多信仰の弊害
今までは、五種類の守護神がもつ主な特徴と、それが人間界に現れた場合にどんな長所や短所となって出てくるか、という事について説明をしました。
まだ守護神を出していない多くの読者の方々も、自分自身の性格をよく顧みられて、自分にはどの神霊の流れが最も強く働いているか、という事がわかっていただけたのではないかと思います。
しかし、人によっては五種類の神霊のうち、一体だけでなく二体も三体も、極めて強い力をもった強力な高級神霊が作用している場合もあります。
例えば、一人の人間の体に、権現大神と観世音菩薩の気質をもった強力な神霊の霊流が、ふたつながらに流られているという事です。
このことは、多くの神々に守られているようで、ちょっと考えるとよさそうで、実は好ましい事ではありません。
以前に書いた記事で、"多信仰の弊害”という事について言っています。
多信仰とは、文字通り多くの神々を祀ったり拝みまわったりすることを言うのですが、これでは当人の心も定まらないし、神々もそういう状態を非常に嫌われます。
一人の人間に、何種類もの神の霊流が流れているという状態とは、ちょうど"多信仰”と同じようなものです。
隈本確先生は若い頃、自分の性格が自分自身でもわからなくて、ずいぶん悩んだものでした。
その頃の隈本確先生の体の中には不動尊、権現大神、観世音菩薩という三体の強力な神の流れがあったのではないかと言います。
ある日は権現大神の流れのままに生き、人を人とも思わぬ傲慢さを丸出しにします。
観世音菩薩の流れの中深くあり、ある時は完全に不動尊の流れの中にあある自分を発見しました。
隈本確先生は、途端に気性が激しくなり、言動も荒々し、う、時には暴力的にさえなってしまうのでした。
隈本確先生は、そんな自分自身がつかみきれず、悩みました。
—―いったい、どれが、本当の自分なのだろうか?しかし、一番困ったのは、この三つの神の性格が同時にあらわれた場合でした。
険しく荒々しい息所と人を見下したような傲慢さ、そして他人に対する涙もろいまでの同情心、気弱さ、これらの心が一人の人間から一挙に噴き出した様ををちょっと考えていただきたいものです。
もう、こうなると一種の錯乱状態です。
このような隈本確先生自身の体験から、守護神は一人の人間について一体の身とした方が好ましいことがわかります。
その方が人間として心穏やかに暮らしていけるのです。
したがって、守護神の出ていない人で、自分の体に複数の強力な心理絵の流れが感じられる人は、特に自分の心の動きによく注意を払って、言動にも気を付けなければいけません。
自分の意志の力で、自らの心の管理、コントロールをしていく努力がぜひとも必要です。
合っているような合っていないような・・・
前回の記事にコメントをくださったきん様が、性格にはそうでないような少しあるようなという感じだと書かれています。
実は、私も同じような想いでいました。
私の頃はもうすでに聖の親様になっていたので、守護神を個々に出していただくという事もなかったのですが、自分自身の性格の傾向というのがどういうものなのか、という事を知りたくて考えてみました。
正直のところ、守護神の流れで自分が大きく影響を受ける、という考え方をしたこともなかったので、神霊学的に人の性格を見ると、そうなるのかなと思っていました。
自分の性格を見ると、全体でみると優しい方なんだろうけれど、こうと決めたら頑として動かないし、若い頃は思ったら口に出してしまうので、物凄い沢山の失敗をしてきました。
そうやって自分の性格を見ると、観世音菩薩の流れかなと思うのですが、前回の守護神の性格を見ると、
弱気を起こしてクヨクヨしたり、情におぼれやすいというのはぴったり当たっていると思います。
他人ごとに巻き込まれやすいのかもしれません。
でも一つだけはっきりと違うと言えるのが、人に貸した金品の返済の要求ができないとか、イヤなことは"イヤだ”とはっきり言える方です、というか、言ってしまう方です。
これで、周囲の空気を壊した事いっぱいあるんです。
さすがに人間長くやっているうちに、若い時ほどのこともないのと、年と共に図太くなって空気を壊したことも気にしなくなっている、という恐ろしい事にもなっている気がします……
こういう事を考えると、合っているところもあるけれど、合っていないところもある感じです。
人間色々ですね。