聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

魂の美化、浄化、向上は無限

神の心にかなう生活とは

隈本確先生のもとに寄せられるお便りの中に、神に対する心構えを教えてもらいたい、というものがしばしば見受けられます。

しかし、このようなお便りをいただくたびに、隈本確先生ははたと困ってしまうのです。

というのも、実際のところ、真実の高級神霊(神)に対する心構えとはこのようなものである、という教条なるものはないからです。

神の心とは、人間界に住む我々が、あのようなものである、このようなものであると単純に決められるような、そんな個性的なもの、教条的なものではないのです。

しいて言えば、神の心とは、無限大の広がりをもつ窮みのない想念世界、それでありながら、真理原理の中心があり、真実そのもの、かつ、人間界のいかなる倫理規定をも超えた永遠の生命の道である、と言えるでしょうか。

したがって、私たちがこの人間界にあって、ここまですれば神の心にかなう、このような想念生活を送れば神の心にかなう、ということは厳密に言えば決してありえません。

また、それだからこそ、私たちは霊界入りするその直前まで、自己が有する想念界の反省と切磋琢磨、美化、浄化につとめていかなければならないとも言えます。

なお、霊界入りしたその後の暁においても、私たちの魂は、美化、浄化、向上という無限の段階の道のりをたどって、ようやく真実の神の心に近づくことができるわけであります。

だから、一口に神の心にかなう生活と言っても、それは、私たちが現界での生活と霊界での生活を通して追及されるべき永遠の道程である、ということも言えます。

そして、この現界と、死後の霊界においてさえ神を求める心を忘れ、自己の想念の管理を怠ったものこそ、現界の地獄、霊界の地獄へと転落していくことでしょう。

 

 

 

 

 

我が家の猫たち

今回も記事とは関係のない話です。

一時、我が家と夫の仕事場に沢山の猫がいました。

元は、夫の仕事場の向かいの家で野良猫に餌を与えていました。

ところが、その家の人の気が変わったのか急に餌を与えなくなってしまいました。

夫がその猫にえさを与えていたのか、それとも夫が食べてごみ箱に捨てたものを、拾って食べていたのかわかりませんが、いつの間にか、子供が生まれて数カ月が過ぎると、仕事場においていくようになりました。

夫も猫が嫌いではなかったので、そのまま子猫は住み着き大人の猫になり、その猫も子供を産みどんどん増えていきました。

そのうち、元の猫は我が家にまで子猫を置いていくようになりました。

確かに私も子供たちも猫は好きですが、いくら何でも増えすぎです。

夫は、かわいがっているだけで何もしません。

仕方がないので、私と次男で半年を過ぎた猫から片っ端から、避妊の手術をさせました。

あまりに沢山の猫を手術をさせているので、人間の勝手でこんなに避妊をさせていいのかと罪悪感もありましたが、保健所に連れていけば殺されることがわかっているので、連れていけませんでした。

時には、里親を探している獣医さんのところまで連れていきました。

今では、年月をかけて続けていたおかげで、夫の仕事場には猫はいなくなり、我が家では次男が飼っている猫と合わせて2匹になりました。

沢山の猫たちの思い出は沢山ありますが、子猫を生みまくって置いていった母猫は、人に絶対というほど懐きませんでしたが、さすが野良で生き残っていただけあって、とても頭にいい猫でしたし、人間のいうこともわかっていたようでした。

私もあまりに沢山の猫を置いていくので、その元の母猫に言いました。

「君の子供たちを沢山預かったけれど、もう家ではこれ以上は面倒を見切れないから、置いていかないで」

と言ったら、その母猫はジーッと私のいうことを聞いていました。

その後、我が家にも夫の仕事場にも子猫を置いていくことはありませんでした。

そんな子猫たちもいろんな人にもらわれていきました。

知人のYさんも黒猫のメスが欲しいというので、もらってもらいました。

Yさんは「9ちゃん」という名前を付けてとてもかわいがっていました。

とても穏やかな猫でした。

最近、その「9ちゃん」が20歳の天寿を全うして逝きました。

夫の死後場では半野良状態だったので、20歳までなど絶対に長生きはしなかったことでしょう。

「9ちゃん」の最後の写真を見せてもらいました。

沢山のきれいな花に囲まれて、静かに眠っていました。

それを見て私は、とても嬉しくなりYさんに感謝の言葉を言いました。