子供の非行を考える
心身に何の異常な変化もなく、なおかつ非行に走る子供は、どうなっているのか、数にしてみればこちらの方がずっと多いはずです。
隈本確先生は、神霊能力者でありながら、一般青少年の非行問題については、この際ひとまず、霊と切り離して考えるべきことだと言っています。
霊の実在を信じる人の多くは、とかく、現象界の出来事の全てを霊の作用であると思いがちのようです。
もちろん、この世が霊と人間との共同生活の場であればその意味において、現象界の出来事の全ては霊と関連しているでしょう。
しかし、だからと言って、全ての現象を霊にゆだねてしまったのでは、人間自身の主体性というものは、いったい、どうなってしまうのか、社会人としても自己のあり方を忘れて、ひたすら霊を追い求めることは、霊の存在をかたくなに否定するのと同様に片手落ちの考え方だと言わなければなりません。
非行問題を考える時、私達は、家庭、そして国家、社会というものに目を向ける必要があります。
家庭については後で述べるので、ここではまず、国家、社会ということについて考えてみましょう。
現在の我が国の憲法は自由と平等を基本とする民主主義が、その根底を貫いています。
話が急に憲法にまで飛躍してしまいましたが、憲法についての詳しい解釈、説明は専門家にお任せするとして、ここでは、憲法に謳われる自由と平等ということについてちょっと考えてみたいと思います。
自由と平等――、いかにも耳障りの良い言葉ですが、内実はどうなっているのでしょうか。
隈本確先生は、この自由と平等というあたりに、非常に難しい問題が内蔵されていると言っています。
まず、自由ということについてでありますが、全ての国民が自由に己の欲求を満たそうとし、己の欲求を満たそうとし、それが無制限に突き進んでいけば、国は大混乱に陥り、ついには崩壊してしまうでしょう。
また、平等という事をあくまでも追及していこうとすれば、どうしても個人の自由を阻まれ、ひいては国家の発展もおぼつかないことになってしますでしょう。
すべての平等が、ときには人の心を無力にし、怠け者にしてしまうことだってあり得るのです。
平等を謳う社会主義国の農業、工業の不振がそのことを顕著に裏付けています。
次回に続きます。
自由と平等の矛盾
>隈本確先生は、この自由と平等というあたりに、非常に難しい問題が内蔵されているといいます。
私も戦後生まれなので戦後しか知らないけれど、戦前戦中を知っている母は、時々戦後の日本を嘆いていました。
あまりに自由自由と、自分の自由ばかりを主張をし過ぎだと言っていました。
もう一人、母と同じことを言っている人がいました。
私が小学5年と6年の時の担任だった先生です。
自由自由だというけれど、確かに自由はとても良いものです。
けれど、誰かの自由のために他の誰かの自由が損なわれることがあるから、自分の自由だけでなく他の人の自由も考えなさい、と言われました。
確かにその通りだと思いました。
もう一つの平等です。
共産主義というのは、確か自由より平等を選んだはずなのに、なぜかとても貧富の差が激しいのです。
お隣の大きな国を見ていると、自由主義の我が国より貧富の差が激しくなっています。
矛盾していませんか?