聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

斉藤さんから隈本確先生へのお便り

斉藤さんから隈本先生へのお便り

 

斉藤さんから隈本確先生に宛てられたです。

 

拝啓、隈本確大先生。

つつしみて、おうかがい申し上げます。

先生のご本「大霊界1守護神と奇跡の神霊治療」を56年11月より拝読させていただき、本当に霊界の最高位の解説書と思いました。

小生ごとき無知の人間でも、深く感じ入りました。

実は、丁度子供の供養後(昭和56年10月18日で一周忌)、先生の書を読ませていただきましたが、ここで、少し当家の事情をご説明申し上げます。

昭和28年12月2日私たち夫婦の次女として生まれた俗名・洋子は55年10月18日午前2時、死亡いたしました。

この頃は体格、容姿とも普通でしたが、知恵遅れでした。

それで、小学校入学を断念し、以降ずっと家庭で保護、養育してまいりましたが、思春期の頃よりてんかんの症状があらわれ始めました。

自分のこぶしで自分の顔や頭を強く打ち、顔中、頭中、髪の毛のある部分も紫色にはれ上がって苦しむこと数年間、その後、51年ごろ全身衰弱で死の淵をさまよよい、今度は一転して植物人間となってしまいました。

そうして、寝ながら夢中で自分の肛門から出るものを体中にこすりつけ最悪の場合には、それを自分の手で口の中に入れるという、全く生き地獄の極みのような状態がかなりの間続きました。

けれども、娘は再び死の淵からよみがえり、太陽の光ある縁側にずしりずしりと這い出してきて、休むようになりました。

でも、長い闘病生活のせいか、この時には腰が経たずに、イザリとなっておりました。

それからおよそ3年の間、両手を固く握って肩には力を込め、真っ青な点を空をにらんでは両手のこぶしもそちらの方向へ差し上げ、何か必死で考えているようなことが、しばしばありました。

言語障害があったため、娘は「カ、カ、カ、タ、タ、ト、ト、ト……」などとしか言えませんでしたけれども、こちらの話すことは何でも分かっているのでした。

また、家族のものが陰でしていることも、心の中で思っていたことも、自分は寝ていても、だいたいわかっていたようでした。

(著者注:洋子さんに内在している魂(生霊)が、全てを理解していたのである)そして、満26歳で亡くなるときは、娘には何の苦もなく、わたくしの手に抱かれ昇天していきました。

以上、ごく簡単に書きましたけれど、わたくしたち家族が、不憫な娘の一生と運命を共にした26年間を振り返りますと、やはり疑問を持たずにはいられません。

普通の人にはない、あれほどまでの悲惨な苦しみのただ中にいた娘—―、いったい、何が原因であのような目にあわなければならなかったのでしょうか。

また、あのように苦しみばかりの生涯を終えて言った娘—―。

一体、どうして生まれてこなけえばならなかったのでしょうか。

わたくしは、娘の死後、これらのことについて深く考え、研究しようと思い、『般若心経』の世界に入りました。

また、その他の仏教関係の本とか神霊関係の本も、ずいぶん読みました。

人間の病苦の原因を解明したい一年で、そんなふうに精神世界の本を読み漁る日々が一年ほど続いておりましたが、道は程遠いように思われました。

先生の著書に出会ったのは、丁度そんな頃でした。

一読して、大変ありがたく、それからは繰り返し、繰り返し、読むようになりました。

そんなある晩のこと、娘の仏前で祈りながら、ふと先生のご本の表紙を見たわたくしは、初め自分の目を疑ってしまいました。

赤で印刷されている表紙タイトルの「大霊界」という文字のうち"霊”の字のみが赤く、"大”と"界”の字は黄金色のまぶしい光で描いたような文字となり、しかも、それが地震のように揺れて見えたのでした。

「おかしい、でも、夢ではない。自分は正気でいるのに……」、わたくしはそう思って、右手で文字の上を何度もこすってみましたけれど、やはり同じでした。

それから約10分間、わたくしはその黄金色の文字を眺めておりました。

おそらく、これは先生の神霊がご本にのり移っておられたのではなかったかと、わたくしは、後から自分なりに、そのように考えました。

現在、わたくしは、娘が霊界で救われますように毎日祈り続けておりますが、わたくしたちのほかにも、世の中にはこのような苦しみを味わっておられる方が沢山いるのです。

何とか、助けたあげたい心でいっぱいです

どうか先生の神霊のお力で、小生の余生に生きがいを与えてください。

ご多忙の御身とは拝察致しますが、心より、お返信をお待ち申し上げております。

                     斉藤 利憲隈本確先生

 

 

   

 

洋子さんのお父様の思いがわかる気がする

 

>人間の病苦の原因を解明したい一年で、そんなふうに精神世界の本を読み漁る日々が一年ほど続いておりました

 

洋子さんのお父様である斉藤氏という人の気持ちが、わかる気がします。

 

洋子さんのご両親も、とても大変だったでしょうに、最後まで娘さんの洋子さんの面倒を見られました。

 

私の姉の場合も、姉が寝たきりになったころから亡くなるまで、母がズーッと付きっきりでした。

 

その頃、父の両親である同居している祖父と祖母、そして父の妹である叔母たちが、さかんに父や母に対して姉を施設に入れるように言っていました。

 

私の姉もこのお話の娘さんも年代的には、同じくらいだと思われますので、施設に入れようと思えば入れることができたと思います。

 

私の母は昔の人ですから、ほとんどのことは理不尽なことでも祖父と祖母のいう事は受け入れてきましたが、姉を施設に入れるという事は、父と共に首を縦に振りませんでした。

 

姉が亡くなるまで、母が面倒を見ていました。

 

当時私は、家から出ていましたので、ほとんど姉の面倒は見ていませんし、母が私を姉には合わせようとはしませんでした。

 

というのは、当時は私も20代半ばです。

 

人生で一番華やかで楽しい時期です。

 

たぶんですが、私は当時はあまりわかりませんでしたが、外から帰ってくるとその雰囲気を持って帰っていたのでしょう。

 

私に会うと姉がものすごく動揺をするというのです。

 

だから母は、私に姉にあわないでくれと言いました。

 

そのため私は、姉の最後の頃のことをほとんど知らないのです。

 

姉も人生で一番楽しい時期を、味わいたかったと思います。

 

でも、どうにもならない、今でも姉のその時の気持ちと、そばで見ていた母の思いを考えると、辛くなります。

 

そういう意味でも、斎藤さんと同じようになぜこの世に病気や障害で苦しむ人がいるんだろう、と心の隅にいつもありました。

 

私が日神会に出会ったのは、次男がきっかけですが、根底には姉の事やその他諸々のこともあったと思います。

 

先程書きそびれましたが、施設に入れることを否定するものではありません。

 

それぞれの考え方もや事情もあります。

 

ただ、当時の父と母は姉を最後まで自分たちが看取りたい、という思いだったのだと思います。