとなってしまうのです。

このように自己の死を悟らない霊の憑依による自殺は、いく人もの人間のうえに繰り返されるのです。

自殺者の多い家系というのが、それなのです。

また、これらの自殺現象は現界に住む人間には何ら原因がない場合が多く、残された人たちに謎を投げかけるのです。

 

霊の憑依による自殺(その3)

霊の憑依により、その肉体に加わる圧迫に耐えられなくなった場合の自殺とは、一口に言えば、病苦による自殺です。

というのも、隈本確先生が繰り返し言っていることですが、霊の憑依が肉体面に起これば、普通肉体諸器官の病気となってその症状があらわれてくるからです。

例えば、不治のガンを宣告されたために絶望的になって自殺をしてしまったとか、十年、二十年と続いた頑固な偏頭痛のため生きていくのが辛くなって自殺をしてしまったといったケースが、これです。

 

 

 

 

 

自殺者は死ぬこともできない・・・

>いろいろな手段によって現実に自殺をしたのにもかかわらず、霊界に入った当の霊魂には自殺をしたという意識がないのです。

 

しつこいようですが、前回同様未だに自殺した人たちというのは、自殺をするときの痛み苦しみはあまり残らないのでしょうか。

日神会で教えてもらった、人は肉体消滅の時の瞬間の想いをそのまま続くということが気になって、私は自殺するときの痛み苦しみがあるから、それが残ると思っていたのですが、自殺する人というのは、自殺するときの痛み苦しみより、自分の悩み苦しみの方が勝るということでしょうか。

 

>もはや肉体がないのにもかかわらず、自らのそのような状態を悟ることなく、苦しみから逃れたいがゆえに、再び自殺をはかるのです。

 

恐ろしい事です。

死ぬこともできないという状態でしょうか…

 

>自殺者の多い家系というのが、それなのです。

 

ありますね、そういう家系。

そういうことだったのですね。

 

>不治のガンを宣告されたために絶望的になって自殺をしてしまった

 

がんに関しては、以前はありましたが、今は聞かなくなりました。