この世はテレビの画像のようなもの
唯物論者は、自分の目に見え、耳に聞こえる世界、または手や足で触れてみて実際に感じられる世界しか信用しようとしません。
華やかな物質文明の世に飼いならされてしまった現代人の多くがそうです。
彼らは、無意識のうちに唯物的思考を身につけてしまい、普通、人間の五感、知覚では感知できないもう一つの世界の存在を、ほとんど忘れてしまっているか、さもなければ、あっさりと否定し去っているのです。
しかし、少なくとも、すでに「大霊界」の本を手に取って読み始めている人は、この現象界と表裏一体をなしているもう一つの世界、すなわち霊界というものに、かなりの興味と関心をもった人のはずです。
分けても、これまでに、すでに隈本確先生の著書である「大霊界」シリーズの他の何巻かを読まれた方々であれば、もはや、霊界の実在を疑うようなことはないでしょう。
—―そう、この世は、丁度テレビの画像のようなものなのです。
そして、もちろん、電波が霊界にたとえられるのです。
放送局から私達の家まで送りこまれてくる電波は、色も形も見えません。
また、電波を直接とらえることもできません。
しかし、テレビの画面はどうでしょうか。
スイッチを入れて、チャンネルを合わせれば、時には外国の風景が目の前に繰り広げられ、時には、目の前で野球や大相撲の熱戦が繰り広げられていたりします。
もちろん、アイドル歌手の歌声だって、かなりの臨場感で楽しむことができるのです。
テレビに関する限り、そのすべてが、言ってみれば電波の働きが前提となっています。
そして、そのことを、今の世の中で否定する人がはたしているでしょうか!
もちろん、いないはずです。
現代科学の力によって生まれたテレビは、そのメカニズムがはっきりとわかっているから、画像を結び、音声が送り出されてくることを誰も不思議だとは思いません。
世の唯物論を信奉する人々も、これには大納得、というわけです。
ところで、話を元に戻して、この現象界がテレビの画像の様なものだとしたら、当然、その背景には、電波のような働きをもった存在がなければなりません。
それこそが、霊波とか霊流といわれるものであり、それすなわち、目には見えない霊界の存在を意味しているのです。
だから、この世は「現世」=「現し世(うつしよ)」などといって、現界は単なる霊界の投映ににすぎないのだ、というような意見まで出てくるのです。
お墓を考える
さすが、元で電気屋さんです。
見事なまでに表現をされています。
今回は、お話とは関係のない話です。
今日、ご先祖様のお迎えに行ってきました。
そうです、お墓参りです。
最近は、年齢的なこともあって、墓終いの話もちらほらと耳にするようになりました。
子供さんが数人いても、全員が遠くに住んでいて、すぐには帰省できないという人たちが多いのですが、子供さんが近くにいてもお墓は作らず、共同墓地のようなところにして、管理はお寺に頼むという人もいます。
他国はわかりませんが、この国がドンドン今までの家族という形が変わってきていることを感じます。
この現象が将来的には良い事なのか、悪い方に向いているのかは私にはわかりません。
墓終いをするということも子供に負担をかけたくない、という思いが強いようです。
という事は、墓参り=負担という考えなのでしょうか。
日神会の会員信者の方々は、常に先祖様を意識の中にあると思います。
しかし、一般に宗教というものに距離を置いている人達が多い中で、どれくらいの人達が自分がいずれは先祖様の中の一員になるという事実を意識をしているのでしょう。
お墓参りは、ある意味そういう事を考える時間でもあるのではないかと、私は考えています。
若い頃はほとんど意識もしなかったけれど、自分の身近な人や親族があの世に旅立つことによって、遠かったお墓が決して遠いものではない、時には亡くなった親を感じることもあると思います。
親は子供のためを思って行うお墓も、果たして子供のためになっているのか、今一度考えたほうが良いのではないかと考えます。