聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

自由と平等は相いれない

耳障りの良い自由と平等

前回の続きです。

 

世界的に見るならば、自由主義陣営が自由を謳歌してひた走ったがゆえに生じた社会的乱れ、そして、社会主義陣(共産圏)の平等という思想に裏打ちされた農業、工業、科学の生産性の不振から生じた国民生活の貧困という、この二つの難題が控えています。

自由と平等という言葉には、いかにも美しい響きがありますが、社会が現在のような状態である限り、自由ということも平等ということも、その実体を知れば唖然とするような言葉であります。

本来、自由と平等というものは、相いれない性質をもったものです。

何故ならば、社会が自由であればあるほど平等の原則は崩壊し、一方、社会があくまでも平等を追及していくところには自由の原則が成り立たないのですから――。

ところで、隈本確先生は、このようなことを書きながら、果たして、一神霊能力者である自分にこのような問題について論じる資格があるのだろうかと、先ほどから懸念しています。

しかし、隈本確先生がもっぱらとしている神霊の世界の問題以外にも、人間の想念世界にはこのような問題が現実にあります。

そして、それが、私達人間の生活にいかに大きく作用しているかということも、隈本確先生は、ここで言いたかったのです。

現在の日本は、物騒になったとはいえ、世界の各国よりはまだまだ治安も良いし、そのうえ、言論の自由も保証されています。

ウサギ小屋に住んでいるとはいえ、飢えに苦しむようなことはありません。

確かに、住みやすい、恵まれた国といえるかもしれません。

しかし一方で、目を覆いたくなるほどの凶悪な事件も増えつつあります。

マスコミは、こぞってフリーセックスを謳歌しています。子供のいる茶の間に、寝室に、どんどんポルノが、暴力が映像となって、本となってなだれ込み、親の立ち入る隙も与えません。

また、自由な発言はしばしば常軌を逸して、親と子供の立場が逆転してしまってしまったのではないかと思わせるようなことさえあります。

例えば、昔は親に対して面と向かって反抗をする子供などいませんでしたが、今の子供は、自分の納得がいかなければ親に対してでも平気で犯行をします。

中には、親に対して暴力をふるう子供すらいます。

学校内でも、教師を呼び捨てにし、果ては教師を殴る中高生までいる始末です。

根本的に、子供も親と平等性とも教師と平等なのだから、自由に自己主張をしてもよいと、そのような風潮になってしまっているのです。

自由と平等とを標榜する民主主義は、確かに個人にとっては福音でありました。

しかし、社会全体から見れば、それは必ずしもすべてに福音とはならず、一歩間違えば、いたずらに社会や家庭、職場を混乱させる魔の思想ともなりかねないのではないでしょうか。

机上の空論ではなく、現代の日本を見渡したところ、残念ながら、隈本確先生にはそのように思えるといいます。

このようなことを考えると、一口に社会の乱れと化非行といっても、それが非常に根深い問題であることがわかってきます。

社会風潮という国民全体の思考や社会環境については、神霊一辺倒ではなく、あくまでも冷静に現実を見つめる目をもたなければならない理由がここにあります。

 

 

  

 

 

物騒な世界

>本来、自由と平等というものは、相いれない性質をもったものです。

 

ごもっともです。

今ならよくわかります。

私は、このご本を買って読んだときは政治や社会情勢に全く興味がなく、今の目の前の生活に追われていっぱいいっぱいでした。

政治や社旗情勢に関心が出てきたときには、隈本確先生は今の日本や世界の状況をどう見ておられるんだろう、と思っていました。

もうこの時には、書いておられたんですね。

とても失礼ですが、この内容は全く覚えておりません。

 

>物騒になったとはいえ、世界の各国よりはまだまだ治安も良いし、そのうえ、言論の自由も保証されています。

 

当時より今はもっと物騒になっていますが、世界が日本と同じように治安が悪くなっているので、日本は未だに世界的に見ても治安が良いです。

 

>こぞってフリーセックスを謳歌しています。

これは最近になって知りましたが、これは仕組まれたものだと言われています。

ほとんどの人達が気がついていませんが……

こういうことに対しては書きたいことが沢山ありますが、長くなるのでここでやめておきます。