厭世観による自殺
この世の中は善よりも悪が多く、楽しい事よりも苦しい事の方が多いから生きていても仕方がない――と、このように、ものごと全てを悪い方へ、暗い方へと考える見方を厭世観といいます。
こうした厭世的傾向をもった人にあっては、何をやっても面白いこともなく、この世は生きるに値しないものだと思い込んでしまっているのです。
そして、さらに精神がこのようなマイナス方向への傾斜の度合いを深めていった場合に、ついには、世をはかなんで自殺してしまう、といった現象が生じてきます。
これが、厭世観による自殺なのです。
しかし、この場合も前述の社会苦による自殺同様、最終的には霊がらみの自殺に持ち込まれるケースが多いのです。
何故なら、厭世的思考の持ち主というのは、すでにそのことによって暗い想念の低級霊や悪霊の憑依を受けやすい心質になってしまっているからです。
肉体と知恵(頭脳)のピーク
老年者による自殺志向による自殺ということを考える前に、肉体と知恵と精神という人間を構成している三要素について、その成長過程を考えてみましょう。
人間が、肉体と知恵(頭脳)、そして精神という三つの要素によって成り立ち、さらに、それらのバランスが互いにうまく保たれたとところで完全な社会人として機能できるということについては、隈本確先生が再三にわたって述べているところであります。
しかし、当然の事ながら、これらの三要素は一人の人間の中にあって、常に同じペースで働いているわけではありません。
まず肉体でありますが、二十歳代を過ぎた人であれば、誰でも身にしみて感じているのではないかと思います。
次に頭脳(知恵)はどうかといえば、こちらの働きは三十歳から四十歳に差し掛かる辺りがピークで、それ以降は減衰の一途をたどります。
このことについては、医学者や化学者など、多くの科学者たちがしばしば言及しています。
すなわち、あらゆる科学上の大発見、大発明と言われるものは、そのほとんどが四十歳以前の科学者たちによってなされたものだということです。
医学、化学、後学ん度の頭脳労働の分野にあって、世界的大発見、大発明のたぐいをするには、三十九歳から四十歳が限界のラインだそうです。
また、科学者に限らず一級の人に会っても、四十歳を過ぎると、なかなか奇想天外なアイデアなど湧いてこないものです。
次回に続きます。
霊流で認知症が治る
>この世の中は善よりも悪が多く、楽しい事よりも苦しい事の方が多いから生きていても仕方がない
世の中、こういうものの見方をする人が一定数います。
こういうものの見方をすると、生きていても面白くないというか辛いことが多いだろうと考えます。
それがひどくなると自殺という方向に向く人もいるということでしょうね。
>肉体でありますが、二十歳代を過ぎた人であれば、誰でも身にしみて感じているのではないかと思います。
次に頭脳(知恵)はどうかといえば、こちらの働きは三十歳から四十歳に差し掛かる辺りがピークで、それ以降は減衰の一途をたどります。
納得です。
肉体は二十歳代、頭脳は四十歳くらいまでがピークです。
二十歳代でも肉体の不調ありましたが、今思えば無理がきいていました。
頭脳ですが、年齢と共に物忘れがひどくなってきます。
私の母は、六十代から物忘れがひどくなって認知症になりました。
霊流で認知症が治るとわかっていたら、遠隔治療で霊流を流したんだけどなぁ、と今となっては残念です。
まさか、認知症が霊流で治るとは思いもしませんでした。
色んなものに霊流を流してきた私ですが、認知症に対応ができるとは思いもしませんでした。
今となっては、自分の思い込みで流していなかったんだなぁ、と思っています。
私の実家の家系は、男は誰一人として認知症になっていないのですが、女は全員認知症になっています。
だから、私は私だけでなく姉二人にも流しています。
今のところ三人とも大丈夫です。
そういうことを考えると、私や私の周囲の人達がどれほど隈本確先生のあみ出されたこの神霊治療に救われてきたかわかりません。
実家の母のことを知っているので、一人でも認知症の家族がいると、大変さがよくかわかります。
これからは、もっともっと霊流のことを、世の中の人が知る人が増えれば、もっともっと苦しむ人が減ると思うのです。