聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

祈れば祈るほど地獄にまっしぐら

エセ神霊学がまかり通っている現在

 

守護神とか守護霊、または背後霊という事について、色々と関心の高い人も多いようです。

 

神霊学が一般の人々の中に浸透していくことは、とってもいいことですが、現状を見ていると、どうしても喜びより恐れの方が先行してしまいます。

 

それというのも、あまりにいいかげんで真実の神霊学とはかけ離れたエセ神霊学が、堂々とまかり通っているからです。

 

隈本確先生の言う神霊学とは、古来、神道や仏教で伝承されている諸々の神仏とはまったく異質の存在なのです。

 

つまり、一般の神道、仏教などでさかんに喧伝している神仏が空想による人間界創造物なのに対して、隈本確先生の言う守護神は、あくまでも霊界に実在する神霊だという事なのです。

 

昔から伝わる神道や仏教が、いかに物々しい神々の名を述べ連ねたところで、"絵に描いたモチ”の神では、私達人間がご加護をいただけるはずはありません。

 

また、人は伝承された空想の神々の他に、しばしば、特定宗教の開祖を信仰の対象としているのです。

 

ですが、ここに至ってはまさに迷信、私達の心を混乱させる迷妄の信仰というほかはありません。

 

多くの宗教の開祖は、単に人間界で他人とちょっと違った自己の発想を、もっともらしく言っているだけです。

 

もちろん、その開祖に従い続く人々も永遠に続く霊界の模様などつゆほども知らず、ひたすら開祖の教えに熱狂しています。

 

大変不幸なことです。

さらに言えば、現在あがめられている多くの宗教の開祖たちが、ただいま、霊界でどのような生活を送っているのかという事も大いに問題なのです。

 

はたして、彼らは霊界で助かっていると言えるのでしょうか。

 

霊界のどのあたりに位置しているのでしょう。

 

生前、聖職者として沢山の信者にかしずかれ、それがために心の中に傲慢・不遜の想いを宿したまま他界した人間であれば、高き霊界の住人になる見込みは全くないのが道理と言うものであります。

 

最悪の場合は、生前の開祖様転じて悪霊となり、地獄でのたうち回っているという事さえもあります。

 

このことは、隈本確先生が行った某宗教開祖の招霊体験でも実証されています。

 

そうしてみると、地獄に落ちた開祖を信仰している信者こそいい迷惑です。

 

熱心に祈れば祈るほど地獄へ向かってまっしぐら、という事になります。

 

このあたりまで考えてくると、私達が奉持しなければならない守護神とは、神道や仏教による架空の霊界人ではなく、また、それぞれの宗教の開祖でもない、という事が分かってきます。

 

守護神とは、現に霊界に、その存在がはっきりと確認された私達の先輩である霊界人でなければいけません。

 

言い換えれば、かつて人間界に生を享け、人間としての生活を経験し、他界して霊界人となった神霊です。

 

しかし、その先輩である霊界人と言っても、それこそピンからキリまであります。

 

たとえ、霊界入りしてから千年、二千年とたっていても地獄でのたうち回っている霊もあれば、未だに霊界人としても自覚がなく人間界に出没している霊もあります。

 

そうかと思えば、霊界入り後わずか二~三百年そこそこで霊界人としての大いなる開眼を果し、高き神界の住人となっている霊もあります。

 

そうしてみると、この広大無辺の霊界で生活している無数の霊界人の中から、真に格の高い力のある守護神をさがし出す仕事は実に生易しいことであはありません。

 

 

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同じ仏教でも家によって違う

 

何度も書きますが、このころの日神会は、依頼人の先祖霊の中からもっとも格が高く強い神霊にお願いをして、依頼人の守護神になってもらっていました。

 

大変なお仕事だったと思います。

 

私の実家でも仏教でした。

 

結婚して今の家でも仏教です。

実家では、仏教を熱心に信じていました。

 

食事の前に仏壇にお供えするときにお経を読んでいました。

 

生活の中に仏教が当たり前にありましたし、実家の大人からは常に仏教の教えを語られました。

 

だから、しつけも仏教の教えと共にしつけられたと思います。

 

私はそれが当たり前だと思っていました。

 

結婚をして今の家に入って一番驚いたのが、人間の生活と宗教というのは全くの別ものだったことです。

 

この家の人たちというのは、どんなに良い教えでも、それを実生活の中に取り入れるという事がありません。

 

生き方や考え方が、実生活の中でいかに自分が優位に立つか、それには他を蹴落としてもいいという考えです。

 

それを知った時、これは動物的心だと思いました。

まさに弱肉強食です。

 

もっとも私の実家が特殊だったのかもしれません。

 

実家の弟の妻である義妹が、私の実家は一昔前の考え方だと言ったそうなので、私の実家が特殊だったのかもしれません。

 

あの時は昭和だったので、義妹にしてみれば大正時代に見えたのかもしれません。

 

そんな中でも義妹は、実家で嫁としてよく頑張ってくれました。

 

実家の父が古臭い人だったので、大変だったと思います。

 

古臭かったけれど、年を重ねた今は、実家の両親が言っていたことは、ほぼ正しかったと思いますし、私達子供たちは今になって、実家の両親から教えられたことは人として生きていくのに、ごく真っ当なことを教えてもらったと思ています。

 

確かに私が子供の頃教えられたことは、実在の神とは無縁だったとは思います。

 

だからでしょう、実家では常に何か悪い事やトラブルが続いていました。

 

今にして思えば霊が原因のトラブルだったと思います。

 

でも、人としてきちんと生きていく基本は教えてもらったと思っています。