聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

お焚き上げの物品

お焚き上げの物品

 

日神会本部である長崎道場(今は聖地だが、以前は道場)には、神仏像、掛け軸、お札、お守りなどをはじめとしたあらゆる宗教的なもの、神仏具が、多くの方々から持ち込まれています。

 

これらの中には、いわゆる怪奇現象にまつわる物品も多く、要するに、皆、自分ではどのように処理していいのかわからず、隈本確先生のもとへ、お焚き上げをしてほしいという事で寄せられた品々なのです。

 

隈本確先生がそれらの品を霊的に調べてみると、その80%までが悪想念、欲想念など低想念がこもった、言ってみれば妖気漂うものです。

 

しかも、残念ながら、隈本確先生はそれらの中で、これは高い念がこもっている、美しい霊流が流れている、という品にお目にかかったことが一度もありませんでした。

 

しかし、だからと言って、宗教的な品をやたらと恐れるというのは筋違いです。

 

というのも、隈本確先生のもとに持ち込まれた、そのものについて調べてみると、良念にしろ悪念にしろ、そのものを制作し、発行した側の念が封じ込められているというケースは、そう多くはありません。

 

隈本確先生が感じるところ、それらの物品の約半分までに、その所有者、それを祀っていた当人の欲念、怨念、恐怖の念不安の念、呪いの念といった暗い想念がこびりついているのです。

 

そして、ニ割は、他界した人が生前に残していった念がこもっています。

 

また、後の二割には、それを発行した行者、祈祷師、念力層によるなんらかの念が込められています。

 

後の一割は、隈本確先生は何の念をも感じない、つまり、美的価値観はいざ知らず、神霊学的にはただの物体、ただの紙切れという事になります。

 

隈本確先生は、これらお焚き上げとして持ち込まれた品々の一つ一つを手にとり、そこにこもる念、妖気を祓い清め、しかるべく処置をした後、一般の家庭で神具・仏具として使えるものや高価なものであれば、持ち主にお返ししていました。

 

ここで重要なことは、お焚き上げとして持ち込まれた品々のうち、その半数までに祀り主その人の念がこもっているという点です。

 

しかも、当人が処置に困って隈本確先生のところへ持ってくるくらいだから、当然、こもっている念もあまり高級なものとは言えません。

 

世の中には、神社、寺院、墓、そして、それに付随したいろいろな神仏具やお札、お守りのたぐいをやたらとありがたがったり、また逆に、極端に恐れたりする人が多いですが、そのいずれも誤りです。

 

さきほど神社、寺院、墓についてのへ、その実態を明らかにしてきましたが、それでもわかるとおり、それら宗教的建造物のほとんどは、実在する神霊とは無縁の存在です。

 

そうだとすれば、その神霊とかかわりのない神社や寺院が、いくら立派の札やお守りを発行したとしても、それは単なる木片、紙切れにしかすぎません。

 

神仏に関わりあるものとみると、やみくもに畏んだりすることがナンセンスなわけなのです。

 

ところが、多くの人達は、神仏像(新仏画)、宗教的掛け軸、位牌、経巻お札、お守りと聞くと必要以上に尊奉や畏怖の特殊感情を抱き、また、こういう人達に限って、やれ法事だ法要だと言っては様々な宗教的祭式、行事に明け暮れています。

 

次回に続きます。

 

  

 

普段の自分の想念が自分に返ってくる

 

>日神会本部である長崎道場(今は聖地だが、以前は道場)には、神仏像、掛け軸、お札、お守りなどをはじめとしたあらゆる宗教的なもの、神仏具が、多くの方々から持ち込まれています。

 

隈本確先生がそれらの品を霊的に調べてみると、その80%までが悪想念、欲想念など低想念がこもった、言ってみれば妖気漂うものです。

 

とても失礼ですが、私は日神会でお焚き上げをしてくださっていることは知っていましたが、霊的に調べてくださっているという事は知りませんでした。

 

考えてみれば、日神会でなら調べますよね。

 

ぶん、良くない感じがするとか、あの物品が家の中にあるようになってからよくないことが起こるようになったから日神会にお願いをした、という事だろうと思いますので、80%までが悪想念、欲想念などの低想念だと言われると、わかる気がします。

 

.>残念ながら、隈本確先生はそれらの中で、これは高い念がこもっている、美しい霊流が流れている、という品にお目にかかったことが一度もありませんでした。

 

そうでしょうね、良念が流れているものであれば、たぶん、お守りのように扱うので、お焚き上げにお願いすることはないでしょうね。

 

隈本確先生が感じるところ、それらの物品の約半分までに、その所有者、それを祀っていた当人の欲念、怨念、恐怖の念不安の念、呪いの念といった暗い想念がこびりついているのです。

 

何のことはない、それを祀っていた当の本人の普段からの想念が、こびりついていたという事はこわいですね。

 

よく明るく前向きに生きなさいというのは、自分が暗く沈んだ想いをもっていると、その暗い沈んだ想いが周囲の物にもこびりついて、そのこびりついた想いのエネルギーが又自分に跳ね返ってくるから、悪循環ですね。

 

こういう風に言われると、常に明るく前向きに生きようということがよくわかります。

 

気を付けたいものです。

現在の日本のお葬式の形になるまで

現在の日本のお葬式になるまで

 

古来、魂が霊界入りした後に残された遺体の葬り方については、世界各国でいろいろな方法がとられています。

 

例えば、チベットのある部族の間では、遺体をことごとくわしに食べさせるいわゆる鳥葬が行われていますし、インドでは火葬にした後、その灰や骨はガンジス川に流します。

 

また、戦争中よく行われていた遺体を水中に投じて魚類に食べさせる水葬や、遺体を原野や崖など空中にさらして自然消滅させる風葬というものもあります。

 

現代の我が国では、ほとんどが火葬ですが、これはインドの風習が仏教の伝来によって取り入れられたもので、それ以前の日本は土葬が普通でした。

 

ところで、我が国の墓や葬式制度について語る場合、問題になってくるのは死者の霊魂とのかかわりというよりは、このようなしきたりを生み出した社会的背景の方です。

 

というのも、仏教による死者供養を制度化したのは徳川幕府であり、その制度は現代にいたっても、なお脈々と続いているからです。

 

かつて、徳川家を中心とした為政者たちが、現代で言えばさしずめ厚生省的な役割を仏教諸派、および寺の采配にゆだねたに過ぎなかったのです。

 

すなわち、「葬式と、それに付随した法事・法要は寺にて僧侶が行え」。

 

これが、徳川幕府政令でした。

 

そして、仏教系諸派の寺においては、時の為政者から膨大な金銭、物品、土地の寄進を受け、また、檀家に当たる人達に対しては、その境内に先祖代々の墓を立てさせて、永代供養の名目のもとに、金銭的なことも含めて、寺と檀家との絆がガッチリとくみこまれたのです。

 

このように考えてくると、火葬による埋葬法にしてもはこのあり方にしても、日本の歴史を通じて、時の政治と深くかかわり、その一端を担いつつ発展して来た仏教の名残であることが分かってきます。

 

しかし、後に残された遺族にしてみれば葬式いっさいを僧侶、寺に任せることにより、死者の冥福や、さらには自分の悲しみや戸惑いの心までをも僧侶に託して、安堵を持ていたことも事実でしょう。

 

言ってみれば、葬式というもの、取り行う僧侶側も依頼する遺族側も、双方、持ちつ持たれつの関係があるわけです。

 

また、それは、現界人として、やむにやまれぬ一つの終止符のうち方でもあるに違いありません。

 

ただし、そうはいっても、現在の我が国における葬儀屋はこのあり方が、実在する神霊の存在とほとんどかかわりがない、という事実には変わりがありません。

 

 

   

 

 

実家の場合

 

>言ってみれば、葬式というもの、取り行う僧侶側も依頼する遺族側も、双方、持ちつ持たれつの関係があるわけです。

 

この言葉に尽きると思います。

 

いかにも日本人的ですし、こういうやり方は江戸時代から今に至るまで続いてきたものでしょう。

 

これは執り行う僧侶側にも、依頼する遺族側にもお互いにメリットがあったのでしょうが、それは檀家制にしてしまうことにより、新しく信者を増やす必要もないし、減る心配もないという事が、仏教の堕落にもつながっていたのでしょう。

 

徳川幕府というのは、こういうシステムをつくるのがとてもうまい、と思います。

 

お寺にも系統のようなものがあったようです。

 

檀家の家系図もお寺にありました。

 

その家系図というのは、実家の地域のお寺ではなく、その上のお寺にあったようです。

 

その本家(?)のお寺が火事になり焼けて、実家の家系図もなくなったそうです。

 

私の実家は、平家の落ち武者だと母から聞いていますので、途中に何度か途絶えたとはいえ、実家の歴史が分かったら面白かったのに、と残念です。

第二、第三の神社

第二、第三の神社

 

前回の続きです。

 

前回書いた生前、神霊との交流をもちえた高級神霊能力者が人間としての生涯を終えて霊界入りした場合、今度は高級神霊となって、霊界側から人間界側に働きかけてくることがあると書きました。

 

この場合当然、その時点においてはすでに神となっている、かつての高級神霊能力者の御霊をお祀りすることになりますが、そのような社も、もちろん前述と同様の第一の神社ということになります。

 

時代的に見ると、これらの第一の神社とは歴史も相当に古く、作られてから最高で500年以上も経ているものを指しています。

 

現在、こうした超神霊の流れの中にある社はわずかに残存しており、日本各地には、それらの神社ですで実在の神霊との交流をもち続けている神霊能力者も、全くいないわけではないのではありません。

 

しかし、真に実力ある神霊能力者が消滅しつつある現在、この超神道の道も、自然消滅の傾向にあると言わざるを得ません。

 

昔から日本は神の国である、と言われてきました。

 

そして現在、この良き言葉は、もはや、古来の純粋な神の道(超神道)を受け継ぐ人たちにとって、悲願ともいえる言葉になってしまいました。

 

このまま放置しておいたら、早晩、正しい超神道の道は根絶してしまうでしょう。

 

今、宗教を見直し、神霊世界に対する認識を新たにしなければ理由のひとつがここにあります。

 

ちなみに、隈本確先生が打ち出している独自の神霊学も、分類すれば超神霊の系譜に入ります。

 

次に隈本確先生の言う第二の神社とは、各時代における権力者や、政治、経済、文化などとかかわりのあった人たちを祀るために建立された、いわば、その時代における民族の象徴としての神社です。

 

例えば、徳川家康を祀った栃木県日光の東照宮豊臣秀吉を祀った京都の豊国神社、織田信長を祀った京都の建勲神社、あるいは東京にある東郷神社乃木神社などがそれにあたります。

 

次の第三の神社とは、さらに政治色の濃いもので、主に仏教やキリスト教など外来宗教に対抗するために建立されたものです。

 

時の為政者たちには、外来の宗教から庶民の心をそらせるための策として、多くの神社をつくって来たのです。

 

また、文化的、社会的に、民衆の心を一つ所に向けさせ、世情不安の解消をはかるための手段としての豊作商売繁盛などをつかさどる神社も多数つくられたが、それらも、この第三の神社として捉えることができます。

 

こうして第二、第三の神社は、その時代その時代の現界人達の心の模索の表れであっても、真実の神霊世界とは全く無関係の存在だと言わなければなりません。

 

寺院にしても、現在の日本では、仏教諸派の象徴的な建造物、または文化的遺産となってしまっているケースが多いのです。

 

もちろん、中には仏教布教の場として機能している寺もあるでしょうが、そうだとしても、そこにあるのはあくまでも人間と人間との交流であり、人間と神・仏・霊との交流ではありえません。

 

仏教それ自体が、一部のものを覗いて、もともと現界における一つの論理体系である以上、それは当然のことであります。

 

キリスト教の教会にしても、同様であります。

 

要するに、現代の日本を見渡したところ、寺院も教会も、隈本確先生が説く神霊学とは世界が異っており、私達人類の先輩である実在する霊界人とは、あまり関係がなさそうです。

 

 

 

 

 

実家の地域の人社

 

 

>真に実力ある神霊能力者が消滅しつつある現在、この超神道の道も、自然消滅の傾向にあると言わざるを得ません。

 

私が子どもの頃、実家のある地域に神社がありました。

 

子どもだった当時は、神社とはこんなものと思っていましたが、今思えばおかしな言い方かもしれませんが、とてもしっかりとしたいい神社だったと思います。

 

その神社には気が生い茂っていて、神社の境内は真夏でも暑さを忘れるくらい涼しかったことを覚えています。

 

そして、夏休みには毎年子供会で神社の境内の草むしりをしなければいけないことになっていました。

 

みんな大っぴらに文句も言えないので、小さい声でブツブツ言いながら草むしりをしていました。

 

私が、成人したころに母が、あの神社にいらっしゃる神様はとても位の高い神様だと言っていました。

 

その頃の私は、神様には全く関心がなかったので、フーンくらいにしか思っていませんでした。

 

結婚をして子供が生まれて、子供も小学生くらいになっていたので、もう廃校になってしまっていた私の卒業した小学校の跡地を子供に見せようと出かけました。

 

その元小学校の近くに、あの神社がありますので、帰りに寄りました。

 

神社によった私は、神社の変わりように驚いてしまいました。

 

あんなにうっそうと生い茂っていた沢山の木々がほとんどなくなっていたのでした。

 

神社というのは、うっそうと木が生い茂っているものだと思い込んでいた私は、神社の神様に対して申し訳ない想いでいっぱいになってしまいました。

 

思わず神様に申し訳ありません、と言ってしまいましたが、神様からは何の返事もありませんでした。

 

実家に帰ってから弟に、神社にいっぱいあった木が無くなっていて驚いた、と言ったら、弟が言うには、「みんなが忙しくて、お宮さんの世話が大変だから、元から木を切ってしまった」という事でした。

 

弟も、あんまりよくないと思っているようでしたが、地域の人達との話し合いで決まった結果なので、しようがない、という事でした。

 

戦後、神様への意識が大きく変わってしまった結果なのでしょうね。

 

神様を信じなくなったというか、目に見えないものに対しての敬意というものが無くなった気がします。

 

 

 

 

 

 

第一の神社

神社を神霊学的に調べる

 

大小取り混ぜて、日本全国には沢山の神社、寺院があります。

 

山の中腹や道端にある小さな祠、墓碑まで含めると膨大な数になりますが、その実数をつかむことは、個人の力ではほとんど不可能に近い事でしょう。

 

しかし、隈本確先生にとって重要なことは、それらの実数をつかんだり、形骸的に分類をし、その詳細にわたる考察をなすことではありません。

 

実在の神霊を扱う能力者である隈本確先生にとって重要なのは、それら数えきれないくらいに沢山のある神社、寺院、祠、墓碑などに対して、神霊学的なのは、それら数えきれないくらいに沢山ある神社、寺院、祠、墓碑などに対して、神霊学的な解釈を施すことなのです。

 

すなわち、隈本確先生はそれらの宗教的建造物が実在の神霊とどれほどのかかわりをもっているか、また、それらに対して、わたくしたち人間がどのように対応してしていったらいいのか、という事を考えてみたいのです。

 

このあたりのことについて、これまで、全くと言っていいくらいに正しい意見が出されておらず、また、あまり問題にすらされなかったことは、不思議と言えば不思議であります。

 

まず、神社についてみていきましょう。

 

神社を神霊学的にとらえると、三つに大別されるようになります。

 

その第一は、日本古来の精霊崇拝的な神道の流れ上にある神社で、小さな祠や墓碑などでも、この範疇に属する者は案外多いのです。

 

古代、日本人は「魂」「霊」の字で表現されるように、「タマ」「モノ」「ヒ」「チ」とよばれる存在に対して大いなる霊力を感じ取り、信仰の対象としていました。

 

古代人は、実在する霊の力、働きを十分知っていました。

 

隈本確先生は、現在一般的に言われている形式的な神道と区別して、古来伝えられてきた実在の神霊を対象とする神の道を、「超神道」と称しています。

 

しかし、この超神道の流れは、実は日本のみならず、世界各国にもみられることです。

 

それらの超神道に従事する霊能力者たちは、実在の神霊と交流をもち、超自然的な神霊能力を身につけた、                              特殊能力者たちです。

 

つまり、神と人間との間を取り持ち、悪霊の跋扈を調伏し世情の安定をはかったり、病気を治したり、または五穀奉納を願いかけたりするのです。

 

しかしながら、こうした超神道の流れの中にある神霊能力者と言えども、上級者、中級者、低級者と、その能力に差があるのは当然で、各々の能力者は、それぞれの神霊世界の段階に応じた波長同調者だと言えます。

 

そして、これらの神霊能力者のうち上級段階にある能力者が、高級神霊との交信をもつ場合、その祭りごと、神がかりごとを行う社が、ここで述べている第一の神社というわけです。

 

だから、別の言い方をすれば、第一の神社とは、高級神霊が実際にお下がりにある場所という事になります。

 

さらに、生前、神霊との交流をもちえた高級神霊能力者が人間としての生涯を終えて霊界入りをした場合、今度は高級神霊となって、霊界側から人間界側に働きかけてくることがあります。

 

つまり、現界にいる高級神霊能力者を通じて降神し、守護や、色々な託宣をなす側にまわるのです。

 

次回に続きます。

 

 

  

 

 

サイレントイノベ―ジョン

 

>現界にいる高級神霊能力者を通じて降神し、守護や、色々な託宣をなす側にまわるのです。

 

今はもうこの世にいらっしゃらない隈本確先生が、日神会を通じて降神してくださっていることを望みます。

 

今は、日本を初め世界中がどうなるかわからない状態にあります。

 

どうぞ、日本を初め世界中をご守護ご加護ください、とお願いしたいです。

 

今は、混とんとしています。

 

人によってはもう手遅れかもしれない、という人もいます。

 

こういうブログに政治の話は、良くないのかもしれませんが、見ようによってはサイレントイノベ―ジョンがかなり進んでいると言われています。

 

サイレントイノベ―ジョンとは静かなる侵略と言われているものです。

 

サイレントイノベ―ジョンは、早くから気がついている人は、いろんなところで警告を発しています。

 

でも、気がつかない人は日常生活は今までと何も変わらないので、何となく変だなと思っても、忙しい日常で流されてしまう人も多いと思います。

 

そして、早くから気が付いた人は、陰謀論と言われて、気がついている人と気がつかない人との間に時間がたてばたつほど、開きが出てきます。

 

そして、ある日突然その時がやってくるかもしれません

 

さて、今の日本、そして世界はどうなるのでしょう。

 

日本を初め、世界が大きな分岐点に来ている気がします。

 

世界中の人々が、幸せな想いを持って暮らせますように。

 

 

 

 

 

 

 

神霊世界の倫理と人間倫理の両輪で生活

神・仏・霊を拝んでも、金は天からは降ってこない

 

神霊治療の治療についてもそうですが、加持祈祷のような、いわゆる宗教的行為と金銭との関係は、非常に重要かつ微妙な問題であります。

 

のみならず、金銭、物品の授受という事は、神霊を扱う行為、および宗教的行事に関与する依頼人、信者にとっては一番の盲点とも難点ともなっています。

 

隈本確先生が、この調書の後々で述べるように、たぶらかしやまやかしの神仏世界に関するインチキ行為によって莫大な金銭を巻き上げるなどという事があれば、これは当然、神霊世界はもとより、人間世界サイドのみから言っても、まことに悪しき行為と言うべきであります。

 

例えば、先祖供養、因縁解除、浄霊に際して金銭の寄進が多ければ多いほど先祖が喜ばれ救済される、などというのは真っ赤な嘘であり、詐欺的発言です。

 

豪勢なお供え物も、にぎやかで立派なお祭りごとも、実のところ、神霊世界とは一切無関係の事柄なのです。

 

だから、たとえ、あなたが巨額の財産や金銭を奉納したとしても、それは神・仏・霊の世界とはいささかのかかわりもなく、教団なり教祖なり、要するに宗教的行為をなす当事者の人間的にの範囲内にとどまってしまうでしょう。

 

したがって、宗教機関や行者、加持祈禱師、神霊能力者に対する金品の寄進、奉納については、あくまでも人間界倫理のもとで、人間界生活の維持と団体として運営という原則の下に、相互の自然理解のうちに行わなければなりません。

 

もし、供え物や金額が少ないという事で、先祖が助からないとか、病気が治らないなどという宗教関係者がいたとしたら、それは、全くのサギまがいの言いぐさと言うべきであり、それを真に受けてしまった信者こそ、いい迷惑であります。

 

ある宗教団体では、会費の支払いが滞ると、当の信者に対して、やれ先祖供養ができないの、神罰、仏罰があたるだのというそうですが、一部の宗教、および神霊の世界が、目に見えないものを対象としているだけに、こうした嘘八百が堂々とまかり通ることになってしまうのです。

 

そして、ひいては、それが多くのナンセンスな迷信を生み出す温床ともなっていることも忘れてはなりません。

 

だいたい、、会費の滞納などという現界的問題を神・仏・霊の力に結びつけること自体、筋違いもいい所であると言えます。

 

そのような問題は、あくまでも人間界倫理に照らしたうえで決着をつけるべき事柄です。

 

また、組織の幹部となって多くの会員を入会させては擁し、できるだけたくさんの会費を集めて、これ御組織の献上すると功績となり、幸福と平和とが得られるなどという理屈も、全くの人間界再度から生み出された金集めのためのサル知恵というほかありません。

 

しかも、世の中には、こうした金銭や供え物の功績についてうのみにして、全財産を手放してしまったうえに、借金までして寄進を続けた、という人も少なくありません。

 

実際、隈本確先生のもとにも、ある宗教団体や行者のもとで病気が治ると言われて、先祖伝書の土地や建物のほとんどを寄進したのです、がいっこうに病気は良くならなかったと言って、駆け込んでくる人が多数います。

 

しかし、冷静に考えてみれば、借金までして寄進し、奉納し、運勢が好転するなどというおかしなことは、あり得ないはずです。

 

悪徳宗教家や悪徳行者の上手い言葉に踊らされて、こんなことをしていたのでは、その信者は霊界の地獄に落ちずとも、早晩、現界の金銭地獄に真っ逆さまに落ちることになってしまいます。

 

将来のための金銭的備えの財産の全てを失ってしまって、どうして、豊かな人間生活が営めるのでしょうか。

 

隈本確先生が言っています。

 

われわれは現界に生きている人間である以上、神霊世界の倫理と人間界倫理の両輪で生活をしていかなければいけません、と

 

いくら神・仏・霊を拝んだところで、金は天からは降ってきません。

 

土地や、その他の財産も、突如どこからか転がり込んでくるようなことはありえません。

 

それらは、あくまでも、人間界サイドでの営々とした努力の結果プラス神仏のご加護において得られるものなのです。

 

 

 

 

 

今まさに時の話

 

>悪徳宗教家や悪徳行者の上手い言葉に踊らされて、こんなことをしていたのでは、その信者は霊界の地獄に落ちずとも、早晩、現界の金銭地獄に真っ逆さまに落ちることになってしまいます。

 

この話は、今現在起きていることそのものですね。

 

私はテレビ新聞を見ていないので、ネットのニュースで見ている限りでは安倍元首相を銃撃した犯人と言われている山上容疑者の母親が、このケースですね。

 

母親は夫の自殺と、息子(山上容疑者の兄)が6歳の時に小児がんになったことを機に、統一教会に入信しました。

 

その後、夫の死亡保険などを含め、1億円以上を献金してきました。

 

結果、山上容疑者は大学に行きたかったけれどあきらめざるを得ず、高校卒業後、任期制自衛官として海上自衛隊に入隊をして、2005年に自殺未遂を起こしています。

 

理由は、統一教会が原因で兄と妹の生活まで困窮しているので、自分が自殺をして保険金を渡そうと考えたと言います。何ともはや、安倍元首相を狙ったとは言え山上容疑者もずいぶんと追い詰められていたのですね。

 

>悪徳宗教家や悪徳行者の上手い言葉に踊らされて、こんなことをしていたのでは、その信者は霊界の地獄に落ちずとも、早晩、現界の金銭地獄に真っ逆さまに落ちることになってしまいます。

 

まさに現界の金銭地獄に真っ逆さまに落ちてしまいました。こういう話はやり切れません。

 

しかも母親はまだ信仰を続けたいと言っていると言います。

 

私が次男の頭を打つのは霊の仕業ではないかと思っていたけれど、どこにお願いをしていいのかわからず、変なのに引っかかってはいけないとためらっていたのは、こういう事を恐れたからです。

 

それにしても、一度に一億円を寄進したのではなく何回かに分けての話でしょうが、それにしても一度に寄進する金額は相当なものだったでしょうに、そういう時におかしいとは考えないのでしょうか。

 

それが私には謎です。

 

 

日神会の会費が決まるまで

前回の続きです。

 

現実の人間界の日神会の運営にはお金が必要

 

話し合いの結果、依頼人の方それぞれの気持ちで謝礼金を入れていただけるように、治療室に空き缶をおいて賽銭箱としました。

 

そうはいっても、謝礼は強制ではなく、あくまで本人の気持ち次第でしたから、その後も感謝の気持ちだけで帰っていく方(特に、裕福な方に限って謝礼なしで感謝の気持ちだけでケースが多かった)や、百円札一枚を小さく折りたたんでいく方もまちまちでした。

 

中には十年前のお金で十万円を遠慮がちに入れようとする方もあったりして、これには隈本確先生もあわてて、押し返しました。

 

要するに、十万円でも不足ではないかとおどおどと不安そうな様子をする人や、謝礼なしでもおおらかな気持ちで悠々と帰っていく人と、非常に不公平な状態が生じてきました。

 

こんないきさつがあって、昭和50年神霊治療機関として登記を済ませ、正式に日本神霊学研究会として発足したのを機に、会員となっている信者の方々と合議の末、諸会則と共に謝礼金についても限定をつくったのでした。

 

すなわち、供養、浄霊、因縁解除という神霊治療行為に対して、あくまでも妥当と思われる額の謝礼金を受け入れることにしたのでした。

 

ところが、この決定にあたって、信者の一人から次のような質問がありました。

 

「先生、依頼人の方から感謝の気持ちとして差し出す謝礼金であれば、たとえ、一万円でも十万円でも、百万円でも、それを受けて不都合だとは思いません。

けれども、いくら妥当な値であっても、会自体の規定として神霊治療に対して一定の謝礼金を打ち出すことはどうなのでしょうか。

そういう事について、神様はどう思われるのでしょうか。」

 

この意見はもっともであります。

 

確かに、加持祈祷などの宗教的行為とか神霊治療行為には、それ自体を金銭に換算する尺度はありません。

 

しかし、次のような考え方は成り立たないでしょうか。

 

繰り返しになりますが、確かに、いかなる難病を神霊治療で感知させたとしても、その治療行為を金銭に換算することは絶対にできません。

 

たとえ、十年以上にわたる胃潰瘍や偏頭痛治療のために、神霊治療を受ける以前に何十万、何百万という大金を投じていたとしても、そのようなことを神霊治療行為や、いわゆる宗教的行為に対する謝礼金の尺度とはできないのです。

 

また実際に、想念の世界にあられる神霊自体は、金や物品を一切必要としていません。

 

けれども、この神霊治療(浄霊、供養、因縁解除)という行為を法的に登記し、より多くの人々の治療にあたり、又、優れた治療能力者を養成していこうとすれば、当然、治療所というスペースも手に入れなければなりませんし、電話、その他の備品も必要になってきます。

 

さらに、職員の人件費という事も考えなければいけません。神霊治療にあたって、発動される力その者は神霊のお力であるけれど、それを駆使し、行使するのは、あくまでも人間です。

 

いかに超能力者と言えども、肉体をもった人間である以上、飲まず食わずでいきることはできませんし、当然、衣服も居住も必要になってきます。

 

したがって、あくまでも人間世界で妥当と思われる範囲内であれば、神霊治療能力者と依頼人との間に金銭の授受があっても、何ら神霊の世界の法則に反するものではないのです。

 

わたしたち現界に住む人間は、決して神霊世界の法則のみで生活できるものではありません。

 

と同時に、人間性の法則のみで生活することも、決して好ましい事ではありません。

 

要するに、神霊世界の法則と人間世界の法則とが、車の両輪のごとく並行して進められるところに、人間生活の真のあり方があるのではないかと思われます。

 

 

  

 

 

家庭の崩壊を救っていただいた

 

私も隈本確先生が書かれる通りだと思います。

 

正直言うと、日神会の会費や儀式の金額に対してそんなに深く考えたこともありませんでした。

 

確かに神様からお力をいただくことにお金は必要ありません。

 

だからアンチの人達がおかしいと言っていたのかと納得しました。

 

あまり深く考えたことのなかった私は、日神会の会員になりたいというだけで、会費を払わなくちゃ、とか儀式にもお金を払わなくちゃ、くらいにしか考えておらず、アンチの人の言っている事がわかりませんでした。

 

私個人の想いで言えば、我が家が崩壊してもおかしくない状態をここまで平和な家庭になるのに、どれほどのお力をいただいたかわからないので、もっと経済的に豊かだったらもっと寄付をしてもいいと思っています。

 

以前は、どうやって支払おうか、と本当に毎日が自転車操業でした。

 

でも今は、贅沢をしなければ生活ができるくらいになりました。

 

これも聖の親様からのお力をいただいていたからだ、と思っています。

 

それを考えると、現在の金額は安いと思っています。

 

ただこのことに関しては、それぞれ会員さんの考えや思いがあるでしょうから、あくまで私個人の考えです。

神霊治療と謝礼金

神霊治療と謝礼金

 

隈本確先生は昭和50年になるまで、会社経営のかたわら、来る日も来る日も神霊治療を行っていました。

 

その頃から、週刊誌や月刊誌に紹介された隈本確先生の記事を見て、日本全国から続々と治療依頼人が、隈本確先生のもとに詰めかけてくるようになっていました。

 

しかし、そんな状況の中で、神霊治療終了後、依頼人の方々が困惑することがありました。

 

それは、病気快癒の結果に対する謝礼の問題でした。

 

病気快癒後、ほとんどの方々がひどく言いにくそうにしながら、そのことを切り出しました。

 

「あのう、ただいま病気はすっかり治していただきましたが、このように20年にもわたる頑固な偏頭痛と首、肩の凝りを治していただいた先生に対して、お礼はどのようにしたらよろしいでしょうか」

 

多くの依頼人のこうした問いに、隈本確先生は、その都度、商売で神霊治療をしているのではないから謝礼は一切いただかないことにしている、という事を繰り返し言っていました。

 

そうこうしているうちに、隈本確先生の信者的な人が10人、20人、30人と増えていき、それに伴って、神霊治療の依頼人も日を追って多くなっていきました。

 

隈本確先生は、相変わらず謝礼は受け取らないという姿勢を押し通していたのですが、ある時、信者の中の一人が思いあまったような口調で切り出してきました。

 

「先生、今日こそ、はっきりと言わせていただきます。

先生は、事業も順調に言っていらっしゃるし、神霊治療は商売でしているのではないという事で、謝礼を一切受け取られません。

おそらく、それで先生だけはご満足なのだと思います。

人を助けてあげた、難病の人を救ってあげた、という事で、先生のお気持ちは、さぞや晴れ晴れとしたものでしょう。

でも、わたくしたちの気持ちは、いったいどうなるのでしょう。

わたくしにしましても、また、わたくしがお連れする人達にしましても、5年、10年にわたる頑固な病気の持ち主でした。

先生に治していただくまでの間、医者はもちろん、いろんな教団や加持祈祷師のもとをめぐって、時間的にも経済的にも大変な浪費をしておりました。

それが、先生のもとで、あっけないほど簡単に治ってしまいました……

それなのに、先生は謝礼は一切いらないとおっしゃいます。

それでは、私の気もちがすみません。

いや、わたくしだけではありません。

他の信者さん方も同じ意見です。

病気は治してもらったものの、わたくしたちは、一生涯、先生に対して何のお礼もできません。

はっきりと申し上げますと、一生涯、先生に対して借りができてしまったような、重い気持ちです。

わたくしたちの喜びの気持ち、感謝の気持ちを一切受けてはならない――、果たして、それが、先生の神の御心でしょうか。」

 

この信者の発言に思わず面食らった隈本確先生は、さっそく信者の方々に集まってもらい、話し合いをしました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

日神会からはお金に変えられないものをいただいている

 

隈本確先生は、相変わらず謝礼は受け取らないという姿勢を押し通していたのですが、ある時、信者の中の一人が思いあまったような口調で切り出してきました。

 

この謝礼の件で、日神会のアンチの人達が突っ込んでくるときがあります。

 

私も何度か見たことがあります。

 

神霊治療でお金をとるなんておかしい、ああいうものはボランティアで行うものだ、と言っている人がいました。

 

でも、仕事で神霊治療をしていれば、人間世界で生きていると生活をするにはお金もかかるし、日神会としての運営にもお金がかかります。

 

ボランティアで行うことは可能でしょうが、他の仕事をもってボランティアで神霊治療を行うと、どうしても神霊治療を行う時間が短くなってしまうのではないでしょうか。

 

それでは、多くの依頼人を待たせてしまうのではないでしょうか。

 

それに、信者の方が言われるように長年患っていた腰や肩が短時間で簡単に治って、嬉しくて嬉しくて、何とか感謝の気持ちを表したいのに、それが受け取ってもらえないというのは、けっこう辛いものがあると思います。

 

それはよくわかります。

 

金額にしても、私の弟は日神会は高いと言いました。

 

今は言わなくなりましたが、よく言われました。

 

ところが、後で知ったのですが、弟の信じている宗教は日神会よりずっと高かったのです。

 

日神会は家族会員です。

 

年24,000円だったと思います。

 

私も払うとすぐに忘れてしまうのですみません。

 

弟のところは、300,000円でした。弟は、どちらが高いか計算できるはずなのですが……

 

以前私が毎年行っていた時は、最後の方はマルトク会員でしたので、それの他者浄霊治療育成儀式でした。

 

それは当時は120,000円でした。

 

弟のところは、こういう浄霊というものをやっていません。

 

それで日神会は高いというんですから、私の中ではモヤモヤでした。

 

でも、今まで日神会の会員を続けた37年間を思い返すと、どれほど助けていただいたかわかりません。

 

ちょっと具合が悪いと思ったら、即浄霊です。

 

私が日神会の会員でなく、普通に生活をしていたら、何かあるたびに病院に行く時間とお金がかかります。

 

それだけでなく、いろんな心配事や悩み事も今では一人で抱え込んでいるという感じはなく、いつも聖の親様からお力をいただいているから大丈夫、という精神的な安定感があり、いつお迎えがあっても大丈夫、という思いで過ごせるという事がとても嬉しいです。

 

これは、お金に変えられない大きなお力だと思います。