前回の続きです。
私達人間にわからないのは、動物たちによって見せつけられる現象ばかりではありません。
エクス線にしても、放射線にしても目には見えません。
普段、私達が何気なく使っている金属類、ハサミや指輪にしても、そこには分子があり、原子核があり、電子がブンブンと飛び回っているのですが、私達には固い金属の塊にしか見えません。
これだけをとっても見ても、人間の五感・知覚で把握し得る世界が、いかに狭いものであるかがわかろうというものです。
ある種の霊媒体質者にあっては、普通の人達には全く感じられない世界の出来事を、その超感覚のゆえに認識できるという事実です。
くわえて、こうして一口に霊媒体質と言っても、「高級霊媒体質」と「低級霊媒体質」とがあるということについても、ここで知っておいていただきたいと思います。
つまり、同じ霊媒体質でも高級霊媒体質と低級霊媒体質とがあり、この二者は、霊の波動を心身に受けやすいという点では相似性がありますが、その内実には雲泥の相違があるということです。
ここが重要なポイントであります。
高級霊媒体質は高級霊と波長が合いやすく、低級霊媒体質は低級霊と波長が合いやすいい体質なのです。
ですから、低級霊媒体質者が総じて霊界の暗い、嫌な面ばかりを感知するのに対して、高級霊媒体質者は総じて霊界の明るい、美しい面ばかりを感知するのです。
前者がおおむね不幸であるのに対して、後者はおおむね幸福であります。
ある人が、某デパートに展示されていた昔の僧侶のミイラの前を通ったその日から、突然異常な食欲に襲われて、常人の四倍のも五倍も食事をとるようになった、という話を聞いたことがあります。
この僧侶のミイラとは、人間が生身のままで仏になるという即身成仏を願って自ら食を断ち、果てていった僧侶のその後の姿な即身成仏とはいっても、とはいっても、日本に残るこれらの僧侶のミイラの実態はと言えば、激しい飢餓の苦痛にもがきながら死んでいったというのが本当のところで、仏の心境には程遠いものであったのでしょう。
かくて、死しても低級霊と化した僧侶は、長の年月、自分と波長の合った現界人があらわれるのを、ひたすら想いの世界で待ち焦がれているのです。
そして、その想いのかなった暁には、憑りついた人間の肉体を使って、思う存分飲み、かつ食らうのでありましょう。
憑依された側の人間こそいい迷惑でありますが、このような人は、もともと低級霊媒体質だったのでしょう。
次回に続きます。
銀行では15分位で終了
以前書いた生前贈与の税金を夫婦で一緒に銀行に行って払ってきました。
我が家にとっては超大金なのですが、振り込む銀行では手慣れたもので、ものの15分位で終了しました。
通帳の残高を見るとすごく減っていました。
思わず、銀行員の前で「減っちゃったね」とつぶやいてしまいました。
それを聞いた銀行員の方に、「その代り、もので残りますから」と慰められてしまいました。
「そうなんだけどね」と苦笑をしてしまいました。
あれやこれやと言ってもあとわずかな人生です。
神様から与えられた人生、精いっぱい生きていこうと思います。
肉体という衣を捨てる日まで。