聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

現界の生活は来るべき永遠の霊界での生活に備えてのもの

現界での生活は何のため?

 

隈本確先生の寄せられる読者からお便りの中に、次のような内容のものが時々あります。

 

隈本確先生の本を読ませていただくと、人間界での生活わずか50年から100年そこそこ、これに対して死後の霊界での生活は、数千年数万年続くと書かれている。そして、われわれ人間は、その霊界での生活のためにこそ、現界で心・魂の清浄化をはからなければならないという。それでは、我々は霊界での生活のために、この人間界に生まれてきたのであろうか。もし、そうだとすれば、この人間界というのはなんとつまらない世界であろうか……」とこのようなお便りです。

 

ところで、こうした疑問こそが人間の心の存在、さらには霊界というものを認めない唯物的思考に思われると、隈本確先生は言っています。

 

そして、人間の心や霊界の存在を認めようとしない唯物的思考をもっと推し進めていくと、逆に、人間界でのすべての倫理・法則が崩壊し、この世の中は大混乱をきわめることになってしまうでしょう。

 

たとえば、「なにも働かないで自由に遊びたい」「自由に上手いものを飲み食いしたい」「自由に自分の気にいった家に住みたい」「自由に金を使いたい」「自由に自分を飾り立ててみたい」「自由にセックスを楽しみたい」という事になって、要するに、人間として生きている間、現世で何でもかんでも自分の思い通り自由になったら、どんなに楽しいだろうか、という思考になってくるのです。

 

もちろん、先に上げたような内容のお便りを寄せられる方の全ての人がそうだというのではありませんが、唯物的思考をずっと推し進めて、さらに極端な言い方をするとそんなふうになります。

 

わたしたちは子供の頃から、法的に定められた義務教育というもののおかげで、イヤでイヤでたまらない勉強をさせられてきました。

 

もちろん、中には勉強が好きだという子供もいますが、とにかく現在の日本人は、当人が勉強を好きか嫌いかなどという事にはいっさいかかわりなく、小学校、中学校と最低9年間は、学校に通うことが義務づけられています。

 

しかし、考えてみれば、その義務教育のおかげで日本の知的レベルは高水準に保たれていますし、何より、当人が大人になってから立派に社会人として活躍し、生活をエンジョイするための支柱ともなっているわけです。

 

映画に出てくるターザンの子供が、またオオカミ少年が急に都会にやってきたらどうなるんでしょうか。

 

あるいは、未だに科学文明とは縁ない未開社会の人達が、不意に文明年に出現させられたらどうでしょうか。

 

おそらく、一日だって自分の力で生活していくいことはできないのではないでしょう。

 

また、親は子供のために、四苦八苦しながら毎日働いています。

 

春、夏、秋、冬のそれぞれに合わせて衣食住を整え、子供の元気な成長を願いながら働いています。

 

でも、実はそれは子どもたちと過ごす日々を安全に楽しく、できる限り自由に過ごすための苦労であり、労働であるとも言えます。

 

そうしてみると、どうやらこの世の中自由を得るためには相応の不自由さを味わなければならないところのようです。

 

しかも、未来におけるより多くの自由と楽しみとを確保しようと思えば、過去および現在における多くの努力と精進が必要とされます。

 

このような現界における"自由とそれを得るために必要な不自由さ”という図式は、そのまま、現界と霊界の在り方にも適用されるのです。

 

わたしたちの将来には、必ず霊界での生活が控えていればこそ、人は全てに自由を求める心、思い通りにふるまいたい心を制覇して、魂の向上をこそはからなければならないんのす。

 

わたしたちが限界人として過ごすこの世の生活は、人間が霊界入りする前段階のつかの間のモラトリアム期間なのです。

 

そして、この時期に私達人間は、来るべき永遠の霊界での生活に備えて、十分に魂を向上させて置かなければなりません。

 

その魂の向上は、時として現界での鮮烈な苦しみを甘んじて受けることによって達成されることもあります。

 

しかし、そのようにして現界で課せられた過酷なまでの試練を乗り越えた魂は、肉体を去って霊界入りした暁には、一路、きらめく霊界の高みに向ってずんずん進で行くことでしょう。

 

今回は長くなったのでこれだけにして、いつもの私の独り言は次回にします。

 

そして、私の独り言だけになります。