聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

神棚や仏壇は神仏の象徴

神棚、仏壇は霊界や先祖に対する一つの指標

 

これまでの隈本確先生の説明を読んできて、神社、寺院、墓を初めとして、神棚、仏壇、その他諸々の宗教的物品にいたるまで、それが、私達人間にとって全く無価値なものと思っているとしたら、それは少々いきすぎです。

 

悪念のこもった物品は論外として、例えば家に祭っていある神棚にしても仏壇にしても、それは神仏の象徴であり、現界人としてにとっては霊界や先祖に対する一つの指標としての役割を果たしているのです。

 

隈本確先生がよく言われているように、霊界の存在なくして人間界が成り立ちえないのだとしたら、わたし達人間は、よくよく霊界というものを心にとめながら生活をしていかなければなりません。

 

ですが、人間は、仕事やら日常生活のいろいろな事柄に心を奪われやすく、とかく、目に見えない霊界や守護神の存在を忘れがちです。

 

そうだとすれば、当然、人間生活の中でに霊界も必要になってくるでしょう。

 

神棚、仏壇、墓、お札などは、私達が諸々の現世的雑事に振り回されている毎日の中にあって、わずかな時間でも霊界や先祖に対して想いをはせ、守護神とより強くコンタクトするための指標物として意味を持っているのです。

 

したがって、このような観点から見て、現在、一般によく言われている神棚や仏壇を置く場所やあるいは墓相のあれこれなど全くこだわる必要のない事であります。

 

のみならず、そのようなことにとらわれるということ自体が、すでに当人が迷信の世界に陥っていることの証拠であり、まさに地獄の窯の蓋をあけつつある心の姿勢と言うべきです。

 

やれ墓のつくりや石の色がどうの、立派な神棚、仏壇できちんとお祀りしなければご先祖が喜ばない、などの言いぐさは、真実の霊界とは縁もゆかりもない、それら祭式行事に関わる商売人、事業形の欲に目のくらんだたぶらかしの発言にほかなりません。

 

神棚、仏壇、墓などが、私達現界人にとって霊界に想いをはせるための指標であれば、それらのものに対しては、あくまでも日常生活に支障をきたさない範囲内で、常識的に対処しなければならないはずです。

 

神・仏・霊に関する一般人の知識不足に付け込んで、とことん甘い汁を吸ってやろうという宗教産業に携わる一部の人達のたちの悪さには、あきれ返るばかりです。

 

一般人の神・仏・霊についての無知が迷信を生み出す格好の温床となり、さらに、その迷信をさかんに鼓吹して金儲けに奔走する地獄の亡者がいます。

 

迷信に踊らされたあげくの果てに破滅した人が、現界で生きながら地獄を体験するとすれば、迷信をからめ手にとって金もうけをする人々は、さしずめ、地獄の使者というべきでしょう。

 

地獄とは、すでに現界に存在している世界でもあります。

 

 

   

 

 

最近のお墓事情

 

>例えば家に祭っていある神棚にしても仏壇にしても、それは神仏の象徴であり、現界人としてにとっては霊界や先祖に対する一つの指標としての役割を果たしているのです。

 

確かにそうだと思います。

 

神棚や仏壇は、古くからある家ならあると思いますが、新しい家庭の場合は、ある特定の宗教を信じていないおうちの場合は、そういった類のものは一切ないおうちの方が多いのではないでしょうか。

 

最近私が気になっていることがあるのですが、私達の年代の人達が行う人が多いのではないかと思いますが、墓じまいをする人が増えています。

 

その他には、新しい家で自分たちが初代と言われる人たちの家庭ですが、家の墓というのではなく、一定期間お寺に管理をお願いをして、その後は無縁仏のような形になるというものです。

 

今は、他にもいろんな形のお墓があるようです。

 

隈本確先生がよく言われているように、霊界の存在なくして人間界が成り立ちえないのだとしたら、わたし達人間は、よくよく霊界というものを心にとめながら生活をしていかなければなりません。

 

今では私はテレビ新聞は全く見ていませんが、見ていた頃、墓じまいをしている人の様子を放送しているのを見たことがあります。

 

色んな終活があるものだと思いながらテレビを見ていた時に、ある若い人の体験談を言っていました。

 

両親共に、先祖の墓参りに大変な思いをしたからでしょう。

 

両親は、子供たちが遠くにいるし、お墓参りに大変な思いをしないようにと先祖からのお墓も墓じまいをして、自分達もある一定期間だけお寺に管理をしてもらって、後は無縁仏にしたというものでしたが、子供の立場からすれば、その期間を過ぎた後は、親と向き合いたくても向き合う場所がなくて困ったという話を聞きました。

 

長い人生の間、遠くに離れているとお盆だ御彼岸だと言われてもなかなか帰省ができず、罪悪感が残るという思いもあったのかもしれませんね。

 

でも、あそこには両親がいる、と思うだけで安らぐという事もあったかもしれません。

 

私の場合は、今の家も実家も先祖代々の墓があり、そんな心配もありませんが、新しくお墓をつくらなければいけないとか、子供たちも遠くにいてお墓参りもままならない、という場合だと、考えてしまうかもしれません。