聖の親様と共に2

初心に帰って初代会長の隈本確先生の教えである「大霊界」の御本に沿って、日常の生活や日頃私が思っていること感じていることに絡めて、書いていきたいと思います。

形式にとらわれると心の自由を失う

祈りは深い想いの世界

隈本確先生の霊流をひいて行う自己治療、他者治療にかぎらず、およそ神霊に関するすべての事柄に共通していることは、最終的には当人の心の在り方(想いの技術)のみが問題になってくるということです。

だから、あまり形式的な儀式にとらわれたり、肉体を苦しめて行にとらわれると、かえって心の自由を失って、真実の神霊の力を仰ぐことができなくなってしまうのです。

いろいろな形式的儀式や行が意味を持つとすれば、それは、神に対する正しい心の在り方を作り出すうえでの助けとなりえた場合だけなのです。

隈本確先生は『大霊界』シリーズを通して、いろいろな宗教的儀式や行について批判的なことを言ってきましたが、現在の日本を見渡したところ、あまりにも華麗にして空虚な、形骸化した儀式ばかりが目についたので、それを率直に言ったまでなのです。

豪華な儀式や立派にしつらえられた祭壇に付きまとう金銭や物品は、神の世界とは全くかかわりない現界的事象にすぎませんし、立派な祭壇をつくり、豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、派手な儀式をするだけの金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになってしまいます。

しかし実際には、そのようなことは決してあり得ません。

なぜならば、想念(波動)だけの存在である高級神霊は、やはり人間の想念(心)だけにしか感応しないからです。

隈本確先生が、しつこいほどに「想いの世界」という言葉を繰り返すのは、それが高級神霊の世界そのものであるからです。

隈本確先生は、自分の守護神本尊に対して、形式的な祝詞をあげたり、その他の儀式を行ったことは一度もありません。

また、朝夕の祈りにしても、特別に衣服を着替えてするなどということはありません。

ただ、心の中に内在させた守護神本尊に対して、想いの世界で、深い深い祈りをささげるばかりです。

神棚や体の姿勢、特別な衣服は、単に深い想いの世界での祈りを助長させる手段にしか過ぎないのです。

頭から水をかぶり、どのように斎戒沐浴したところで、この肉体を持った人間・凡夫、汗はすぐに出てくるし、体の中にはいわゆる浮上物も入っています。

要するに、形式にこだわりすぎることはナンセンスだ、ということです。

 

次回に続きます。

 

 

      

 

 

アカシックレコードの切り替えの浄化

 >豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、派手な儀式をするだけの金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになってしまいます。

 

この言葉は、私の心にグッと入ってきました。

そうですね、豪華な儀式を執り行うことで高級神霊が喜ばれるとしたら、金持ちは高級神霊に愛でられ、金銭的余裕のない人たちは、神に愛でられないということになりますね。

普段、そんなことを考えたこともありませんでしたが、そういうことになりますね。

改めて考えさせられました。

 

最近届いた会報に、アカシックレコードの切り替えの浄化というのがありました。

そんなことを考えたこともありませんでしたが、そんなことが可能なのですね。

アカシックレコードの切り替えの浄化をするには、一度霊界に行かなくてはいけないそうです。

ということは、死ぬということだそうです。

完全に魂の尾を切っていくのだそうです。

会報に書いてある内容を少し書きます。

半月前から御神事が来ていたそうです。

アカシックレコードの能力が欲しいのでしたら、こちらに来てください。出ないといただくことはできません」

「そうしないと授かることはできません。決めるのはあなたです。あなたが決めてください」とはっきりおっしゃったのです。

「わかりました。死ぬこともありますか?」と問うと、

「当然あります。あなたが(命が)持つかどうかです」。

「わかりました。お伺いいたします」と言って決死の覚悟でいただきに行ってきたのです。

とあります。

命がけですね。

私のような凡夫にはわかりませんが、以降に期待をしたいと思います。