聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

形だけの現代宗教

「心」を失った現代宗教

 

古来より伝統的に保たれてきた神社、仏閣はともかくとして、近年、いわゆる新興宗教と言われるものも、競うようにして大仰な殿堂を、あちこちに建設しています。

 

それが、いったい何十億、何百億かかったものか知りませんが、そそり立つ白亜の殿堂を見上げつつ、また、昔の城郭を思わせる威容をうちながめつつ、隈本確先生は、何とも不可解な思いにとらわれていました。

 

それら豪勢ではあるけれど超不自然な建築物は、果たして、実在する神、仏、霊と、どれだけのかかわりがあるのでしょうか。

 

また、私たち人間にとって、どのような意味を持っているのでしょうか。

 

隈本確先生には、それはむしろ、当の教団、宗教団体が人類に対してなしている無言の自己主張のように思われてなりません。

 

何より、その大仰な建築物の威容なだけで、十分に威圧的す。

 

人は、その威容を前にして、ただただ感心してしまうか、あるいは、無意識のうちにすっかり呪縛されしまうでしょう。

 

それは、教団の権威の一表現であり、ほとんど催眠的な効果をの効果をもつ教団の自己主張に他なりません。

 

隈本確先生はある時、そんな豪奢な建築を前にして、信者ではなく一般観光客と思われる人の口から「宗教団体は金持ちだなぁ」という感嘆の声が上がるのを聞きました。

 

まったくです。

 

しかし、よくよく考えてみれば、こういう状態は、ただ感心してばかりもいられない事態ではないでしょうか。

 

多くの宗教的活動から、実在する正しい神霊の働きが遠のいて久しい現在、それらを伽藍、もしくは神社、教会とよんでいいのか、とにかく宗教的建造物は、それが立派であればあるほど、一抹の不安とむなしさとを感じさせる存在となり果ててしまっています。

 

本来は、人間の心に平和と幸福とをもたらすべき宗教が、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

 

そのあたりのことについても追々明かしていきたいのですが、悲しいかな、見上げる白亜の殿堂は、「心」を失い、すっかり形骸化していまった現代に宗教の一面を端的に物語るシンボルになってしまっています。

 

 

   

 

 

電車の窓から見える観音様

 

>豪勢ではあるけれど超不自然な建築物は、果たして、実在する神、仏、霊と、どれだけのかかわりがあるのでしょうか。

 

私はほとんど電車に乗ることはありませんが、極たまに用事があって電車に乗ることがありますが、その時に電車の窓から見えるのが、とても大きな観音様です。

 

とても実在の神仏がいらっしゃるとは思えず、神様のエネルギーを感じるか気になり、神様のエネルギーを感じるかどうかみてみたことがありますが、全く感じません。

 

おそらく観光の目玉として建設をしたもののようです。

最近、その観音様の建設のいきさつを偶然知りました。

 

その観音様の建設は、戦前から始まっていたといいます。

 

そして、戦争が始まったので建設を続けることができなくなって中断したままだったものを、戦後世の中が落ち着いた頃に、財界人をも巻き込んで再開したといういきさつがあると言います。

 

観音様ができて、それから観光客が来るようになり、どこからかお坊さんを調達してきて、それらしくしたようです。

 

今では、海外からも来るそうです。

 

この記事を読んだとき私は、何とも言えない複雑な思いでした。

 

人が亡くなるときの想い

無垢な魂の勝利――高き霊界人たちの歓喜と祝福に迎えられて

 

死後の世界での生活のために霊、肉体、すなわち物質を主とした悪・欲・疑いに満ちた現界生活を送るか、その選択の自由は私達自身の心(想い)にゆだねられています。

 

しかしながら、この現世という物質世界に渦巻く諸々の事象—―たとえば財産、地位、名声、権力、性などにまつわる悪想念、あるいは間違った信仰に絡んで生じてくるいろいろな悪現象をさしていますが、それらの悪想念に絡めとられた現界での生活は、間違いなく地獄へ直進する片道切符となるでしょう。

 

ここに、肉体をもつ人間の知恵に付きまとう悪・欲・疑いや苦しみの想念を霊界に持ち込まさない清浄な魂の独立性が重要な問題となってきます。

 

人間界を去って、霊界で美しい黎明を迎えた魂は、霊界中に響き渡る荘厳なる鐘の音と紅のあやなす光彩とに迎えられて、高き霊界人達の歓喜と祝福の中、きらり、ゆらりと輝き舞いながら、賛歌の想いに光体をうち震わせ、大霊界の光輝の至峰へと進み行くのです。

 

祈り――。

神々と私達の魂が投げかける美の波動と楽の音が、大霊界の果つるまで鳴り響かんことを。

 

 

  

 

 

 

母のお通夜での出来事

 

>人間界を去って、霊界で美しい黎明を迎えた魂は、霊界中に響き渡る荘厳なる鐘の音と紅のあやなす光彩とに迎えられて、高き霊界人達の歓喜と祝福の中、きらり、ゆらりと輝き舞いながら、賛歌の想いに光体をうち震わせ、大霊界の光輝の至峰へと進み行くのです。

 

以前にも書いたことがあると思いますが、私の母が亡くなっての通夜の時の感じがこんな感じでした。

 

実家は、浄土真宗でした。

 

母の棺の前で、お坊さんがお経をあげています。

 

お坊さんがお経をあげている後ろに少し間隔をあけて、実家を継いでいる弟と弟の家族が並んでいて、その横に私たち姉妹3人が並んでいます。

 

わたしたちは、お坊さんのお経を読んでいる後ろに座って、お坊さんのお経を聞いています。

 

お坊さんのお経を聞いているうちに、私にはお坊さんの声がどんどん小さくなってはるか遠くに聞こえるようになってきました。

 

その代りに、私の心の目と耳にある光景が見えてきました。

 

母の棺のところに真っ白い衣を着た女性が上から数人降りてきて、母を上の世界に導いていくのです。

 

場所は葬儀場でしたが、その葬儀場の広い天井には、隙間なくびっしりと、真っ白い衣を着た神霊の方々が並んでいます。

 

そして、その方々が、賛美歌のような歌を歌っています。

 

それは、この世のものと思えないそれはそれは美しく心に心地よく響いてくる歌でした。

 

その中には、父もいましたし、以前に書いたことがある若い時に亡くなった姉もいました。

 

そして、母の長兄であり、父のとても仲のいい友人である伯父もいました。

 

そのうち、だんだんお坊さんのお経の声が大きくなって、先ほどの神霊の方々や母が見えなくなってきて、私は現実の世界に戻ってきました。

 

翌日の葬儀には、前日のお通夜での出来事は全くありませんでした。

 

その後、姉達や弟にその話をしても、そんなことは全く見えもしないし、歌も聞こえなかったと言われました。

 

私にだけ見えて聞こえたとしても、母はおそらく地獄ではなくいい所に行っているだろうと、私が勝手に思っています。

 

余談ですが、母が神霊の方々に導かれている様子が、子供の頃に読んだかぐや姫のお話で、月からのお迎えに従ってかぐや姫が行くときの姿によく似ている、と思いました。

 

もしかしたら、かぐや姫のお話は神様の世界に行くときの様子を描いたものだったのかもしれないと思いました。

 

心身障碍者の際立つ美しい目

美しき唯心の世界での生活者たち

 

隈本確先生は、昔から幼心にいつも不思議に思うことがありました。

 

それは、たとえばろうあ者、盲目者、くる病、その他の心身障碍者の目が、際立って美しい事であります。

 

他の同年配の子供たちには見られない、ましてや、大人の世界では絶対と言っていいくらい見られない、あの澄んだ美しい目、だから、隈本確先生は、いつでもそれらの人達に不思議な神秘感を抱いていました。

 

—―どうしてだろう。

何故、あのように澄んだ美しい目があるんだろう。

 

そして、それらの人達の前では、体や頭脳が人並みに健全であり唯物的である自分に対して、意味の分からない恥ずかしさを覚えたものです。

 

この一連の隈本確先生の想いと感覚とは、後年、神霊学を研究するようになってから、はっきりと解明されました。

 

すなわち、心身に障害のある人達は、一般の人達に比べて、その魂魄の霊としての修行の過程が数倍も早く、神霊治療能力者と同じような霊との交流が盛んに行われ、内在するその魂魄は若年にして霊界での神の格が完成されているのです。

 

一般の人が、この物質文明の中で、ともすれば悪・欲・疑いといった地獄想念のますますの習得に励みながら毎日をおくっているのとは、まことに対照的です。

 

心身に障害を持ち、現界での生活に普通以上の規制を受けている人達は、何事につけても謙虚で、だいたいにおいて魂が先行し、現界的な悪・欲・疑いの地獄想念には程遠いところにいるのです。

 

肉体を持って現界にありながら、未来に広がる霊界人的な”霊主・体従”の生活を送っているのです。

 

つまり、美しき唯心の世界での生活者ということができるでしょう。

 

以前に紹介したお便りの洋子さんの場合も、それです。

 

完全に人間界での生活、人間性を否定した、完璧なまでの唯心の世界での人間生活だったのです。

 

肉体の滅亡後の霊界までも引きつがれる人間生活(魂としての生活)であれば、その魂の重みをここに知るとき、この洋子さんの人間界での生活と霊界でのありかたは、現界人、霊界人双方に大いなる指標を投げかけるものと言わなけらばなりません。

 

現世の 繩ないごとの 眠り後 

      永遠の御神の 御座参るや

 

 

  

 

 

心身に障害がある人は、神霊治療能力者並みに霊との交流が盛んに行われる

 

>心身に障害のある人達は、一般の人達に比べて、その魂魄の霊としての修行の過程が数倍も早く、神霊治療能力者と同じような霊との交流が盛んに行われ、内在するその魂魄は若年にして霊界での神の格が完成されているのです。

 

という事は、一般の人達に比べて、大変過酷な人生を送るという事ですね。

 

肉体にしょうがいがあるというだけで、過酷ですよね。

 

 

>一般の人が、この物質文明の中で、ともすれば悪・欲・疑いといった地獄想念のますますの習得に励みながら毎日をおくっているのとは、まことに対照的です。

 

確かに対照的です。

 

>心身に障害を持ち、現界での生活に普通以上の規制を受けている人達は、何事につけても謙虚で、だいたいにおいて魂が先行し、現界的な悪・欲・疑いの地獄想念には程遠いところにいるのです。

 

しょうがいがあるだけで、現界での生活に普通以上の規制を受けます。

 

>肉体を持って現界にありながら、未来に広がる霊界人的な”霊主・体従”の生活を送っているのです。

 

人として生きている中に霊主・体従の生活というのは、大変難しいものです。

 

常に意識をしていないと、人間界の悪・欲・疑いに心に引きずられます。

 

>体の滅亡後の霊界までも引きつがれる人間生活(魂としての生活)であれば、その魂の重みをここに知るとき、この洋子さんの人間界での生活と霊界でのありかたは、現界人、霊界人双方に大いなる指標を投げかけるものと言わなけらばなりません。

 

障碍者が、なぜ人間界に生まれてくるのか、という疑問に対する答えですね。

 

身近に障がい者がいると、どうしても考えさせられることが多いものです。

 

だいぶ前ですが、障害をもつお子さんをもったお母さんの言葉を読んだことがあります。

 

自分は生まれた時から、全てのことに恵まれていました。

生まれてきた子に障害がありました。

 

ある人にあなたの人生は、この子さえいなかったら完ぺきだったのにね、と言われましたが、私はこの子に救われたのです。

 

もし、この子が生まれていなかったら、本当に鼻持ちならない嫌な人間になっていたと思います、と。

隈本確先生から斉藤さんへの返信

隈本確先生から斉藤さんへの返信

 

このお便りを読み終えた隈本確先生は、突如、体全体が白銀の世界に引き入れられるような感覚にとらわれてしまいました。

 

清浄な美の波動の中には、妙なる楽の音が流れ、麗しき光輝の神霊集団の世界が隈本確先生の眼前にかもし出されてきたのでした。

 

それは、洋子さんを中心とした、白銀の神霊集団だった世界にひたり、その紙面に涙の数滴をこぼすことを禁じ得ませんでした。

 

そうして、我に返った隈本確先生は、このお便りに対する返信はどのように書いたものかと、途惑ってしまうのでした。

 

お便りから受けたこの感動、そしてお便りから喚起されて隈本確先生の胸中に繰り広げられた神秘の大霊界の様―――。

 

それを、いったい、隈本確先生はどんなふうに文字に託したらいいのでしょうか。

 

隈本確先生は、深い深いため息の中に、またしても、白銀の世界が残していった美の余韻を感じているのでした。

 

 

隈本確先生から斉藤さんにあてられた返信≫

 

前略

 

これほど深い悲しみと美しく感動的な書面に接して、神秘の大霊界を目の当たりに見る想いで、涙を禁じ得ない日々が続いております。

お手紙の内容をご説明いたします。

洋子さんの場合、生後すぐ他からの霊の憑依現象が肉体上にあらわれ、以降、健全でない肉体に対して、色々な霊がその時期時期に応じて、洋子さんの心身を占有していたものと思われます。

そのような状態にあっても、洋子さんの魂魄は神の心をもたれたご両親のご加護のもとに、霊界生活での向上の準備を着々と進められていました。

そうして、太陽の光ある縁側で天を見つめている最後の姿は、洋子さんの魂が未来の高き神界を見つめている姿であり、魂の肉体離脱の最後の準備でもありました。

洋子さんの魂魄の昇天の様は、まさに大往生の一語に尽きるものです。

わたくしが初めに申しました"深い悲しみ”とは、洋子さんの人間界での生活を指しております。

また、”美しく感動的な”と言ったのは、 洋子さんの魂魄が種々の憑依霊にもめげず、ご両親のご加護のものとに、燦然と光輝く天神の姿でわたくしの心眼に出現されたことを指しております。

洋子さんとご両親が人間界で味わわれました悲しいお苦しみが、洋子さんの霊界での霊格向上のために、どれほど寄与、貢献した人間生活であったかは、計り知れないものがあります。

わたくしは、その人間界から最高の神霊世界への昇華の仕組み、大霊界の神秘の差配に、新たに深い感動を覚えたしだいです。

これほどに光輝の輝く神霊体(洋子さんの魂)に接し得たわたくしの幸いを、ここに厚く御礼申し上げます。

あなた方ご両親におかれましても、その魂魄はすでに高級なる神格を有しておられますが、今後とも、なおいっそうの自己の魂の向上のために、美の想念の生活を送られますようお祈り申し上げます。

                       隈本確

斉藤利憲様

 

 

 

 

 

障がい者はなぜ生まれてくるのか

 

以前から思っていたのですが、何のために障害ある人がこの世に生まれてくるのか、神様には何か意図があるのか、若い頃から考えていました。

 

凡人の私にはわかりません。

 

他の人に聞いてみました。

 

その人は、癒しだと言いました。

 

う~ん、そういう部分も否定できませんが……でも、ちがう気がする……という気持ちでいました。

 

そういえば、相模原障がい者説殺傷事件の犯人の植松聖が障がい者のことを「国の負担を減らすため、意志疎通をとれない人間は安楽死させるべきだ」と言っていたといいます。

 

こんなことを言って大勢の障碍者を殺した者もいます。

 

こんな男を神様はどう思っていらっしゃるんでしょう。

 

神様の御心はわからないけれど、きっと何かの意味があるんだと思います。

 

 

 

 

斉藤さんから隈本確先生へのお便り

斉藤さんから隈本先生へのお便り

 

斉藤さんから隈本確先生に宛てられたです。

 

拝啓、隈本確大先生。

つつしみて、おうかがい申し上げます。

先生のご本「大霊界1守護神と奇跡の神霊治療」を56年11月より拝読させていただき、本当に霊界の最高位の解説書と思いました。

小生ごとき無知の人間でも、深く感じ入りました。

実は、丁度子供の供養後(昭和56年10月18日で一周忌)、先生の書を読ませていただきましたが、ここで、少し当家の事情をご説明申し上げます。

昭和28年12月2日私たち夫婦の次女として生まれた俗名・洋子は55年10月18日午前2時、死亡いたしました。

この頃は体格、容姿とも普通でしたが、知恵遅れでした。

それで、小学校入学を断念し、以降ずっと家庭で保護、養育してまいりましたが、思春期の頃よりてんかんの症状があらわれ始めました。

自分のこぶしで自分の顔や頭を強く打ち、顔中、頭中、髪の毛のある部分も紫色にはれ上がって苦しむこと数年間、その後、51年ごろ全身衰弱で死の淵をさまよよい、今度は一転して植物人間となってしまいました。

そうして、寝ながら夢中で自分の肛門から出るものを体中にこすりつけ最悪の場合には、それを自分の手で口の中に入れるという、全く生き地獄の極みのような状態がかなりの間続きました。

けれども、娘は再び死の淵からよみがえり、太陽の光ある縁側にずしりずしりと這い出してきて、休むようになりました。

でも、長い闘病生活のせいか、この時には腰が経たずに、イザリとなっておりました。

それからおよそ3年の間、両手を固く握って肩には力を込め、真っ青な点を空をにらんでは両手のこぶしもそちらの方向へ差し上げ、何か必死で考えているようなことが、しばしばありました。

言語障害があったため、娘は「カ、カ、カ、タ、タ、ト、ト、ト……」などとしか言えませんでしたけれども、こちらの話すことは何でも分かっているのでした。

また、家族のものが陰でしていることも、心の中で思っていたことも、自分は寝ていても、だいたいわかっていたようでした。

(著者注:洋子さんに内在している魂(生霊)が、全てを理解していたのである)そして、満26歳で亡くなるときは、娘には何の苦もなく、わたくしの手に抱かれ昇天していきました。

以上、ごく簡単に書きましたけれど、わたくしたち家族が、不憫な娘の一生と運命を共にした26年間を振り返りますと、やはり疑問を持たずにはいられません。

普通の人にはない、あれほどまでの悲惨な苦しみのただ中にいた娘—―、いったい、何が原因であのような目にあわなければならなかったのでしょうか。

また、あのように苦しみばかりの生涯を終えて言った娘—―。

一体、どうして生まれてこなけえばならなかったのでしょうか。

わたくしは、娘の死後、これらのことについて深く考え、研究しようと思い、『般若心経』の世界に入りました。

また、その他の仏教関係の本とか神霊関係の本も、ずいぶん読みました。

人間の病苦の原因を解明したい一年で、そんなふうに精神世界の本を読み漁る日々が一年ほど続いておりましたが、道は程遠いように思われました。

先生の著書に出会ったのは、丁度そんな頃でした。

一読して、大変ありがたく、それからは繰り返し、繰り返し、読むようになりました。

そんなある晩のこと、娘の仏前で祈りながら、ふと先生のご本の表紙を見たわたくしは、初め自分の目を疑ってしまいました。

赤で印刷されている表紙タイトルの「大霊界」という文字のうち"霊”の字のみが赤く、"大”と"界”の字は黄金色のまぶしい光で描いたような文字となり、しかも、それが地震のように揺れて見えたのでした。

「おかしい、でも、夢ではない。自分は正気でいるのに……」、わたくしはそう思って、右手で文字の上を何度もこすってみましたけれど、やはり同じでした。

それから約10分間、わたくしはその黄金色の文字を眺めておりました。

おそらく、これは先生の神霊がご本にのり移っておられたのではなかったかと、わたくしは、後から自分なりに、そのように考えました。

現在、わたくしは、娘が霊界で救われますように毎日祈り続けておりますが、わたくしたちのほかにも、世の中にはこのような苦しみを味わっておられる方が沢山いるのです。

何とか、助けたあげたい心でいっぱいです

どうか先生の神霊のお力で、小生の余生に生きがいを与えてください。

ご多忙の御身とは拝察致しますが、心より、お返信をお待ち申し上げております。

                     斉藤 利憲隈本確先生

 

 

   

 

洋子さんのお父様の思いがわかる気がする

 

>人間の病苦の原因を解明したい一年で、そんなふうに精神世界の本を読み漁る日々が一年ほど続いておりました

 

洋子さんのお父様である斉藤氏という人の気持ちが、わかる気がします。

 

洋子さんのご両親も、とても大変だったでしょうに、最後まで娘さんの洋子さんの面倒を見られました。

 

私の姉の場合も、姉が寝たきりになったころから亡くなるまで、母がズーッと付きっきりでした。

 

その頃、父の両親である同居している祖父と祖母、そして父の妹である叔母たちが、さかんに父や母に対して姉を施設に入れるように言っていました。

 

私の姉もこのお話の娘さんも年代的には、同じくらいだと思われますので、施設に入れようと思えば入れることができたと思います。

 

私の母は昔の人ですから、ほとんどのことは理不尽なことでも祖父と祖母のいう事は受け入れてきましたが、姉を施設に入れるという事は、父と共に首を縦に振りませんでした。

 

姉が亡くなるまで、母が面倒を見ていました。

 

当時私は、家から出ていましたので、ほとんど姉の面倒は見ていませんし、母が私を姉には合わせようとはしませんでした。

 

というのは、当時は私も20代半ばです。

 

人生で一番華やかで楽しい時期です。

 

たぶんですが、私は当時はあまりわかりませんでしたが、外から帰ってくるとその雰囲気を持って帰っていたのでしょう。

 

私に会うと姉がものすごく動揺をするというのです。

 

だから母は、私に姉にあわないでくれと言いました。

 

そのため私は、姉の最後の頃のことをほとんど知らないのです。

 

姉も人生で一番楽しい時期を、味わいたかったと思います。

 

でも、どうにもならない、今でも姉のその時の気持ちと、そばで見ていた母の思いを考えると、辛くなります。

 

そういう意味でも、斎藤さんと同じようになぜこの世に病気や障害で苦しむ人がいるんだろう、と心の隅にいつもありました。

 

私が日神会に出会ったのは、次男がきっかけですが、根底には姉の事やその他諸々のこともあったと思います。

 

先程書きそびれましたが、施設に入れることを否定するものではありません。

 

それぞれの考え方もや事情もあります。

 

ただ、当時の父と母は姉を最後まで自分たちが看取りたい、という思いだったのだと思います。

 

 

 

 

 

不幸な生涯を送られた女性の父親からの手紙

不幸な生涯を送られた女性の父親からの手紙

 

人としてこれ以上の苦しみはありえないのではないか、と思われるほど不幸な生涯を送られ、現在は高き霊界にあられる女性の、悲しくも美しい実話です。

 

この話は、その女性のお父様から実際に隈本確先生に宛てられたお便りと、それに対する隈本確先生の返信とをそのまま公開します。

 

これから記述していく、感動的なお便りをくださった方は、隈本確先生の著書の読者である斉藤さんという男性の方です。

 

お便りの書状の公開については、斎藤さんからは「少しでも、世の中の苦しむ人たちのお役にたてば」と気持ちよく快諾してくださいました。

 

「斉藤さんのご厚意に対しましては、ここで厚く御礼申し上げます

 

初めに、隈本確先生から宛てられた書状公開(斉藤さんのお便りの)についてのお願いに対する斉藤さんの承諾のお便りの紹介からです。

 

拝啓、隈本先生。

度々、ご丁寧なお手紙をいただき、ありがたく存じています。

つきましては、小生どもの心身障碍児・洋子の生前の生活の模様と、死後の霊界での様子を先生の著書中に記されるご予定のおもむきうかがいまして、大変嬉しく存じます。

それが、世の中で普通の方の何倍もの苦労をなさっている心身障碍者の方々や、また、そのご家族の方々に対して、少しでもなんらかの励みになれば、まことに幸甚でございます。

本日、夜中の午前二時から四時頃までの間に、亡き洋子の霊夢がございました。

夢の中では、四国の金毘羅宮のような感じの神社の前に洋子が現れて、わたくしたち夫婦や家族の将来のこと、また、私達が親しくしている方たちのことをいろいろと語ってくれました。

起きてから、不思議な夢だったなとずっと考えておりましたところ、お昼ごろ、先生からのお便りをいただきました。

そこで、改めて、霊の存在と神霊世界の不思議な働きに驚いて知った次第です。

洋子の生前の姿と言えば、重度の心身障害に侵されていたため無能な娘でございました。

けれども、今、人間には見ることのできない神仏と変わらない霊の存在を娘が内在させていることが、確実に信じられるようになりました。

健康に毎日を過ごし、今日、明日の楽しみを求むる方たちには、小生どものような生活は、とても信じがたいことでしょう。

また、普通の方には考えられないような大不幸を背負って生きている方にしてみれば"神も仏もないなんと無情な世の中だろう”と思われることが、度々あるかと思われます。

けれども、ただいまの苦しみの中でもなお神霊の実在を信じ、霊界を信じて、この無情な毎日の生活こそが修行なのだ、普通の方々にはできない修行をさせていただいているのだ、と考えて度量に度量を重ねたら、必ず神のご加護が下ってくる……と、小生はそんなふうに考えております。

なにとぞ、 小生どものことで世の中の方々のためになる材料がございましたら、赤裸々にご報告なされて結構でございます。

恥ずかしいとは、少しも思いません。

先生のご健勝を心からお祈り申し上げます。

そして、この世の中から心の不幸を除くべく、心の光をますます高く掲げてくださいませ。

先生のお力によって、神々のお光を、あまねく世に照らせしめてくださいませ。

御祈念申し上げます。

                     斉藤 利憲

隈本 確先生

 

以上が隈本確先生宛ての斉藤さんからのお便りを著書にしたいという申し出に対する、斎藤さんの承諾のお便りです。

 

次回は、斎藤さんの次女・洋子さんの生前、及び霊界での生活の模様についての、斎藤さんと隈本確先生との往復書簡を、そのまま記載します。 

 

 

  

 

 

私の姉

 

初めて書きますが、私の亡くなったすぐ上の姉は障碍者でした。

 

亡くなるころは腎臓の病気で26歳の若さでなくなりました。

 

亡くなった姉は、知的障害がありました。

 

でも、日常生活の中では少し遅いこともありましたが、支障なく生活ができました。

 

当時、特別学級にいました。

 

姉は、妹の私が見てもとてもかわいい顔をしていましたし、性格もとても穏やかでした。

 

そして、目がとても綺麗でした。

 

姉もはた目から見ても障がい者とわかるくらいでした。

 

そのせいか、家の中では、私達姉弟は皆仲が良かったし、両親も差別することなくかわいがっていましたが、外の人からは嫌がらせや、いじめがひどかったのです。

 

ストーブで使う鉄の棒を腕にわざと当てられひどいやけどをしたり、細かいいじめ嫌がらせをずいぶんと受けていたようです。

 

そういうことがあって、私は子供の頃から人を外見で判断するのは絶対にしない、と決めていました。

 

そんな中でも、姉はいつも穏やかで優しく一所懸命に生きていました。

 

感性が豊かだったのでしょう、素敵な詩をいっぱい書いて色んな賞をとっていました。

 

今の姉は、とても美しく幸せそうです。

 

そう、生前の辛かったことの何倍も、神様は姉に幸せをくださっている気がします。

 

 

 

                        

魂だけになった時の為にすること

謙虚、礼節、敬い、愛、慈しみの心

 

いつもなら隈本確先生の記事に関係をした私の想いを書いてました。

 

今回も関係するにはするとは思うのですが、ある掲示板で私が過去に投稿していた掲示板のことが話題になっているようです。

 

今回はそのことを書きたいと思います。

 

その掲示板は、もう今はなくなってしまった日神会系の掲示板です。

 

その掲示板に、私は投稿していました。

 

私は未だによくわからないのですが、おそらくですがその掲示板の管理人は3人だったと思います。

 

その3人をÀさん、Bさん、Cさんとします。主に毎日投稿していたのは、Àさんでした。

 

Bさんも投稿はしていましたが、Àさんほど多くはありませんでした。Cさんはほどんど投稿をせず、たぶん管理の方を重点的に行っていたのではないか、と想像しています。

 

その掲示板の終わりに近い頃に、ある人が投稿してきました。

 

Ⅾさんとします。

 

Ⅾさんは、日神会のアンチでした。

 

Ⅾさんが言うには、自分はアンチではあるけれどもと日神会の会員で、霊能者の先生から浄霊を受けたこともあったという事を言っていました。

 

自分でも懸命に自己浄霊をしようと頑張ったのだけれど、どうしても波長が合わず、地獄へ行ったらどうしようと思ってしまって、上手く自己浄霊ができなかったと言っていました。

 

結果、Ⅾさんの中では日神会の超神霊は嘘だという結論になったようでした。

 

それで、同じような想いをしている人がいるはずだから、アンチのサイトを立ち上げるつもりでいるが、その前にこの掲示板に、自分のことを言うために投稿したと言っていました。

 

私は以前から、日神会のアンチの人の中には元会員という人がけっこういるという事を知っていたので、できればなぜアンチになったのか本人に聞いてみたいと思っていました。

 

私にとっては絶好のチャンスでした

 

だから、Ⅾさんにいろんなことを聞いてみました。

 

結果先ほど書いたことを教えてくれました。

 

アンチとは言うけれど、アンチになるのも理由があるわけで、Ⅾさんは悩み苦しんだ結果アンチになってしまいました。

 

Ⅾさんに年齢を聞いたわけではないけれど、やり取りをしていてたぶん私の息子くらいの年齢だと思いました。

 

年が離れてアンチだけれど、とても波長が合う人で、楽しくやり取りをしていました。

 

ところが、端から見るとそうは見えなかったようで、後で人から聞いたところ、管理人の3人が私がわざと一人二役で投稿しているのではないかと、疑っていたといいます。

 

私はそんな事を疑われているとは知らず、Dさんと楽しくやり取りをしていました。

 

余談ですが、私は一人二役をやれるほどパソコンの腕をもっていません。

 

今では、忘れてしまったこともあるので、ちょっと違う部分もあるかもしれませんが、大まかなところではあっていると思います。

 

いつも通り投稿していると、内容は覚えていないのですが、管理人の人がある内容に時間の締め切りを決めたのです。

 

そんなことは全く知らなかったのですが、掲示板では私がOKしたことになっていたのです。

 

私は何も知らないうちに管理人が決めたことにOKしたことになっていることに気が付き、これは私を掲示板から追い出そうとしていると気が付きました。

 

私は特別その掲示板に思いがあるわけではないので、出て行ってくれと言われれば、それ相当の理由があれば出ていきます。

 

でも、わけもわからず裏で示し合わせたようなやり方におかしいといったのです。

 

その時に思ったのが、こんなやり方をする掲示板の管理人では私が何を言っても握りつぶされると思いました。

 

私は、結果はどうなっても自分の言うべきことは言うべきだと思っています。

 

これは正当な意見なら当たり前だと思います。

 

それで、以前から隈本確先生のご本である「大霊界」のことを書くブログを書きたいと願っていましたので、これを機会にブログを立ち上げました。

 

私は、そのブログの中で掲示板での出来事をできるだけ客観的に書きました。

 

決して自分に有利に書いたりはしていませんし、感情的でもありません。

 

もしよかったら、そのブログを読み返していただきたいと思います。

 

その時も今もそうですが、その時の管理人の人達に対して悪想念はもっていません。

 

ただ、そういう事を行う人達なんだと思ったし、今もそれ以上でもなくそれ以下でもありません。

 

何よりそこで悪想念を持つことが、自分の魂を汚すことになるので、一瞬何だこれは!と思っても、すぐに気持ちは切り替えます。

 

そりゃ、自分の意見を言う時に、悪想念をもって言うと悪想念だと思いますが、これは私の正当な意見であって悪想念だとは思っていません。

 

もし、私の感情を読める人がいたら、今私が書いているこの私の感情に悪想念があるかどうかみていただきたいと思います。

 

私が今回このことを書くことにしたのは、たいていのことは流しますが、2つ流せないことがあったので書くことにしました。

 

当時の管理人のミスと言われましたが、ミスではありません。

 

意図的に行ったことです。

 

それと、私が正当な意見だと思っていることが悪想念だと言われるのなら、私はどこで自分の意見を言えるのでしょう。

 

自分の魂を高めるという事は、自分の意見も言わず黙って相手の悪意ある行動を見逃し、黙ることではありません

 

相手がいけないことをしたら、いけないという事も大切だと考えています。

 

その管理人の方とはどれくらいでしょうか、掲示板だけのやり取りでした。

 

お互い掲示板だけのやり取りで会ったこともありませんが、そこには人柄というものもある程度はわかります。

 

その方に対して私が感じたのは、先に書いた面だけでなく意志が強く行動力があり、友達思いで子供さんをとても大切にされているという事です。

 

世の中には、子供が困っていても逃げて知らんぷりをする父親というのは、けっこういます。

 

でもその方は、きちんとお子さんと向かい合ってお子さんに寄り添われました。

 

人というのはいろんな面をもっているものです。

 

肉体が無くなって魂だけになった時、人間だった頃よりはるかに長い期間自分の思いだけで生きていくわけです。

 

肉体があれば、人としていろんな人と関わり色んなことがあり、気持ちの切り替えができますし、アドバイスももらえます。

 

でも、魂だけになった時は誰もアドバイスはくれません。

 

全て自分の想いだけで生きていくのです。

 

今から、自分で自分の想いをコントロールできていないと、悪想念を早く良い想いに切り替える力をもっていないと、自分で自分を辛い状態から抜け出すことは難しくなると思います。

 

だから、できるだけ明るく前向きで楽しい想いを維持できるようにしたいものです。

 

謙虚、礼節、敬い、愛、慈しみの心を常に意識をしたいものです。