聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

水子霊の障りより、戦争で霊界入りした人を・・・

神霊世界と人間世界の倫理観は両輪

 

隈本確先生は、以前から神霊世界の倫理観と人間世界の倫理観とが車の両輪のように、一体となったところで、初めて人間生活が円滑に進められていく、という事を言っています。

 

想念の世界である神霊世界では、金銭、あるいは金銭によって手に入れることのできる諸々の物質を全く必要としていません。

 

だから、そのような異次元の世界の倫理道徳を物質界である現界に持ってきても、そのままでは人間界では適合しません。

 

それならば、人間は神霊世界における倫理道徳を全く無視して、人間界サイドの倫理道徳のみに従って生きていけばいいのかといえば、それは間違いです。

 

何故なら、私達人間がこの世で味わっている病気、事故、災難など不幸の多くは、神霊世界の働きと密接にかかわりあう事によって生じている現象だからです。

 

隈本確先生がよく言っているように、私達が現界人として過ごすこの世の生活は、人間が霊界入りする前段階におけるつかの間のモラトリアム期間に他なりません。

 

そして、永遠に続く死後の霊界こそが、本当の意味での人間生活(魂だけのとなった人間)の場であるとするならば、全ての限界的発想による道理が、いかに視野の狭い、微小なものであるかがわかるでしょう。

 

霊界の道理は、必ずしも現界のそれとは一致せず、時には、現界人にとって全く理解の範疇にないようなことさえあります。

 

ところで、ここでちょっと日本の歴史を振り返ったところでも、太古より幾多の戦争を繰り返し、日本人同士が殺し合いをしながら今日まで来たのです。

 

他の世界各国にしても同様で、時には政治経済の名のもとに、人間自身の手による殺戮行為が繰り返され、現在に至っています。

 

戦争とは、人間が自らの手で、同じ人間を現界から葬り去るという、なんともやり切れない事態なのです。

 

この日本国内にも、戦争で大切な身内を失ったという方々が、未だに何百万人と生活をしておられます。

 

もし、現代のように水子霊の障りについて、これほどまでにかまびすしく言うのだったら、なぜ、その前に戦争で無残に霊界入りした多数の人達の霊界からの悲痛な呼びかけについては言わないのでしょうか。

 

生木を引き裂かれる想いで愛する夫、家族、身内、恋人、知人の元を離れ、そして再び故国の土を踏むこともなく果てていった人たちの霊の方が、水子霊以上の問題を現界にもたらしそうなものですが。

 

また、愛する家族や恋人を失った遺族側の深い悲しみの念にしても、はかり知れないものがあるはずで、遺族の方々が他界した後には、現界に「水子霊の障り」なる言い草が、いかに理論上の矛盾を起こしているでのであるかがわかるはずです。

 

 

 

 

 

我が家の戦争で亡くなった人達

 

>戦争で無残に霊界入りした多数の人達の霊界からの悲痛な呼びかけについては言わないのでしょうか。

 

言っていないことはありませんが、水子霊の方が金になるから……?

 

と、私の勝手な解釈です。

 

今回の記事とはあまり関係ありませんんが、わたしは時々我が家の戦争に行って帰らない人となった人たちとその親御さんのことを考えることがあります。

 

我が家の夫の両親は、別の所で子供と一緒に暮らしていました。

 

その子供というのは、夫の兄と姉です。

 

我が家は、夫の父親の母親の実家です。

 

実は私、夫の両親が我が家に来るまでの話を理解できるまでだいぶかかりました。

 

つまり私にとっては義父の母親の実家という事です。

 

夫にしてみれば父方のおばあちゃんの実家です。

 

というのは、夫の両親が我が家に来る前までは、我が家には5人の兄妹がいました。

 

男3人と女2人です。男3人は、全員戦争に行きました。普通3人も男の子がいれば、誰か帰ってくると思うと思うのですが、3人とも帰らぬ人となってしまいました。

 

私は今での、このご両親の嘆き悲しみを想うと、本当に辛くなります。

 

そのために、夫の両親が子どもを連れて我が家にやって来たのです。

 

この辺の人達は、戦争で亡くなった人たちがとても多いです。

 

私の実家の方では、ここほど亡くなった人はおらず、もっと沢山の人達が帰って来ています。

 

菩提寺には、それぞれの家のお墓とは別に、戦争で亡くなった人たち一人ひとりのお墓があります。

 

お寺で管理をしてくれています。

 

わたしたちは、春と秋のお彼岸とお盆にお墓参りに行きます。

 

私も毎日、3人の亡くなった方々に霊流を流しています。

 

以前は、暗く思いエネルギーを感じましたが、今はとても輝いて美しいエネルギーを感じます。

 

私達の国を命を懸けて戦ってくださった方々に、感謝をしたいと思います。

 

 

 

水子霊の祟りはない

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

 

水子霊」

 

隈本確先生は、水子霊に関してはあえてスルーしてきました。

 

しかし、それに対してなぜ水子霊に触れないのかいう反論が多く、また、神霊治療の合間に依頼人から受ける質問にしても、水子霊に関することは大変多いのです。

 

例えば、どこかの坊さんや、行者、祈祷師、神霊治療能力者に、「あなたの病気は水子霊のたたりである」とか「あなたのお子さんが不良化したのは水子霊の障りである」と言われたと言って、とても心配をしている人が沢山いるのです。

 

聞いてみると、病気、家庭不和から始まって、色々な事故、事業不振に至るまで、全て水子霊の障り、という事で片づけてしまう行者や神霊治療能力者もいるようです。

 

彼らは、女性の依頼人とみると、二言目には「水子霊の障り」なる霊現象をもち出して、その恐ろしさをこんこんと説いて聞かせるのです。

 

こうして、現在、「水子霊の障り」の宣告を受けた人達の多くは、病苦、家庭の不和、事業の不振などに加えて「水子霊病」とでもよぶべき新しい精神的障害まで負わされて、毎日を不安と恐怖と悔恨のうちに過ごしているのが現実です。

 

身ごもった胎児を、自ら人工的に葬り去ったという母親の苦しみの情念は当然としても、ここに、さらに重視すべき水子霊にまつわる心の病気の問題が生じてきます。

 

はっきりと言って、神霊能力者としての隈本確先生は、基本的に水子霊のたたりの否定論者です。

 

が、隈本確先生はそれを公に打ち出してしまう事によって生ずるかもしれないという社会的混乱と、逆に公にしないことによって現在までに生じている社会的混乱とを考えて、ずいぶん迷いました。

 

はたして、隈本確先生は、水子霊に関する真実のところを語ってしまってもいいもんでしょうか――。

 

しかし、隈本確先生はここにいたって、あくまでも神霊能力者としての立場から、正しい霊かというものを知っていただきたく決意をしました。

 

実際に霊を扱う神霊能力者として、すでに社会的に大きな関心事となり、もはやスルーはできないと判断したのです。

 

そこで、隈本確先生が今まで一度も触れることのなかった水子霊について、これから述べていく予定です。

 

 

  

 

 

便利な3大憑依霊

 

水子霊」出ましたね。

 

何かと言えば「動物霊」「色情因縁」、次は「水子霊」この3つを使えば最強ですね。

 

これからの時代は、時代にあったもっと別の○○霊というのがでてくるかもしれませんね。

 

女性には「水子霊」、後は適当に「動物霊」と「色情因縁」を合わせて使うと便利です。

 

目に見えないからもっともらしい顔と言い方で、何とでも言えます。

 

これに引っかかった人は、本当に心配でしょうね。

 

私の母は、水子霊はお祀りをしてはいけないと言っていました。

 

というのは、お祀りをしてしまうとこの世に未練を残すからと言っていました。

 

同じような理由で、亡くなった動物もお祀りをしてはいけないと言っていました。

 

最近は亡くなったペットを供養する人も多いのですが、どうなんでしょう。

 

この理由は、母はこんなことを言っていましたが、水子霊のたたりの否定論者の隈本確先生は何と言われるのでしょう。

 

 

 

断食

断食の功罪

 

迷信というと語弊がありますが、ここで断食について少々考えてみたいと思います。

 

隈本確先生は、基本的に断食否定論者で、よほど特別の場合を除いては、「美味しくて栄養価のあるものをどんどん食べよう」という持論を貫いています。

 

隈本確先生のもとに寄せられた治療依頼人からの報告によると、断食をしたおかげで心身が爽快になり、体調が良くなったという報告もありますが、全く、その逆の報告も数多くあります。

 

すなわち、断食終了後から急速に低級霊媒体質(低級霊に憑りつかれやすい体質)に陥り、体のあちこちが痛み出したうえに、精神状態までおかしくなってきたという人も多いのです。

 

断食のおかげで、一方には健康になった人たちがいますが、一方には不健康になり、強度の不安感、恐怖感に悩まされ、毎日の生活もままならぬようになってしまった人たちがいるわけです。

 

隈本確先生の見聞きしたところでは、このように功罪半々の報告データをもっている場合、隈本確先生としては罪の方を重くみなければならないと考えます

 

したがって、隈本確先生は依頼人に対して断食や、その他の特殊な食餌療法を一切勧めていないのです。

 

 

 

  

 

 

娘の場合

 

断食。

 

私の娘は長い間一人住まいをしています。

 

娘は、私から見たらそんなに太っているとは思いません。

 

標準だと思います。

 

ところが、若い人にとっては標準では嫌なのです。

 

娘もそうでした。

 

いろんなダイエットをしては挫折をしていました。

 

一人暮らしをしているので、親の私は娘がどんな食生活をしているのかあまり知りませんでした。

 

自炊をしていることだけは知っていました。

 

仕事には自作の弁当をつくっていっていることも知っていました。

 

いつごろからか娘は、少しずつ痩せてきました。

 

親の私から見ても、標準だと思っていましたが、痩せてくると今までより色んな洋服を着られるようになって、おしゃれに磨きがかかってきました。

 

本人も希望通りの体形になり満足をしているようです。

 

どうしたのか聞いてみると、プチ断食をしているとのことでした。

 

一週間に一日(週に2日まではOKと言っていたと思う)だけ食事をとらない日をつくるのだといいます。

 

本人は、体調もいいようです。

 

こういう断食というのは、隈本確先生的にはどうなんでしょうか?聞いたみたいものです。

 

今年も一年このブログを読んでいただきありがとうございました。

 

来年こそ良い年でありますように。

 

 

人間界の知恵より霊界の知恵

霊界の知恵と人間界の知恵

 

隈本確先生のことです。

 

隈本確先生が主催する会の会員の一人が、隈本確先生の手元を見て、不意に「アラッ、先生!」と言いました。

 

それから、さも「しまった、これはいけない」といった顔つきをして、さらに、隈本確先生の指先をジーッと見ているのです。

 

「なんですか、福田さん」

と、隈本確先生が問いかけると、福田さんは、困ったように口ごもりました。

 

「いえ……、でも、先生なら大丈夫でしょう」

 

「何が、私なら大丈夫なのですか」

 

「はあ、実は、その指輪が……」

 

ぼそぼそとそう言いながら、福田さんは、なおも隈本確先生の指先を見つめています。

 

それは、隈本確先生が愛用している金製のもので、隈本確先生自身のせいを彫り込んだ印鑑型をした指輪でした。

 

「実は、先生、名前の彫ってある、そういう印鑑型の指輪には良くないのですよ。

でも、それも、先生なら大丈夫だと思いますが」

 

福田さんは大まじめにそんなふうに言ったのですが、これには、隈本確先生は苦笑してしまいました。

 

福田さんの言葉によれば、名前を彫り込んだ印鑑型の指輪というのは運勢上に良くない影響を及ぼすとのことでしたが、隈本確先生は、その意味するところが全く理解できませんでした。

 

一体、どうして名前を彫った印鑑の指輪に、個人の運勢を悪くする働きがあるのでしょう。 

 

印相学によっているのだか何だか知りませんが、実際的な根拠もない、そのようなことを意に介するすることはありません。

 

どうしても気になる人は、良くないと言われているものをわざわざしなくてもいいでしょうが、自分がその指輪を気に入っているのだったら、全く問題はありません。

 

現に、隈本確先生は、福田さんにそのことを指摘されてからも、ずっとその指輪を愛用していますが、隈本確先生の身辺に悪いことは何も起こっていません。

 

又世の中には、姓名判断によって名前を変える人も非常に多いのです。

 

高い命名料を払って、長年なじんできた名前をわざわざ変えるのです。

 

厄介なことです。

 

確かに、姓名の自覚によって運命を割り出していく姓名判断の場合、数多くの具体例にあたり、データをそろえていけば、統計的に一定の確率を示す数字が出てくるはずです。

 

がそこには、それが統計によるものであるという以外の根拠は何もないのです。いわゆる占いと言われる運命学全般について、隈本確先生は、専門外です。

 

しかし、隈本確先生は仕事柄、しばしば運命学をしているという人に病気治療依頼及び種々のアドバイスを頼まれる機会があります。

 

姓名判断にしても、四柱推命、易、気学にしても、それぞれ長い歴史と伝統とをもつ学問です。

 

隈本確先生は、あながち、そのすべてを否定しようというものではありませんが、言えることはいかなる運命学も人間の知恵の世界から生み出された学問であるという事であります。

 

したがって、高いご守護神をいただき、高級神霊と常に波長の合った生活をしている人達にとっては、姓名判断も印相も家相も、無意味と言えば無意味であります。

 

要するに、高き神霊の働きは一般運命学で測れる範囲を大きく超えてしまっているのです。

 

それは、霊界の知恵と現界の知恵の差でもありましょう。

 

かつて、高名な占術家が、隈本確先生に言いました。

 

「いかなる的中率を誇る運命学(占い)でも、高き神霊の力に歯が立ちません。

わたくしたち運命学の専門家は、高き神霊を扱う方たちの運命は鑑定しえない、という事をよく承知しております。

何故なら、あらゆる戦術の上を行くのが神霊の力であり、それは、しばしば先天的な運命を変えてしまう強大な力をもっているからです。」

 

 

 

 

 

六曜を気にする知人

 

>あらゆる戦術の上を行くのが神霊の力であり、それは、しばしば先天的な運命を変えてしまう強大な力をもっているからです。」

 

これは、私も本当だと思います。

 

詳しくは書けませんが、本来ある人が行くだろうと思っていた道が、長い間超神霊エネルギーを流し続けているうちに、その人にとって一番いいであろうと思われる方向に変わったことがあります。

 

これしか書けないので、この記事を読んでいる方には何がが何だかわからないでしょうが、隈本確先生が言っていることを、私は身近で見ることができました。

 

これとは関係のない話ですが、カレンダーによく六曜というものが書いてあります。

 

あの大安だとか仏滅とか書いてあるものです。

 

以前にも書いたことがあると思うのですが、私の知人にその六曜にものすごくこだわる人がいます。

 

私は、そういう事はほとんど気にしたことがありません。

 

でも、人によっては気にする人もいるので、一応時によっては相手にとって失礼のないように気を付けてはいます。

 

知人は、良くないことがあると仏滅だといったり、三隣亡だと言ったり、忙しいです

 

だから私は、知人に仏滅だといっても、日本中の人が悪いことが起こるわけではないから、そんなに気にすることはないのではないか、と言ったことがありますが、知人にはその六曜が染みついているようで、抜けないようでした。

 

知人を見ていると、失礼ですが、自ら自分を不安にしているようにも見えました。

神社や寺院で売られているお守りやお札はファッション

今はお守りはファッション?

 

迷信に類することで多いのが、神社や寺院で売られているお守り袋のたぐいを車の中につるしたり、首からかけたり、場遇の中に入れて持ち歩いたりすることです。

 

これは若い人の中にも大変多く、最近ではお守り袋も、マスコットとアクセサリーとを兼ねて用いられてさえいるようです。

 

が、そこまで言ってしまえば、迷信というよりもはやファッションと言うべきです。

 

そして、ファッションだとすれば、それはそれでよろしいのです。

 

神社や寺院で売られているお守りやお札、その他の縁起物のにしても、実在する神霊とはかかわりがなく、神の霊流の痕跡すらないことが普通です。

 

だから、所有者本人が変に想いをかけたり、こだわったりしない限り、何ら問題はありません。

 

あなたが、適当に処分してしまっても構いません

 

しかし、中には、今でも後生大事に常にお守りの護符のたぐいを、アクセサリーとしてではなく身につけている人もいます。

 

ある時、夫婦と子供二人の計四人で神霊治療にみえた一家もそうでした。この一家は、隈本確先生のところへくる以前に、やはり長崎にある某祈祷師のところに通っていたとか言う事で、家族全員が白い布切れに経文を書いたものをお腹に巻き付けて、へそのあたりで結んでいるのでした。

 

「ほら、このとおり」と言いながら、ご主人が太鼓腹を突き出して、ひものような白い布切れの結び目を見せてくれたのですが、隈本確先生は、その時思ったのです。

 

これは、大人はまだいいとしても、小さい子供さんにとっては大変困ったことなのではないか、と。

 

「お嬢ちゃん、身体検査の時恥ずかしくない?」

 

隈本確先生がそう言うと、その小さなお嬢さんは黙ったままかたをすぼめるようにして、いかにもきまりわるそうなようすをみせていました。

 

すると、わきからお母さんがのりだすようにして、こういいいました。

 

「実はそれなんですよ。

もう、身体検査を一番イヤがるんです。

何だ、何だ、どうしたのかってみんなから聞かれて、ジロジロ見られるといって、大変イヤがるんですよ」

 

隈本確先生は思わずふきさしてしまいました。

 

その無意味さについて、じっくりとお話したところ、家族全員、笑いながらその場で経文の腹巻を解いてしまいました。

 

 

  

 

 

伯父の話

 

>最近ではお守り袋も、マスコットとアクセサリーとを兼ねて用いられてさえいるようです。

 

私も口に出したことはないけれど、周囲の人達が何の抵抗もなく簡単にお守りを付けていることに驚ろいていました。

 

子供にもランドセルや首にかけさせたり、子供も何の抵抗もなくどこの神社のお守りだよ、当然のようにいっていました。

 

私の住んでいる隣町には、全国的にも有名な神社があります。

 

そのせいか、この近辺の人達も初詣とか、何かあればその神社に行く人が多いのです。

 

それはそれでいいのですが、私は小さい頃から母から、お守りはやたらあちこちのものを複数持ってはいけないと言われていました。

 

そんなせいもあって、あまり人にあげたりもらったりしないようにしていました。

 

中には、いろんなところのお守りをもっている人がいましたので、思わず「大丈夫?」と言ってしまったことがあります。

 

「え、何が?」と言われ「何でもない」と返したことがあります。

 

実は、母の長兄が亡くなってから聞いた話ですが、伯父はずいぶん沢山のいろんなところのお守りをもっていたようです。

 

伯父の家では、いろんなもめごとが多く大変な状態でした。

 

伯父はおそらくそれを何とかしたくて、行くところ行くところでお守りを買っていたのではないかと思われます。

 

そして、伯父はとてもまじめで優しい人でした。

 

私の勝手な想像ですが、そのお守り一つ一つにお願いをしていたのではないかと思っています。

 

伯父は自転車に乗っていた時に道路から土手に転がり落ちて頭を打ち、そのまま意識が戻らず亡くなったのです。

 

車にぶつかったのではないかと、警察でも伯父の自転車にぶつかったであろう車の塗装がないか調べても見つかりませんでした。

 

伯父の亡くなり方は、あまりよくわからないままなのです。

 

母が言っていたのは、もしかしたら、いろんなところのお守りを集め過ぎたのではないかと、言っていました。

 

これはあくまで、母と私の想像です。

 

本当のことはわかりません。

 

伯父は父とも子供の頃からの幼馴染で仲が良く、毎日私の実家に来ては、話をしに来ていました。

 

亡くなって数日してから、私の実家に顔を出しに来たと母と弟が言っていました。

 

伯父は私の実家に来ると、決まって「来たよ」と言って家に入ってきました。

 

亡くなった後に私の実家に来た時も「来たよ」と言っていたと、母と弟が言っていました。

 

伯父も苦労をするために生まれてきたのではないかと思うほどの人生でしたが、伯父はいつも穏やかで優しい人でした。

 

私は、伯父に霊流を流しました。

 

今伯父を思い浮かべると、とても温かい波動を感じますので、きっと今は良いところに行っているのだと信じています。

 

 

 

リューマチの原因が意外

意外な原因

 

隈本確先生がまだ一人ひとりの依頼人に、病気の要因である憑依霊の様子について多少とも説明をしていた頃のことです。

 

長崎の治療所に、全身リューマチで七年間苦しみ続けているという中年の女性・宮脇容子さんがやってきました。

 

彼女の言うところによると、発症してからの七年間、立ち振る舞いもままならないほどの体の痛みで、食事の支度はおろか、時には自分の下着類までご主人や家族に洗ってもらわなければならないような状態が続いているというのです。

 

もちろん、病院へも通ったけれど、それもあまり効果がなく、今日まで来たというのです。

 

そこで、隈本確先生がこの宮脇さんの霊障について霊視してみると、「五島」という文字が霊視に映ってきました。

 

長崎県の五島です

 

「宮脇さん、あなたは五島におられたことがありますか」

 

この隈本確先生の問いに、彼女は答えました。

 

「はい、私の主人は警察官で、あちこち転勤になりましたけれど、五島にも二年ほど住んでおりました」

 

それから、隈本確先生は、さらに霊視を続けました。

 

すると、隈本確先生の心眼には、畳にして十畳くらいと思われる小ぢんまりとした神社が、ありありと映ってきました。

 

隈本確先生は、宮脇さんに再び聞きました。

 

あなたが住んでいた五島の近くに、畳十畳分くらいある神社がありませんでしたか」

 

「はい、確かに、そのような神社がありました」

 

「あなたは、その神社で何かしましたね」

 

え、はあ、それは……、お参りに行ったり、お祭りに行ったり。

でも、何も失礼になるようなことはしなっかったと思うのですが……」

 

宮脇さんは、隈本確先生の問いに、とまどったような不審そうな顔つきをして、一瞬言葉を切って再び続けました。

 

「あの神社について、一番よく覚えていることといったら、年一度のお祭りです。

その日は村中が総出で、神様にお酒やお赤飯、そのほかいろいろなご馳走をお供えをして、お祈りするのです。

それから、祈願が済むと、私達は、その神社の境内でにぎやかに酒盛りをして、歌ったり踊ったり、一日を楽しく過ごすのが習慣になっていました」

 

……とそこまで宮脇さんの話を聞いていた隈本確先生は、あることがピンときました。

 

「あ、わかりました。ちょっと、待ってください」

隈本確先生は、またしばらく霊視を続けてから、彼女に告げました。

 

「宮脇さん、内容を説明しまとですね、そこの神社の神様がハラを立てているんですよ。

ものすごい形相で出てきて、怒っています。

“余の神前で、よくも、この人間・凡夫めらが飲み、食い、かつ踊り狂いまわって!!”

と、このようなことを言っているわけです。

そして、その神の怒りが、あなたの全身リューマチとなってあらわれているのです」

 

それから、隈本確先生は、その神社の神を隈本確先生の体に呼び込んで、こんこんと戒め、説得し、それまで宮脇さんの体に流していた万力のような怒りの呪力を、全て引き上げさせたのです。

 

当の宮脇さんは、隈本確先生の思いもよらない内容にびっくりしていたようですが、何よりも全身リューマチの痛みが、二回の神霊治療でほとんど消滅してしまったことで大喜びをしていました。

 

とかく人間は、お祭りだ、お祭りだと言っては、飲んだり食べたり踊ったりして、自分たちが喜んでいるのだから神様もお喜びだろう、などと虫のいいことを考えがちなものですが、実際に、宮脇さんのようなこともあるのです。

 

繰り返しになりますが、私達は、神霊世界というものが人間世界とは全く異質の世界であることを、深く知らなければなりません。

 

また、すでにご存じの方もいると思いますが、迷える低級霊ほど人間界に近づきたがるものです。

 

だから、人間界側で執り行う祭りごとにいろいろと感応してくる霊ほど、未浄化な低級霊であるという事も言えます。

 

このような場合には、高級霊能者に依頼し、その霊の霊界での向上をはかってもらうと、現界に表している色々な霊現象は解消されます。

 

 

  

 

 

神霊の世界と人間の世界は全く異質

 

>私達は、神霊世界というものが人間世界とは全く異質の世界であることを、深く知らなければなりません。

 

この結果には驚きます。

 

以前から隈本確先生は、神霊世界と人間世界は全く異質の世界だという事は、繰り返し言われています。

 

こういう事なのですね。

 

それにしても、まさか7年もの間苦しみ続けたリューマチが、神社の神様のお怒りに触れたことが原因とは、宮脇さんも驚かれたことでしょう。

 

でも現実には、7年もの間苦しみ続けたリューマチが治っているわけですから、真実なんですよね。

 

こういう神霊世界と人間世界の違いというのは、人間界では全くと言っていいほど認識されていません。

 

未だに神霊の世界の話は、一般には言いにくい雰囲気があります。

 

おそらく言っても、残念ながら信じてもらえないでしょう。

 

実際には、宮脇さんのようなことが原因でに痛み苦しみながら病院に通っても治らないでいる人は、けっこうの人数の人がいるのではないかと想像しています。

 

霊界の話とか宗教の話というだけで、拒否反応を示す人もいます。

 

こういう人達は、死後の世界をどう考えているのか気になります。

ごく少数の国だけで信じられている霊的習慣のほとんどは迷信

人間界と霊界とは大きく違う

 

一般に根強く流布されている迷信のうち、すでに動物霊と色情因縁については、見てきました。

 

隈本確先生の目から見て迷信と思われるものは、まだまだ無数あります。

 

例えば、病気や事故の原因を家相や墓相のせいにするなども、日本と、その他のごく限られた国でのみ信じられている悪習なのではないかと思っています。

 

隈本確先生は、常々言っているのですが、日本だけとか、あるいは、ごく少数の国だけで信じられている霊的習慣のほとんどは迷信にすぎないのです。

 

それから、世間一般で行われている法事、法要、その他の祭祀にしても、実在する神霊とはあまりかかわりのない単なる習俗である場合が多いのです。

 

のみならず、現界人の行う祭りごとは、霊界人にとってはしばしば迷惑のタネとなることさえあります。

 

他界した霊魂は、一日も早く霊界での新しい生活になじみ、人間界から遠く離れる事によって、助かり、向上していくものなのです。

 

そうだとすると故人を愛するあまりに、現界に残された人間が嘆き、悲しみ、故人に強い想いを馳せるという事は、かえって、霊界で向上しようとしている霊魂の後ろ髪をひくことにもなってしまいます。

 

法事や法要を行う事で、身内が一堂に会し、その融和を図るのが目的だというのなら話は別ですが、とにかく、人間界と霊界とが全く違った世界であるという認識をもっていないと、大きな混乱を引き起こすことになります。

 

何よりも、人間界で楽しいと思われる盛大な祭りやその他の行事が、霊界人にとっても楽しい事だとは限らないのです。

 

 

  

 

 

法事、法要は習慣

 

>例えば、病気や事故の原因を家相や墓相のせいにするなども、日本と、その他のごく限られた国でのみ信じられている悪習なのではないかと思っています。

 

私もこういうことは、隈本確先生の書かれている通りだと思います。

 

>世間一般で行われている法事、法要、その他の祭祀にしても、実在する神霊とはあまりかかわりのない単なる習俗である場合が多いのです。

 

私も、法事や法要は、内心は必要がないと思っています。

 

でも、一般的には習慣として行われていて当たり前になっているので、その習慣に反対をしてまで異を唱える必要もないと思っています。

 

私などは、実家と離れていますので、法事を理由に姉弟が揃うのもいいのではないかと考えています。

 

それにしても、夫の兄弟は皆県内にいるのに、法事という建前がないと集まらないという……情けない状態です。

 

もう、義母の3年も過ぎたので、こちらも声をかけなくてもいいか、と思いました。

 

それに関しても何も言ってくる気配もないようなので、まあ、いいかなと……

 

>故人を愛するあまりに、現界に残された人間が嘆き、悲しみ、故人に強い想いを馳せるという事は、かえって、霊界で向上しようとしている霊魂の後ろ髪をひくことにもなってしまいます。

 

この件に関しては、生前母が同じことを言っていました。

 

母は、仏教を信じて日神会を知らない人でしたが、日神会と同じようなことを言っていることがありました。

 

人が亡くなっても、特に火葬場では泣くな、と言いました。

 

亡くなった人が成仏ができなくなるから、と言っていました。