神霊世界と人間世界の倫理観は両輪
隈本確先生は、以前から神霊世界の倫理観と人間世界の倫理観とが車の両輪のように、一体となったところで、初めて人間生活が円滑に進められていく、という事を言っています。
想念の世界である神霊世界では、金銭、あるいは金銭によって手に入れることのできる諸々の物質を全く必要としていません。
だから、そのような異次元の世界の倫理道徳を物質界である現界に持ってきても、そのままでは人間界では適合しません。
それならば、人間は神霊世界における倫理道徳を全く無視して、人間界サイドの倫理道徳のみに従って生きていけばいいのかといえば、それは間違いです。
何故なら、私達人間がこの世で味わっている病気、事故、災難など不幸の多くは、神霊世界の働きと密接にかかわりあう事によって生じている現象だからです。
隈本確先生がよく言っているように、私達が現界人として過ごすこの世の生活は、人間が霊界入りする前段階におけるつかの間のモラトリアム期間に他なりません。
そして、永遠に続く死後の霊界こそが、本当の意味での人間生活(魂だけのとなった人間)の場であるとするならば、全ての限界的発想による道理が、いかに視野の狭い、微小なものであるかがわかるでしょう。
霊界の道理は、必ずしも現界のそれとは一致せず、時には、現界人にとって全く理解の範疇にないようなことさえあります。
ところで、ここでちょっと日本の歴史を振り返ったところでも、太古より幾多の戦争を繰り返し、日本人同士が殺し合いをしながら今日まで来たのです。
他の世界各国にしても同様で、時には政治経済の名のもとに、人間自身の手による殺戮行為が繰り返され、現在に至っています。
戦争とは、人間が自らの手で、同じ人間を現界から葬り去るという、なんともやり切れない事態なのです。
この日本国内にも、戦争で大切な身内を失ったという方々が、未だに何百万人と生活をしておられます。
もし、現代のように水子霊の障りについて、これほどまでにかまびすしく言うのだったら、なぜ、その前に戦争で無残に霊界入りした多数の人達の霊界からの悲痛な呼びかけについては言わないのでしょうか。
生木を引き裂かれる想いで愛する夫、家族、身内、恋人、知人の元を離れ、そして再び故国の土を踏むこともなく果てていった人たちの霊の方が、水子霊以上の問題を現界にもたらしそうなものですが。
また、愛する家族や恋人を失った遺族側の深い悲しみの念にしても、はかり知れないものがあるはずで、遺族の方々が他界した後には、現界に「水子霊の障り」なる言い草が、いかに理論上の矛盾を起こしているでのであるかがわかるはずです。
我が家の戦争で亡くなった人達
>戦争で無残に霊界入りした多数の人達の霊界からの悲痛な呼びかけについては言わないのでしょうか。
言っていないことはありませんが、水子霊の方が金になるから……?
と、私の勝手な解釈です。
今回の記事とはあまり関係ありませんんが、わたしは時々我が家の戦争に行って帰らない人となった人たちとその親御さんのことを考えることがあります。
我が家の夫の両親は、別の所で子供と一緒に暮らしていました。
その子供というのは、夫の兄と姉です。
我が家は、夫の父親の母親の実家です。
実は私、夫の両親が我が家に来るまでの話を理解できるまでだいぶかかりました。
つまり私にとっては義父の母親の実家という事です。
夫にしてみれば父方のおばあちゃんの実家です。
というのは、夫の両親が我が家に来る前までは、我が家には5人の兄妹がいました。
男3人と女2人です。男3人は、全員戦争に行きました。普通3人も男の子がいれば、誰か帰ってくると思うと思うのですが、3人とも帰らぬ人となってしまいました。
私は今での、このご両親の嘆き悲しみを想うと、本当に辛くなります。
そのために、夫の両親が子どもを連れて我が家にやって来たのです。
この辺の人達は、戦争で亡くなった人たちがとても多いです。
私の実家の方では、ここほど亡くなった人はおらず、もっと沢山の人達が帰って来ています。
菩提寺には、それぞれの家のお墓とは別に、戦争で亡くなった人たち一人ひとりのお墓があります。
お寺で管理をしてくれています。
わたしたちは、春と秋のお彼岸とお盆にお墓参りに行きます。
私も毎日、3人の亡くなった方々に霊流を流しています。
以前は、暗く思いエネルギーを感じましたが、今はとても輝いて美しいエネルギーを感じます。
私達の国を命を懸けて戦ってくださった方々に、感謝をしたいと思います。