聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

霊媒体質

憑依霊

 

ある宗教団体に行くと、動物の霊がついていると言ってトランス状態(入神状態)に入っている人が、ピョンピョンと飛び跳ねたり、床を蛇のように這いずり回っている異様な光景が見られるといいますが、これは一種の霊媒現象だそうです。

 

一般の人がこういう状態を見ると、何となく不気味で、いい気持ちがしないのが普通です。

 

それは、未知のものに対する恐怖とか、ななかこの世ではない、尋常でないものに対して嫌う気持ちが出てくるのではないでしょうか。

 

確かに、霊媒とは他界である霊界と交流を持つからには、一般の人とはどこか違った体質、心質を持っているのです。

 

それは、霊と波長の合いやすい、霊のかかりやすい体質なのです。

このように霊に憑依されやすい体質を霊媒体質と言います。

 

いつもあっちが痛いこっちが痛い、と言っている人や不思議なほどケガばかりする人がいます。

 

病気と縁が切れずに入院と退院を繰り返している人、病院通いに明け暮れている人がいます。

 

病気とまではいかないけれど、いつも青白い顔をして、何となく気分がさえないという人、鎮痛剤や胃腸薬を持ち歩いていないと落ち着かないような人……

 

あるいは、その人の歩く先々を追いかけるようにして頭上から何か物が落ちてきたり、路上に躓けとばかりに杭のようなものが出ていたり、通行人がすれ違いざまに強くぶつかってきたり……。

 

みんなと同じことしかしていないのに、なぜか、いつもその人だけがケガをする。擦り傷、切り傷、打ち身など、生傷の絶えない人。

 

しょっちゅう病気ばかりしている人に対しては周囲も同情的なのですが、ケガばかりしている人となると、「あの人はそそっかしくて、落ち着きがない」という陰口をたたかれたりします

 

確かに、そそっかしくて注意力のあまりない人は注意力のある人よりはケガをしたり、事故にあう事は多いかもしれません。

 

だからと言って、四六時中生傷のたえない人全てが注意力散漫な人かというと、そんなことはありません。

 

世の中には、頭の良し悪しとか注意力のあるなしに関わらず、病気や事故、その他の災難を知らず知らずのうちに引き寄せてしまう体質、心質の人がいるものです。

 

それが霊媒体質なのです。

つまり、本人は全く気がついていなくても、あちこちにゴロゴロしている悪霊、低級霊と波長の合いやすい体質の人がいるのです。

 

 

 

 

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私のうっかり屋さんが治った

 

>世の中には、頭の良し悪しとか注意力のあるなしに関わらず、病気や事故、その他の災難を知らず知らずのうちに引き寄せてしまう体質、心質の人がいるものです。

 

 

>確かに、そそっかしくて注意力のあまりない人は注意力のある人よりはケガをしたり、事故にあう事は多いかもしれません。

 

私はこれに当てはまる気がします。

病気やケガや災難というものや、本当に霊が憑依をして勝手にしゃべるとか、勝手に体が動く、そういうことはないのですが、端から見たら不注意に見える、という感じのことが随分ありました。

 

自分でも不注意なのだろうと思っていましたが、でも違う感じもしていました。

 

コップがそばにあるのにうっかりコップに触れてコップが倒れてお茶をこぼれたり、そこに杭があるのに気がつかずぶつかって痛い目にあう、というような事です。

 

ある時、「大霊界」の中に、そういうものも霊の影響があるという事が書かれていて、もしかしたらと思い、私は魂の親さんにお願いをしました。

 

そういう不注意に思えることが無くなるように、と、それからそれらのことがほとんど無くなりました。

 

今思っても、あれは何だったのだろうと思います。

やっぱり霊だったのでしょうか。

魂の親さんにお願いをして、数日のうちにほとんど不注意だと思われることが無くなりました。

 

自分では、自分はうっかり屋なのだろうと思っていました。

だから長い間、自分で気を付けていたのですが、それでも不注意と思われることが続いていました。

 

こうやって見ると、私も霊媒体質だったのですね。

こういうことまで治るというのはありがたいことです。

 

 

 

 

 

霊媒

霊媒とは

 

霊媒という言葉を辞書で調べると、「神霊や死者の霊と意思を通じ得る媒介者」とか「死んだ人の霊に変わって、その意思を伝える力を持った人」などの説明されいます。

 

つまり、霊媒とは現界と霊界の仲介者であり、死者の霊を自己の体に呼び入れて、その霊の想念を言葉やその他のしぐさで表現する一種の霊能力者のことを言うのです。

 

有名な恐山のイタコなども霊媒です。

霊能者が霊の想いの表現として語る言葉や、霊の想いの表現として語る言葉や、動作が、どこまで信憑性があるものかどうかはわかりません。

 

しかし、イタコやその他の巫女、霊能者が霊の想いの表現として語る言葉や、動作が、どこまで信憑性のあるものかわかりません。

 

 というのも、それらの霊界通信が、霊界での極めて低い段階からの通信である場合がほとんどだからです。

霊界と言っても、上は天命界から下は地獄界まで、多くの段階があります。

 

死者は、その霊魂の高低に応じたところに住んでいますので、それぞれ別個の霊界なのです。

 

人間の五感・知覚で感じとられる霊の姿、霊界の模様というのは、大方、低級霊の姿です。

 

浄化された高級神霊になればなるほど人間界から遠ざかり、現界との交渉は全く持たなくなります。

 

高級神霊は、人間界にやたらと姿をあらわしたりはしません。

霊能者と一口に言っても霊界に対する感知交流能力にはそれぞれに違いがあります。

 

無限である霊界の全てを把握する能力者はあり得ないと隈本確先生は言っています。

 

霊能者は、自分の霊界感知能力の範囲内にある霊界しか知ることができません。

 

しかし、現界に住む人間にのりうつって来るような霊の存在が、霊界で救われていない 未浄化の霊であるという認識をしたとき、一般の霊媒がよくする自らの肉体を霊に提供して、霊を乗りうるらせるという行為が高級神霊との接触とは言い難いのです。

 

よく霊媒を行う霊能者や、やたらに予知能力のある人の多くは、自分自身が、いつも肉体の苦痛や精神の不安感に悩まされています。

 

隈本確先生の若い頃がそうだったそうです。

 

 

 

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私の場合

 

私は、以前は全く何もわかりませんでした。

いつごろでしょうか、何となくわかるようになってきました。

 

大霊界」の何巻だったかは覚えていないのですが、全部しっかり覚えているわけではないのですが、だいたいはこんなことを書いてあったと記憶しております。

 

人が住んでいるところには、必ず、住んでいる人の想いが住んでいる部屋の壁や天井、床などの物質に想いのエネルギーがついている、というようなことだったと記憶しています。

 

それから私は、いろんな建物を見ると、エネルギーを感じるかどうかをみるようになりました。

 

そんなことを繰り返しているうちに、エネルギーを感じられるようになりました。

 

そのうちに人のエネルギーを感じるようになりました。

ただ、私が感じるエネルギーは、他人のおおざっぱな感情です。

 

怒っているとか、悲しんでいるとか、喜んでいるということで、なぜ起こっているとか、悲しんでいる理由や喜んでいる内容はわかりません。

 

他には、怒っている度合いはわかります。

すごく怒っているとか、ちょっとむっとしているとか、そういうことはわかります。

 

最近はほとんどテレビを見ないで、もっぱらパソコンで動画を見る事が多いのですが、その動画で怖い霊の動画とかを見ると、その霊の想いが伝わってきてみることができなくなっています。

以前は全然平気だったのですが……

 

ある人が亡くなり、その亡くなった人と仲が良かった人が、亡くなった人のことを言っている動画を見ると、とてもつらく悲しく、胸が痛む感じでした。

 

たぶん、その悲しんでいる人の想いが私に伝わってきているのではないか、と思います。

この状態をどうとらえて良いのか、私にはわかりません。

 

自分にとっていいか悪いかと聞かれても、今の自分にとってはわかりません。きっと死ぬまでの間に答えが出るのではないか、と思っています。

 

 

 

霊が救済された姿

人間の魂は本来はとても美しい

 

人間の魂は、本来は、とてもきれいなままです。

それが、乳幼児、少年・少女、青年、壮年、老年に至るまでの間に、魂を取り巻く環境に問題があるのです。

 

だから、長い人生の過程で魂にびっしりと悪想念をこびりつかせてしまった人の魂は、本来の輝きを失い、同時に高級神霊からの波動をも容易に受け付けないようになってしまいます。

 

そのような悪想念の殻を硬くまとってしまった魂は、逆に悪の波動を自ら流し、当然、悪霊の波動にも感応しやすくなっているのですから、現界にいるのに悪霊界の片棒を担ぐようなことさえやってしまいます。

 

このように、人間の魂が本来は正常なものだとしたら、霊の浄化救済という事は、霊体そのものではなく、その霊がこびりつかせている悪想念の浄化という事になります。

 

地獄界に棲む悪霊の招霊をし、それらの霊の浄化、救済をした体験を隈本確先生は数限りなく行っています。

 

神霊治療の基本は、霊の浄化です(神霊治療とは、人間の肉体に憑依をした霊を浄霊及び霊の救済、向上させることによって、結果的には肉体の疾患が治るという原理だから)。

 

地獄に落ちている霊が浄化、救済されているその瞬間は、周囲は白色を帯びた光のベールがそよいだようにさわやかな気配が広がって、さざめく黄金色、白銀色の光の束が縦横に交錯するのです。

 

キラキラと輝く世界が醸し出されてくるのです。

 

霊の浄化と救済という事の一連の事は、隈本確先生の胸中でつくられた霊界で繰り広げられることです。

 

隈本確先生は、隈本確先生の特殊な感性がとらえる極美の世界ですが、文字には表しきれないほど素晴らしい世界のようです。

 

浄化され、きらめく光体となった霊は、隈本先の意志の力を加える必要もなく、隈本先生の胸中を離れ、燦然と輝く光体の集団の世界へと自らと進んで行きます。

 

そして、隈本確先生は、その光輝く霊体を見送りながら、いずれは自分も行くであろうこの美の世界に対する賛歌の思いで、心うちふるえるのでした。

 

 

祈り――。

わたしたちの想念が、霊界と現界の双方に、美の賛歌を高らかに歌いあげんことを。

 

 

 

 

 

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前回の記事で書き足りなかったこと

 

前回の記事に書き足りないことがありました。それをちょっと書きたいと思います。

身近なある人が亡くなった姿を書きました。

 

その人が二本足だと書きましたが、書き終わってから考えたら人間も二本足だから何にも変わっていないという事になります。

 

私が見た二本足のその人は、全身が小さくなって全体の姿が鶏みたいな感じでした。

だから、二本足と言っても人間の二本足ではありません。

 

鶏のような二本足で、歩くとよちよちという感じで歩いています。目は大きいのですが、黒目はとても小さいです。その霊の行き先は、もちろん地獄です。

 

 

 

 

 

 

 

常に聖の親様を

 

自分が困った時、どうしていいかわからないでいた時に、辛くて七転八倒していた時に、日神会に出会えていっぱい助けてもらい、今は何の支障もなく暮せるようになりました。

体も元気で、人付き合いも問題なく、穏やかに暮らせるようになりました。

 

日神会の事は、最初は感謝でいっぱいでしたが、そのうち日がたつうちにその気持ちもだんだん薄らいでいきました。

 

日神会のエネルギーは、人間界と違ってとても高く強いエネルギーですので、自分で意識して自分で強く願ってひかないと、あの素晴らしいエネルギーをいただくことはできません。

 

人間界で支障がない、日神会のエネルギーをいただかなくても普通に暮らしていける、となると、だんだん気持ちが日神会から遠ざかっていきます。

 

自分では祈っているつもりでも、気がつかないうちに祈りが形だけになったり、自分流になったり……

 

私も自分でも気を付けているつもりでも、時々ハッとすることがあります。

祈りの波長が聖の親様にあっていないのです。

形だけになっていることがあります。

 

以前、毎年日神会に行っていた頃は、日神会から帰る電車の中で、今年も一年心を引き締めて聖の親様に常に一緒にいていただけるように、と、切り替えていましたが、今は自分で常に意識をして生きるチャンスです。

 

私も自力で聖の親様の元に行きたいのです。

気を付けたいと思います。

生前の姿とは大きく異なる霊の姿

隈本確先生の霊視

 

隈本確先生は、以前資産を築き権力も手中に収めて、大往生をした有名な政治家の霊を招集したそうです。

 

ところが、その様は生きていた頃の様子とは、とても対照的だったそうです。

 

その霊は、地下何千メートルもあろう井戸の底に落ち込み、一寸の身動きすらできない悲惨な思いの世界に閉じ込められていたそうです。

 

それでも、初めのうちは地の底からとどろきわたるような声を張り上げて号泣していました。

 

やがて声もかれ、涙もかれはて、意識すらももうろうとしていく中で、己の想いがなおも存続していることをわずかに感じて、なす術もなく、絶望感と孤独感の入り混じった救いのない悲しみに耐えるばかりでした。

 

このように霊界の奈落の底で苦しむ霊は、生前かかわりのあった人間の音信だけを頼りに、来る日も来る日も、底なしの孤独の想いで過ごしているのです。

 

そして、音信の橋が架かりさえすば、それが最愛の我が子であろうと孫であろうとお構いなしに、その体中に猛然と躍り込んでは、己の苦痛を解消させようとするのです。

 

たとえ自分の親、祖父母であっても、このような状態の霊については゛悪霊”とよんで、かまいません。

 

悪想念を持ちながら死を迎えた霊は悪霊界へ入り、霊界の悪の波動をますます増大させていきます。

 

そして、それが現界の人類の上に襲い掛かってくれば、この世は病苦、事故、災難のるつぼと化します。

 

そのうえ、悪霊によって命を絶たれた人間が霊界では悪霊となり果て悪の波動を増大させ、その悪循環で、やがて人類は滅亡の日を迎えるといいます。

 

この人類滅亡の危機を招くか、回避できるか、それは現在生きている私たち自身に課せられた課題でもあるのです。

 

私達が、もっともっと高級神霊世界の波動を受けることに熱心に勤め、私たち自身の想いの世界から悪想念の全てを追いだすことができれば、高い神霊からの平和と喜びの波動は人類の上に燦然と降り注いてくるはずです、と隈本確先生は言っています。

 

 

 

 

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井戸の意味

 

>その霊は、地下何千メートルもあろう井戸の底に落ち込み、一寸の身動きすらできない悲惨な思いの世界に閉じ込められていたそうです。

 

この状態を私なりに考えてみました。

現在人間の状態で言うと、自分の考えが一番で、人の意見を受け付けない、という人のことをあらわしているのではないか、と考えます。

 

井戸の底に落ち込み、一寸の身動きすらできない、という事は自分の考えが一番正しいという想いが、自分で自分の壁をつくって人の意見を受け付けない、という人を見ることがあります。

そういう人のことではないか、と私は思います。

 

このように人が霊になった時に、その霊の行き場所を読んでいて、その状況というのは、その霊が生前どんな考え方生き方をしてきたんだろうと気になっていました。

 

身近なある人が亡くなりました。

その人の生前はよくなくて、近所の人からは避けられ、友人はほとんどいませんでした。

 

その人の生前は、いつも自己主張が強く人の意見は聞きませんでした。

というか、人の意見を反対することが生きがいになっているような人でした。

 

人のいう事には常に否定をし、自分の意見をごり押しをし、そのくせ人のすることなすことが気になる人でした。

 

私は気になってその人の亡くなってからの姿を見てみました。

体はとても小さくなって、2本足で目は異様に大きく耳も大きく動物の耳のようにとんがっています。

口は目じりの方まで裂けて大きいのです。

 

この人の姿を私なりに分析をしてみました。

体が小さいのは小心者ではないか、と思いました。

 

2本足でちょこちょこ歩くのですが、この意味だけはわかりません。

目が大きいのは、人のやることなすことが気になることではないか、と思いました。

 

耳が大きいのも目と同じで人のいう事が気になってしょうがない、という事ではないかと思っています。

 

口が大きく裂けているのは、自己主張が強い意味かな、と自分なりに分析をしてみました。

 

数十年前の新聞のコラムに、欽ちゃんが書いていました。

 

年をとったら耳を大きくして、口を小さくしなさい、と、これは耳が大きくというのは、人の話を聞きなさい、という事で、口を小さくしなさい、という事は、自分の意見は言っていいけれど、自分の意見のごり押しはいけませんという事でした。

 

私の見た亡くなった霊の姿がその霊のありのままであるのかどうか、もしあっていても私の分析が正しいかどうかはわかりませんが、こんな見方があるとでも思って読んでください。

 

私もこんな姿にはなりたくないので、穏やかな優しい目で、人の話をよく聞けて、自己主張が強くならないように気を付けていきたいと思います。

生前に行うこと

神・仏・霊は先輩

 

神・仏・霊ともに元は私達人間の先輩です。

私達人間もいずれは神・仏・霊になります。

 

その時に、私達の魂は高級神霊に迎えられるか、低級霊界に引きずり込まれるか、それは、私達自身が決めることです。

 

この人間界で、家族がとても優しくいつも自分の願いを聞いてくれたり、面倒を見てくれていたとしても、肉体消滅後の行き先は、高級神霊界へ導いてくれたり、低級霊界から引き戻すという事はできません。

 

また、亡くなってからのお葬式がどんなに立派なものであっても、霊界で苦しむ霊の救済にはなりません。

 

人は生前、自己の霊障をなくし、因縁を解除し(痛み、苦しみをなくすこと)、現世を守護神に守られて喜びと平和に満たされて過ごすこと、そして、死後は、その満ち足りた想念を持ったまま霊界に移行することが重要になってきます。

 

私達が生前、念の管理をしっかりとし、魂の育成をしなければならないという、それが大きな理由です。

 

まずは自分の言葉や行動を気を付けましょう

人に不快な念を起こさせない事や、人の心を傷つけないことです。

 

それは、私達が自分自身について反省する習慣をしっかりと身につけることです。

知らず知らずのうちに相手の心を傷つけた時、知らず知らずのうちに魂にいろいろな悪想念を住まわせる……

 

それがいつの間にか爆発して、世間を震撼とさせる事件につながるかもしれません。

 

親殺し、子殺し、理由なき殺人……どれもこれも、潜行し凝り固まった悪念が、外界にふきだしてきた現象です。

 

また国と国との集団による不快の念は、人々を戦争へと駆り立てて、人類破滅の道を滑り落ちていこうとしているようにも見えます。

でも、こんな意見がありそうです。

 

「自分にはちっとも不都合なことは怒っていないし、それに、人間が心の中でちょっとくらい羽目を外して、イヤな奴を蹴落とそうが、消しちまおうが構わないではないか。現実生活では、やりたいことや言いたいことの半分もしていないのだから……」と。

 

このような人は、現界を去った後で、さらに長い長い霊界での生活があることを深く認識してほしいと思います。

 

心の中に宿した小さな悪の想いの積み重ねが、やがては魂にかさぶたのようにこびりつき、それが死後、霊界での向上を妨げる重り、足かせとなるという事実を忘れないでほしいのです。

 

もう一つですが、人間が心の中で思ったことというのは、いつかは現実のものとなって現象界にあらわれてくる可能性が非常に高いのです。

それが人間の念の働きというものです。

 

 

 

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私の驚いたこと

 

こういう事と関係がないでもないと思いますが、私がとても驚いたことがあります。知人にAさんとBさんという人がいます。

 

Aさんは争いごとが大嫌い、という事でした。

争いごとが嫌いというのは悪いことではありませんが、Aさんは徹底していました。

 

Aさんは、とてもいい人でしたので、人の役に立つことにいつも頑張っていました。

 

Cさんという人がいますが、Cさんも私にとっては知人です。

 

CさんはAさんに親切にしてもらっていましたが、CさんにとってはAさんの親切が、とてもあるときからイヤなことに感じられるようになりました。

Cさんは、Aさんに怒りだしました。

 

普通ならここで、Aさんが気に障ったのならごめんなさい、で終わりだと思うのですが、Aさんは何故かそんなに怒らせるほどのことをしたつもりはない、と言ってそのまま引っ込んでしまいました。

 

Aさんの代わりにBさんがCさんの相手をするようになりましたが、Aさんが一切出てこなくなり、Cさんまたまた怒り出してしまいました。

 

私には、その3人ともが理解ができないので、AさんにCさんときちんと話をしたほうがいいのではないか、というようなことを言ったのですが、Aさんは「わたしは争いごとが嫌いだから」という事で拒否されました。

 

原因が良かれと思ってしたことであってもCさんを不愉快にさせたわけだから、きちんと向きあったほうがいいのでは、と思ったのですが、一切聞き入れることはありませんでした。

 

Bさんも自分のことでもないのに、Aさんの代わりとか、それじゃよけいCさんを怒らせるだろうに、と思いましたが、Bさんは自分がAさんを助けなければ、と思っているようでした。

 

Cさんには、Aさんは悪気ではなく、逆に良かれと思ってやったのだから、そこまで怒らなくてもいいのではないか、というようなことをオブラートに包んでいってみましたが、全く効き目はありませんでした。

 

この話はあまり関係のない話かもしれませんが、この時に思ったのは、いくら平和主義者だとしても、良かれと思ってしたことでも相手を怒らせたら、気を悪くさせてすみません、くらいは言ってもいいと思うのですが、これって逆に平和主義者になっていないのではないか、と思いました。

肉体消滅後は、生前の想いのままの所に行く

人間は三要素から成り立っている

 

隈本確先生は、繰り返し言っています。

人間は魂、肉体、知恵という三要素から成り立っています。

 

人は無意識のうちに死というものを恐れています。

隈本確先生は、死というのは、人間が肉体と知恵を捨て去り、魂だけの存在になって霊界に入ることと言っています。

 

見ようによっては、死とは新しい魂の誕生の時でもあります。

その新しく誕生した魂は、生前にもっていた想念をそのままもって霊界入りをします。

 

たとえ、親子、夫婦と言えども想念に違いがあれば、全く別々の世界に入っていくことになります。

それが霊界の掟なのです。

 

霊界というのは、想念だけの世界なので、わずかの想念の違いがお互い相手を傷つけ、苦しめることになるので、それぞれの魂にあった世界に向かうことになるといいます。

 

人間界では想像もつかないほどに確固たる形態の想念の霊集団が各々が確立されています。

 

明るい想念、慈愛に満ちた想念の持ち主は、霊界に行ってからもそのような想念の霊集団の中に迎えられますし、暗い想念、邪悪な想念の持ち主は、そのような想念の集団の中に引きずり込まれるのです。

 

 

 

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本当に霊を救うのはどちら?

 

という事は、自分の想いの世界のそのままであの世に行くという事ですね。

という事は、普段から心の中をきれいにしていないといけないですね。

 

こんなことを書いたら批判と言われるかもしれませんが、私としては、素朴な疑問と思っています。

 

以前誰かが、正二郎先生がこれからは最下層の地獄界にいるレベルの魂でも、日神会の神様にお願いすれば、天命界に行ける、というようなことを言われていたと思います。もし、違っていたらすみません。

 

これが本当だとしたら、地獄をつくられた素の親様の意志に反するのではないかと思います。

 

というのは、素の親様のご意志は、あくまで自分で向上することが大事だという事ではないかと思います。

 

最下層の地獄界まで救ってしまったら、地獄界はいらないのではないか、と思いますが、そんなことを思うのは私だけでしょうか……

 

隈本確先生は、確か浄霊をしても神界までは上げるけれど、それ以上は自分で上を目指してほしい、という事を書かれていたように思います。

 

私も浄霊をしていると、もうこの辺で大丈夫かな、と思われる感じがするときはたいてい神界レベルのことが多い気がします。

 

私はその時は、浄霊をした霊に対して、後は自分で向上をする努力をしてください、と心で伝えます。

 

その他に、日神会の長崎聖地、東京聖地に行けば常に超神霊エネルギーも流れていますので、そこで超神霊エネルギーをたくさん浴びて、向上をしてください、と伝えます。

 

 

 

 

 

 

霊界でのお婆さん

霊界でのお婆さん

 

隈本確先生がお婆さんの霊を救済してから数年後、隈本先生はおばあさんが霊界でどんな生活をしているのだろうと思い、自分の魂を体から外して、魂だけで霊界を探訪しました。

 

そこは、緑の谷間でした。

真っ白いしぶきをあげながら谷の斜面を滑り落ちていく流れは、豊かな水をたたえた広い滝つぼに、抱き留められて行きました。

 

そこから再び形成される幅一メートルくらいの澄み切ったせせらぎは、なだらかに蛇行して下まで続いています。

そのほとりには、いろんな色の花が咲き乱れています

 

透明な大気と光のさざめき、ときおり耳をかすめる小鳥のさえずり、そのせせらぎのすぐ際に、小ぢんまりとした水飲み場があります。

 

そこは、霊界のお遍路さんたちの通り道です。

白装束に杖を突き、箱のようなものを背負ったお遍路さんたちが、次から次にとやってきます。

 

すると、一人の優しそうな老人がその都度、木のひしゃくに満々とたたえた清水をお遍路さんに差し出しては、ねぎらいの言葉をかけています。

 

隈本先生は、その光景に思わず目を疑いましたが、やはり、その老人は隈本先生のお婆さんでした。

 

お遍路さんにのどの渇きをいやすという、自らの仕事に嬉々として励み、遍路さんを見送るお婆さんの慈愛に満ちたまなざし、そこには、生前のあの依怙地で意地悪そうな目の光のかけらもなかったといいます。

 

 

 

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幸せそうなお婆さん

 

霊界でのお婆さん、生前の面影が全くなく、慈愛に満ちたまなざし、良かったですね。

 

生前は若い頃に大変苦労されたようで、でも、その苦労はおばあさんの中では良い方に生かされることはなかったのですね。

 

自分の中で辛かった想いを消化しきれず、その消化できなかった想いを、家族に当たり散らしていたのでしょう。

 

家族は、そのお婆さんの依怙地で意地悪に嫌な思いをしなが暮らしていた、負の連鎖が続く気がします。

そこに又悪霊が……

 

でも、隈本先生は、ご自分でその負の連鎖を断ち切られたのです。

おまけにお婆さんの消化しきれなかった悪想念をも断ち切ることができました。

良かったです。

 

私達も日神会の神霊治療を教わって、浄霊を行うことができますので、どんどん霊の救済を行っていきたいものです。